「すべての人に仕える者」 

2025年9月14日礼拝式説教 
マルコによる福音書9章30~37節
        
主の御名を賛美します。

1、受難と復活の2回目の預言
一行はそこを去りました。そこというのは8:27のフィリポ・カイサリアと思われます。そしてガリラヤを通って行きました。それは丁度、ヘルモン山に降り注いだ雨がフィリポ・カイサリアで湧き水となって溢れ出しヨルダン川となって、まずはガリラヤ湖に注いで行くようです。

しかし、主イエスはご自身のことを人に気付かれるのを好まれませんでした。その理由は31節で、「弟子たちに教えて、『人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである」と言います。これは8:31に続いて2回目の受難と復活の預言になります。

受難と復活は弟子たちには分かり難いことですので、繰り返して話されます。ただ受難の話だけを繰り返しますと弟子たちが受け止めきれませんので、間に変貌山での栄光の姿を見せて、汚れた霊を追い出し、弟子たちが預言を受け入れ易いように配慮をされているようです。

預言は同じ内容を繰り返しつつ、少しづつ話を発展させて行きます。前回の預言と比べて、今回の預言の発展的な内容は、受難は、「人々の手に渡され」て行われることです。「人々の手に渡され」と言われますと誰の手に渡されるのだろうかと思います。

「渡され、殺され」は受身形で書かれています。これはセム語と言われる言語の用法で、受身形で書かれた文章の主語となる主体者は誰かを問うものです。その直接的な答えは3回目の受難と復活の預言である10:33で知らされます。しかしこれらの出来事の背後には、すべてを支配されておられる神によって、人々の手に渡されるということを、受身形の文章は表しています。

受難と復活が人に気付かれるのを好まない理由と言われましても、少し分かり辛いかも知れません。二つのことが考えられます。一つ目は人々は救い主はこの世の支配者となって、ローマの支配から解放してくれることを期待していますが、主イエスは人々の手に渡されて殺されます。そこには大きなギャップがありますので混乱を避けることが一つ目のことです。

二つ目は、主イエスは間もなく殺されていなくなりますので、今は他のことに時間を取るのではなく、それに備えて弟子の教育に専念をする必要があります。

弟子たちは主イエスの言葉の意味が分かりませんでしたが、怖くて尋ねられませんでした。意味が分からなくても主イエスが殺されるというのは恐ろしいことです。主イエスが殺されるなら弟子である自分たちはどうなるのかという思いもあったのかも知れません。人は自分に都合の悪いことは知りたくないものです。

2、すべての人に仕える者
一行はカファルナウムに来て家に着きました。この家はペトロの家と思われます。主イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになりました。主イエスは全知全能の神ですので、何を論じあっていたのかはご存じです。このときのニュアンスは、幼い子どもが何かいたずらをしたときに、親は全てを知っているけど子どもに、「何をしていたの」と聞くようなものです。

彼らは黙っていて何も答えませんといいますか、答えられません。道々、誰がいちばん偉いかと言い合っていたからです。そのようなことを主イエスに答えられません。受難と復活の預言の後の話は3回とも同じような内容になっています。預言の後に弟子たちは自己中心的な勝手な話をします。

特に2回目と3回目は自分が偉くなろうとします。主イエスがご自分を捨てて、十字架に付かれるのとは正反対の姿です。弟子たちは主イエスが殺されると聞いて、そうするとその後は誰が一番偉いことになるのかということに関心が移ったのでしょうか。恐ろしいことです。

主イエスは3回ともその後に、主の後に従う道を語られます。主イエスは座って、12人を呼び寄せられました。座って教えるのは当時のラビの習慣で、これから大切なことを教えられます。弟子たちは立っていたと思われます。大切な話は立ってではなく、座ってじっくりと行うのは世界各地で行われている習慣です。日本でも初めにまず、「座ろうか」というのは大切な話をするときのことです。

そして、「いちばん先になりたい者は」と言われました。この言葉から、やはり主イエスは弟子たちが道中に何を論じ合っていたかをご存じであったことが分かります。すべてはお見通しであったことを弟子たちはどのように感じたでしょうか。

しかし主イエスは弟子たちの思いをすべて否定することはされません。しかし、「いちばん偉い」ではなく、「いちばん先」と方向を変えられます。弟子の思いをすべて否定して潰すのではなく、考える方向を正しい向きに変えるように導かれます。教育の正しいあり方を教えられます。

「いちばん偉い」とはこの世の高い地位や権力に就くことです。しかし、「いちばん先」とは主イエスの後に従い、御心に適う主イエスと同じ道のいちばん先を行くことです。そのためには主イエスが歩まれているとおり、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われます。

