「私の愛する子」
2025年8月31日礼拝式説教
マルコによる福音書9章2~13節
主の御名を賛美します。
1、主イエスの変貌
前回、マルコによる福音書では8:29のペトロの信仰告白の後の8:31から後半に入りまして、十字架に向かって進まれるという話をしました。十字架に向かわれるに当たりまして、そのことを弟子たちに理解させる必要があります。そこで六日の後、主イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。
六日の後というのは、1節のことから六日の後ということですので、これから起こることは1節の内容と関わるものです。この3人の弟子は弟子の中の3役のような存在です。他の弟子たちは14節を見ますと他のことをする役割がありました。
弟子の3人が主イエスと一緒に行ったのは、律法によって、証人の証言は二人または三人を必要とする(申命記19:15)ためでもあるようです。彼らが登った高い山は、彼らがそれまでいたフィリポ・カイサリアから北東に約20キロ離れた標高二千八百メートルのヘルモン山のようです。
ヘルモン山に降り注いだ雨は地中に染み込み、フィリポ・カイサリアの辺りで水源地として地中から溢れ出します。主イエスの恵みを注がれて来た弟子たちを代表してペトロが8:29で、「あなたは、メシアです」と告白しました。先週はフィリポ・カイサリアの辺りの水源地の水はやがて死海へ至るように、ペトロの告白は十字架の死へ続いて行くという内容でした。
今日はその告白を遡ってヘルモン山を登って元を辿るとどのようになるのかという内容です。すると、彼らの目の前で主イエスの姿が変わり、衣は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ぼぬほどでした。山の上は聖書で神と出会う場所です。主イエスの姿が変わられたことを変貌と言い、変貌されたヘルモン山が変貌山と言われます。
姿が変わったといいますと、何か変わった姿のようになる感じます。しかし、旧約聖書や黙示録を見ますと、むしろ光り輝く姿が主イエスの本来のお姿のようです。普通の人間の姿は、この世に来られて人間に合わせた、こちらが変わったお姿のようです。
2、私の愛する子
すると、預言者エリヤがモーセと共に現れて、主イエスと語り合っていました。エリヤは預言者の代表です。モーセは旧約聖書の初めから5つの律法であるモーセ5書を書いた人として律法を象徴する人です。3人は預言と律法を成就される主イエスの御業について語り合っていました。
ルカ9:31は、「主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた」と言います。もしも自分がそのような場面に立ち会うことになったとしたらどうでしょうか。驚くどころではないでしょう。弟子たちは非常に恐れていました。ペトロは、どう言えばよいか分かりませんでしたが、口を挟みました。
原語では、「ペトロは答えて言った」とありますので、ペトロは御業に対して何かを答えなければと考えたのかも知れません。取り敢えずペトロは、「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために」と言いました。
幕屋を建てるといいますのは、記念してという意味もあるかも知れませんが、幕屋は神のお住まいですので、神的存在のような三人の住まいのためというような意味があったのでしょうか。深い意味は無いようですが。
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から、「これは私の愛する子。これに聞け」という声がしました。雲は神の臨在を現すものですので声は神の声です。主イエスは父なる神の子であるという宣言と、それ故に聞き従いなさいというご命令です。
主イエスはこのような場面になぜ3人の弟子たちを立ち会わせられたのでしょうか。弟子たちの教育のためと思われます。弟子たちを代表してペトロが主イエスに8:29で、「あなたは、メシアです」と信仰告白をしました。その信仰告白自体は立派なものですが、その理解は群衆と変わりありません。
それはメシアはこの世の支配者となってローマの支配から解放をしてくれるというものです。十字架で殺されて、三日の後に復活するという預言は意味の分からないことです。そこで弟子たちに栄光の姿を見せられ、また父なる神も御声を聞かせられたのでしょう。なぜそこまでされるのでしょうか。
主イエスは父なる神のお独りの子という意味で、「私の愛する子」です。その自分の愛する子に聞きなさいということです。ところで、弟子たちを含めて私たち人間は、神のかたちに造られたものです。そして主イエスを信じることによって、私たちも神の子とされて、父なる神の愛する子とされる者です。
父なる神は私たち人間を愛されるが故に、救うために愛する独り子を十字架に付けられます。「これは私の愛する子」という言葉は直接的には主イエスを指すものですが、すべての人に向けられた言葉でもあります。そして愛する子とされるためには、主イエスに聞けと命じられます。
3、死者の中からの復活
