「逆らわない者は味方」 

2025年9月21日礼拝式説教 
マルコによる福音書9章38~41節
        
主の御名を賛美します。

1、悪霊を追い出す者
前回の個所では、弟子たちが誰がいちばん偉いのかと論じ合っていたところ、主イエスから主イエスの後に従う生き方とは、すべての人に仕え、受け入れることであるとの指導を受けました。今日の個所は、その後にヨハネが主イエスに報告をしたところから始まります。

このヨハネは、1:19で主イエスから弟子として召命を受けたゼベダイの子でヤコブの弟と思われるヨハネです。9:2では12弟子の中の3役のような感じで、主イエスの変貌される山にも同行しています。初めに、「先生、あなたのお名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」と言います。

まず「先生」という呼び掛けは12弟子としては不十分です。それはさておき、なぜ、このようなことが起こっていたのでしょうか。12弟子が6:7で汚れた霊を追い出す権能を授けられて、6:13で実際に多くの悪霊を追い出したことが報告されています。

その話が広まり、主イエス本人ではなくても、主イエスの名前を使うことによって悪霊を追い出すことができることが伝わって、それを信じて行っていた人がいたようです。しかしヨハネは、「私たちに従わないので、(悪霊を追い出すことを)やめさせました。」 ヨハネはなぜやめさせたのでしょうか。

「私たちに従わないので」とその理由を説明します。「従わない」という言葉の原語は、新改訳のように、「ついて来ない」という意味でもあります。二つのことが考えられ、一つ目はヨハネとしては、自分の師である主イエスの名前を使って悪霊の追い出しをしておきながら、自分たちにはついて来て従わないなどという、自分勝手なことはさせないという思いでしょう。

二つ目は、弟子たちの中には18節で汚れた霊を追い出せなかった者たちもいますので、妬みを持つ弟子たちもいたと思われます。またヨハネがこのことをわざわざ主イエスに報告をしたということは、単なる報連相ではないと思われます。主イエスもきっと、自分がやめさせたことに同意をしてくださると思ったか、むしろ、やめさせたことを褒められるかも知れないとも思ったかも知れません。

2、やめさせてはならない
しかし主イエスのお答えは意外なものでした。「やめさせてはならない」です。原語では39、40、41節は、それぞれ、「なぜなら」という言葉で始まって3つの理由を説明されます。一つ目は39節で、「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言え」ないからです。

まず前半の、「私(主イエス)の名を使って奇跡を行い」ということについて、出エジプト記20:7の十戒の第三戒は、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない」と言います。その御言葉の通りの実例が使徒言行録19:13~16にあります。

そうしますとヨハネが悪霊の追い出しをやめさせた者とはどのような者なのでしょうか。悪霊を追い出すことができたということは、少なくとも使徒言行録の例のような、いい加減なつもりで主イエスの名を使ってはいないでしょう。それどころか、真面目な切実な思いであったはずです。

そして主イエスの名による力を信じていたと思われます。そのような真面目な思いで主イエスの名が使われるところには、主イエスの力が働かれます。そして主イエスの名を使って奇跡を行なったのなら、後半の内容の、そのすぐ後で、奇跡を行う力の源である主イエスの悪口は言えません。

3、逆らわない者は味方
40節の内容は二つ目の理由というよりも、これまでの内容の纏めです。ヨハネがやめさせた者は、ヨハネたちに従いはしません。しかし主イエスは、従わなくても、悪口を言わず、逆らわない者は味方なのであるからと言われます。これは私たちの常識とは少し違うような気がします。

私たちの常識では、悪口を言わず、逆らわない者は敵ではないけれど、味方でもなく、その間の中立な人のような気がします。なぜ味方なのでしょうか。それは4章の神の国のたとえを見ますと、神の国は石や茨のような、人による障害物さえ無ければ成長をして行きます。その意味でただ逆らいさえしなければ神の国は成長しますので、神の国の味方です。

また、ここでは説明はされていませんが、この者は味方としての行いをしています。それは悪霊を追い出しているからです。悪霊を追い出すことは、この者にとっても、主イエスと弟子たちにとっても共通の目的ですから、同じことをしているという意味では、はっきりと味方です。
また悪霊を追い出すことは良いことです。良いことをしている人を、自分たちに従わないので、やめさせるというのは、自分たちの都合だけを考えた自己中心的な行いです。
41節は三つ目の理由で、「よく言っておく。あなたがたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」からです。報いとはどのようなものなのでしょうか。書かれていませんので詳しいことは分かりません。