今日はこの後に敬老祝福のときを持ちます。今回はどの聖書箇所からにしようかと考えていたときに、順番のとおりですと今日の個所になりますが、内容的に相応しいかということを考えました。そのときに説教題であります、「すべての人に仕える者」という御言葉が心に留まりました。

高齢者は若い人から敬われますが、高齢者に求められる役割はどのようなものでしょうか。それは、すべての人に仕えるということではないでしょうか。誤解をしないでいただきたいのですが、高齢者に求められる、すべての人に仕えるというのは、体を動かしてすべての人に奉仕をすることではありません。

人に仕えるというのは、色々な段階の役割があります。一番、初歩の段階では、その人から言われたことだけを行うことです。しかし上の段階になりますと、映画等で自分より若い主人に仕える高齢の執事は、主人が直面するあらゆる問題等にも対処します。場合によっては、主人にこのようにするのは如何でしょうかと提案をすることもあります。

このようなことは長い人生経験を積んだ人でなければできないことです。そして正しい判断は長い人生経験だけではなく、正しい信仰から生まれてくるものです。主イエスはこのときに30歳代前半のまだお若いときですが、より若い弟子たちを教育するために、弟子たちに仕える者の手本を示されます。

私も教会の多くの皆さんよりは若く、牧師の経験も長くはありません。しかしこの千葉教区には私より若く、牧師の経験の浅い方が多く来ました。そこで私は教区長の任期が終わったときに、教区の奉仕はほとんど降ろさせていただきました。それは私より若い方々に色々な役割を担う経験をしていただきたいと思っているからです。

私自身、色々な奉仕を担わせていただいて、多くのことを学ばせていただき、とても役に立ち感謝しています。同じ機会を今の若い牧師たちに提供したいと思っています。そして私はその方々に仕える役割を担って行きたいと願っています。

3、子どもを受け入れる
そして、一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ抱き寄せて、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」と言われました。この御言葉から何となく浮かぶ場面があります。それは同居していない、おじいちゃん、おばあちゃんが孫と接するとき等です。

自分の子どもに対しては余り甘やかしてはいられないので、無条件に受け入れてばかりもいられません。しかし、おじいちゃん、おばあちゃんは無条件で孫を受け入れます。それがなぜなのか私には経験が無いので良くは分かりませんが、何となく分かるような気もします。

孫が可愛くて仕方がないのでしょうか。また、いくら甘やかしても自分には余り責任はないからでしょうか。それと、それまでの人生経験をとおして、人を無条件で受け入れる大切さを知るからでしょうか。私も、おじいちゃん、おばあちゃんからとても可愛がってもらったことは大切な経験であったと思います。

前にお話ししましたが、母方のおじいちゃんは銭湯で会うと、風呂上がりの飲み物を買ってくれました。父方のおばあちゃんは、私とは名字が違うという複雑な関係で、滅多に会うことがありませんでした。しかし私は小学生のときにバスに乗っておばあちゃんを尋ねたことがあります。

すると暫くしたある日に、おばあちゃんが私だけを横須賀の繁華街に連れて行き、好きな物を何でも全部買って良いから選びなさいと言われました。私はびっくりしてしまいました。それまで家族で出かけるときは、好きな物を買って良いけれど300円まで等の金額の制限がありました。

それが無制限で何でも良いと言われると戸惑うものです。と言いつつも私は前から欲しかった天体望遠鏡を選びました。私はそれで十分でしたが、おばあちゃんはゲームも買いなさいと言って野球盤を私に勧めました。私は野球盤よりは良く父親に連れて行かれていたパチンコのゲームを選びました。おばあちゃんは少し怪訝な顔をしていましたが、信行が良いならそれでということになりました。

特にお金を掛ける必要はないと思いますが、自分が受け入れられていると感じることは嬉しいものです。この当時、子どもは何も役に立たない無力な存在です。すべての人に仕える者とは、無力な子どもも神のかたちに造られた貴い存在であることを認めて受け入れる者であり、それは主イエスを受け入れることです。

そして主イエスを受け入れる者は、主イエスではなくて、主イエスをお遣わしになった方である父なる神を受け入れることになります。おじいちゃん、おばあちゃんと孫の関係は分かり易い例として話ましたが、これは自分の孫のように血縁関係がある者だけにではなく、すべての人に対してです。

これは理性では分かっても理屈でできることではありません。主イエスを信じ救われて働く聖霊の力によって初めてできることです。高齢になりますとそれに合う役割が求められます。それは体を使うことではなく、心と魂を使ってすべての人に仕え、受け入れることです。それが若い人を支え、育てることになります。主にあって神の家族として親しく歩ませていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、いちばん先になりたい者は、すべての人に仕え、受け入れなさいと言われます。頭では分かっても人の思いでできることではありません。主イエスの十字架によって救われる者として、聖霊に導かれ、主イエスの後に従い、神の家族として親しく喜びを持って歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。