一同が山を下っているとき、主イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに命じられました。これは弟子たちを含めてすべての人々がメシアに対して、この世の支配者となるという間違った期待をしているからです。
そのときに、主イエスは確かにメシアであることを公けにしてしまいますと大きな混乱を招いてしまいます。しかし死者の中から復活された後には、メシアの御業として語る必要があることです。弟子たちは主イエスのこの言葉を心に留めはしましたが、その意味が分かりませんので、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合いました。
主イエスの十字架による死と復活について、現代の私たちには聖書が纏められていて、神学的な解説もありますので分かり易くなっています。しかし当時はそのようなものがありませんでしたので、理解をするのが難しかったと思われます。
私たちは主イエスが十字架に付けられて殺され、三日目に復活されたことを知っています。それで、8:31や9:9で主イエスが殺された後に復活すると言われる意味が分かります。そうしますと弟子たちは何度も言われているのに、どうして分からないのだろうと感じてしまうかも知れません。
しかしある出来事が起こる前と起こった後では理解の仕方が大きく変わるのかも知れません。東日本大震災やその後の原子力発電所の事故の前と後では、地震、津波、原発の事故の恐ろしさの理解は大きく変わったと思います。主イエスの十字架の前の人たちは死者の中からの復活という意味がピンと来なかったのでしょう。
当時の人たちにとって分かり辛い、死者の中からの復活のような、現代に相当するものは何かといいますと、主イエスが再びこの世に来られる再臨のように思います。再臨があるということは聖書にはっきりと何度も書かれています。しかし私たちにはそれがどんな感じで起こるのか、今一つ、ピンと来ない部分があります。
しかし、後の時代の人たちから見ますと、再臨があるとあれだけ聖書にはっきりと書かれていたのに、現代の人たちはどうしてはっきりと理解していなかったのだろうと思われるかも知れません。勿論、まだ起きていないことは分からない部分も多くあります。しかし、聖書に書かれていることはきちんと受け止めて備えていたいと思います。
4、エリヤ
弟子たちは主イエスがメシアであると思っていますが、メシアの到来について良く分からないことがあります。それは律法学者が、まずエリヤが来るはずだと言っていることです。これはマラキ3:23、24で預言されていることです。弟子たちは律法学者が、なぜ、そのように言っているのでしょうかと主イエスに尋ねました。
律法学者の言い分としては、まずエリヤが来るはずなのに、まだ来ていません。それで、エリヤの前にメシアが来るはずはないので、主イエスはメシアではないという理屈です。それに対して主イエスは、その預言は正しく、順序とおりにエリヤはすでに来たのだ、そして、彼について書いてあるとおり、人々は好きなようにあしらったのであると言われます。
これはエリヤは洗礼者ヨハネのことであり、ヨハネは無実にも関わらず、人々は好きなようにあしらいました。そして6:27で、ヘロデ・アンティパスによって首をはねられました。そしてこのことはエリヤである洗礼者ヨハネだけに起こることではありません。ヨハネが道備えをしたメシアも同じ道を歩まれます。
人の子であるメシアも多くの苦しみを受け、蔑まれるとイザヤ53章にはっきりと書かれています。それが父なる神の愛する子の生き方です。それで弟子たちはそのような場面に出会うことになりますが、心の準備をしておきなさいと、主イエスはこれから繰り返し何度も語られます。
そしてこれはエリヤとメシアだけが歩む道ではありません。8:34で主イエスが、「私の後に従いたい者は」と言われたように、主イエスに従う者は主イエスと同じ道を歩むことになります。そしてそれは苦難だけで終わる道ではありません。必ず復活があります。
それは主エスが十字架によって私たちの罪の代価を払ってくださっていますので、主イエスの復活の命に与るからです。復活は場合によってはこの世で与ることもあります。それは肉体的な命の意味での復活というよりも、精神的な意味で死んでしまったような人生からの復活という意味においてでしょうか。
もしそうでなくても、この世の後には必ず永遠の命に与ることになります。それは主イエスを信じる者は、神の愛する子とされるからです。先週の8:35にありましたように、主イエスのため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救い永遠の命に与ります。それが神の子とされる一番、幸いな歩みです。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは十字架に向かわれる前に、弟子たちが躓くことのないように、ご自身の栄光の姿を見せられ、父なる神の御声を聞かせられました。しかし私たちは自分の知らない、これから起こることを理解するのは難しいものです。聖書には分かり辛い部分もありますが、神に信頼し、神の愛する子として幸いな歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。