「互いに平和に」
2025年9月28日礼拝式説教
マルコによる福音書9章42~50節
主の御名を賛美します。
1、主イエスを信じる小さな者
今日の聖書箇所は強烈と言いますか、本当ですかと感じるような表現が多く使われています。今日、初めて教会に来られた方や、初めて聖書を読む方がこの聖書個所を文字通りに読みますと、つまずかれてしまうかも知れません。そのような表現は何を意味しているのか御言葉を聴かせていただきましょう。
主イエスは、「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」と言われます。「私を信じるこれらの小さな者」とは、どのような人を指しているのでしょうか。
「これらの」と言われますので、前回である前の段落にあります、「主イエスの名前を使って悪霊を追い出している者」、「主イエスたちに逆らわない者」、「キリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人」たちを指していると思われます。
それらの人たちは主イエスを信じる者とは言い切れないまでも、程度の差はあれ、主イエスに対して好意的であり、小さないながらの信仰を持ち始めている者たちです。そしてこれから救いに与る人たちです。そのような一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによいと言います。
石臼も重さの種類がありまして、ろばの挽く石臼は重いもので、そのような物を首に懸けられて海に投げ込まれたら、決して浮き上がることは出来ないでしょう。そのような残酷なことが、「そのほうがはるかによい」などということが本当にあり得るのでしょうか。
日本語の常識でこの文章を理解しようとしますと誤解をするかも知れません。この文章は、それ程に、小さな者の一人を決してつまずかせてはならないということを強調するためのものです。意味することは海に投げ込むことではなく、人をつまずかせないことです。
クリスチャンの集まりである教会でも、時に、小さな者の一人がつまずかされてしまうことが起こり得ます。そのときに、聖書に「赦しなさい」という教えがあることもあり、有耶無耶になってしまうようなこともあります。しかし聖書ははっきりと、小さな者の一人をつまずかせてはならないと戒めます。
勿論、人は誰でも失敗をしますし、人をつまずかせるつもりがなくて、そうしてしまうこともあります。そのような場合には、その事実を素直に認めて悔い改めて謝る必要があります。例え悔い改めない場合にも、流石に、ろばの挽く石臼を首に懸けて、海に投げ込む訳には行きません。
しかし申命記で繰り返し語られていましたように悪は取り除く必要があります。それも悪人を取り除くのが目的ではなく、ルカ15章の放蕩息子のように、本人を我に返らせるためです。
2、つまずかせるなら
43~47節も42節に勝るとも劣らず衝撃的な内容です。42節は他の人をつまずかせることについてですが、43~47節は自分をつまずかせることについてです。片方の手、足、目があなたをつまずかせるなら、それらを切り捨てなさい、えぐり出しなさい。両方がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、片方だけになって命、神の国に入るほうがよいと言われます。
投げ込まれるゲヘナは、ヘブル語でベン・ヒノム(ヒノムの谷、エレミヤ7:31等)で、エルサレムの南のある谷です(地図10:F2)。昔はそこで偶像の神モレクに子どもを火で焼いて捧げることが、ヨシヤの宗教改革のときまで行われていました。それによりゲヘナは終末の裁きにおける地獄を意味するようになりました。
ところで、44、46節が無く、「♰」がありますが、これは「♰」のところに48節と同じ文章が入っている写本があるためです。しかし元は入っていなかったと考えられています。48節はイザヤ66:24の引用です。
確かに手、足、目が片方になったとしても、それで本当に、(永遠の)命、神の国に入れるのならそのようにした方がよいでしょう。不幸にも、病気や事故等によりこの世の命を守るために、どうしてもそのような処置をせざるを得ない場合もあります。
しかし手、足、目に限らず、神が造ってくださった体に無駄なものはありません。その中でも手、足、目はとても大切な部分です。二つあるから一つは無くなってもよいなどと言うものではありません。むしろ手、足、目は二つでセットで使うことにより便利に、2倍以上の本来の機能を発揮するものです。
この文章も手、足、目を切り捨てることを命じているのではなく、それ程までに、(永遠の)命、神の国に入ることが大切であるということを強調するものです。ところが、この文章のような処罰を実際に行う国などがあると言われます。
しかし問題は、これらの片方を切り捨てるなどすれば、(永遠の)命、神の国に本当に入れるようになるのでしょうか。片方を切り捨てたけれど、またつまずかせられたので、残りのもう片方も切り捨てて、それでもやはりだめだったということにはならないのでしょうか。
確かに私たちは、目で見て、足で移動して、手を使って悪いことをしてしまい、自分をつまずかせることはあります。しかし自分の意思とは関係なく、目が勝手に見て、足が勝手に移動して、手が勝手に使って悪いことをして、つまずかされる訳ではありません。
確かに最近は、自分から何かをしようとしている訳ではなくても、携帯電話やネットに色々な物が送られて来ます。しかしそれでも自分でそれらを一切見ないという選択は出来ます。目、足、手によって、何かつまずかされる場合に問題なのは、直接にその行動を行っているように思える、目、足、手ではありません。目、足、手自体には判断力が無く、責任はありませんので、いくらそれらを切り捨てても無駄です。