しかし主イエスが約束される報いですので、一杯の水と同等の価値のものではなく、神の民に対する好意的な行いへの報いは大きな恵みであると思われます。ところで、41節は独立した一つの教えではなく、39節の、「やめさせてはならない」ということの理由です。同じ目的の働きをしていれば、一杯の水を飲ませてもらうこともあるかも知れません。そのときには主からの報いがあります。

この箇所は短い文章ですが、主イエスを含む弟子たちの周りの人たちを3段階で考えることができます。一番目(下)と言いますか、その段階は、悪口を言わず逆らわない者です。この段階でも神の国は力強い命を持って成長をして行きますので、主イエスは味方と言われます。

二番目の段階は、悪霊を追い出すという共通の目的の働きをしますが、従わない者です。三番目の段階はキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれて報いを受ける人です。私たちの感覚で言いますと、この段階に来て初めて味方という感じがしますが。

ここの文章は主イエスが直接的には弟子たちに語られたものですが、これは現代の弟子である私たちにも語られていることです。この文章を現代に適用させますと、どのような内容になるでしょうか。

まず一段階目のキリスト教、クリスチャンに対して、悪口を言わず、逆らわない者は味方です。家族の中で自分一人だけがクリスチャンという人もおられると思います。それでも悪口を言わず、逆らわない者は味方です。自分がクリスチャンであることに不満を言われないことは有難いことです。

良識のあるクリスチャンは行いませんが、クリスチャンといわれる人の中にも他の宗教の悪口を言うことのある人はいます。悪口を言うことは他の宗教の敵となることであり、自ら進んで敵を作って行く愚かな行いです。そして宗教に関わっていない人からは、宗教は皆、他の宗教の悪口を言い合っている愚かなものという評価を招くことになります。

マタイ7:12は、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言いますので、他の宗教の悪口を言うことは聖書の教えに逆らうことです。自分が信じているものが真実であるなら、それを伝えれば良いのであって、他の悪口を言う必要はありません。ただカルト等の危険なものについては正しい知識を冷静に伝えれば良いことです。

二段階目は、主イエスの名を使って悪霊を追い出しますが、従わない者です。これは同じ働きをしますが、従いはしないということから考えますと、キリスト教の他の教団、教派ということもできます。これは一段階目の味方以上の存在です。お互いにできる範囲で、共通の目的のために協力することができます。

それは主イエスの名前を使って悪霊を追い出し、主イエスを信じて救いに与ることです。大切なことは共通の本当に大きな目的である、福音を宣べ伝えることであり、小さな違いに拘ることではありません。しかしこのようなことは人によっては、向き不向きがありますので、無理をして関わる必要はありません。ただ悪口を言わず、逆らわないだけで味方になることができます。

三段階目は、キリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人です。私たち茂原キリスト教会では、キリストに属する者であるクリスチャンであるなしに関わらず、色々な集会等で教会を訪れてくださる方々には、飲み物やお菓子等を提供します。

それがキリストに属する者であるクリスチャンであるなら尚更です。千葉教区内の集まりもありますし、茂原市内の超教派の一致祈祷の集まりもあります。そこではお互いに茶菓類等を提供し合います。主イエスがここでお話をされたときには、将来、キリスト教が現在のかたちのように分かれて、色々な教団や教派ができることを予知されていたのかも知れません。

現在、キリスト教には色々な教団、教派があります。しかし、主イエスが救い主であり、主イエスを信じることによって救われるという、この大きな一点だけで多くのキリスト教団体は協力をすることができます。その人たちにとって主イエスが頭であり、それぞれは主イエスの身体の一部であるからです。

また現在は他の宗教に関わっている人も神のかたちに造られたものです。その人たちのためにも主イエスは十字架に付かれました。私たちがその人たちの悪口を言い、逆らってしまったら、敵となってしまい、救いに導くことは難しくなってしまいます。

主イエスはマタイ5:44で、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と命じられます。これは到底、人の思いでできることではありません。聖霊の力によって初めてできることです。主イエスの十字架によって救われ、神の子とされる者として、神の子の生き方を、自分の人生をとおして証しする者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、人間による妨げさせなければ、御言葉は永遠の命と力を持って成長をすると約束されます。聖霊の導きによって、この御言葉を信じ、神の子として相応しい生き方をし、証しする者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。