3、火で塩気を付ける
責任はあくまでもその人自身にあります。そこで、人は皆、火で塩気を付けられねばなりません。火について一つ目は、火は金属を精錬するためのもので、火は信仰の試練です(Ⅰペトロ1:7)。それは9:34にありましたように、「自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスに従う」ことです。
火の精錬のような信仰の試練を通して不純物が取り除かれ、塩気が付けられます。塩気の役割の一つ目は腐敗を防止することです。それによってつまずくことを防止します。塩気を付けることは、手、足、目の片方を切り捨てることとは比べものにならない程に遙かに効果的です。
カファルナウムはガリラヤ湖畔の町で、元漁師のペトロたちの出身地です。当時は勿論、冷蔵庫は無く、ガリラヤ湖で取れる魚を腐らせずに保存する方法は塩気を付けることでしたので、聞く人に分かり易い話です。
ただ火の精錬である信仰の試練によって塩気を付けるのは分かるのですが、試練だけですと修行のようで辛い感じもします。火の二つ目は聖霊の象徴です(Ⅰテサロニケ5:19等)。塩気は付けられる(受身形)のであり、自分で付けるのではありません。
その意味では、火である聖霊によって塩気を付けられることの方が福音的な感じがします。これらの影響か、日本でも神道では清め塩を葬儀の後に使って穢れを払います。また盛り塩で厄除けをしたりしますが、盛り塩は中国から伝わったと言われます。
塩について二つ目に、「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか」と問われます。塩の二つ目の役割は味付けです。これはレビ記2:13に
基づくものと考えられます。これには一つ目の清めの意味もありそうです。
食材に塩を付けますと塩の味が加わるだけではありません。食材の旨味を引き出す、臭みを抑える、甘みを強調する、食材を引き締める、水分を抜く等の効果があります。英国料理は不味いということが良く言われます。私が英国にいた30年前位は、じゃが芋と人参をただ茹でただけという料理がありました。
そこに塩と胡椒が置いてあって、自分の好みでかけるというものです。英国は清教徒革命の影響でとても簡素な生活になったと言われます。レビ記2:13の御言葉に忠実に歩んでいるのかも知れません。私はその素朴な味が結構好きでした。
塩について三つ目は、自分自身の内に塩を持ちなさいです。私もそうですが、塩分の取り過ぎで、塩は結構、体に持っていますという人はいるかも知れませんが、そういう意味ではありません。塩の一つ目の腐敗防止、二つ目の味付けの役割を持ちなさいということです。
塩を自分で作ることはできません。イスラエルには死海があり塩分濃度が約33%と普通の海水の10倍の濃度でとても高いです。これはフィリポ・カイサリアの辺りから湧き出た水に運ばれる岩塩等が溜まり続けて行くからです。フィリポ・カイサリアでペトロは「あなたは、メシアです」と告白しました。
私たちもペトロと同じように、主イエスを信じて、「あなたは、メシアです」と告白し続けることによって、主イエスは聖霊という塩を私たちに与え続けてくださいます。「持ちなさい」は現在形ですので、塩を一度持てばよいのではなく、塩を持ち続けなさいという意味です。
4、互いに平和に
最後に、「そして、互いに平和に過ごしなさい」と言われます。誰でも他の人と互いに、出来れば揉め事など無く、平和に過ごしたいものです。それにはどうしたらよいのでしょうか。「そして」とありますので、それはこれまでのことに基づいてということです。今日の個所も中心構造と考えられます。
互いに平和に過ごすということは、対称となる42節の、小さな者の一人をつまずかせないことです。そのためにはまず43~47節で、自分自身をつまずかせないことです。自分自身をつまずかせていながら、他の人はつまずかせないということはできません。
そして自分自身をつまずかせないためには、片方の手、足、目を切り捨てるのではなく、火で塩気を付けられねばなりません。平和はヘブル語でシャロームです。他の人と平和の関係を築くためには、まず本人が神と平和の関係を築く必要があります。
神が私たちと平和の関係を築くためには、私たち人間の罪を取り除く必要があります。そのために神は主イエス・キリストを十字架に付けてくださいました。主イエスを信じることによって私たちは神と平和の関係を築くことが出来ます。そして私たちに塩を与えてくださり、腐敗を防止してくださり、味付けをしてくださいます。
神との平和の関係を築いている者同士は、お互いに塩を持っているはずですので、平和に過ごし易いはずです。しかしすべての人は初めから神との平和を築いているのではありません。すべての人は、先に神との平和を築いた人に導かれて神との平和を築いて行きます。
その意味でも先に神との平和を築いた者は後の者を導く役割があります。それとは逆に、つまずかせてしまうのはとんでもないことです。しかしそれは塩が無くしてはできないことです。主イエスを信じて塩を与え続けていただきましょう。そして互いに平和に過ごしましょう。「平和を造る人々は幸いである その人たちは神の子とよばれる」(マタイ5:9)のです。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは、互いに平和に過ごしたいと願いつつ、それを実現することが何と難しいことでしょうか。聖霊の導きに従って、あなたが遣わしてくださった救い主イエスを信じ、神との平和をまず築かせてください。そして与えられる塩を持って、他の人とも互いに平和に過ごす者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。