「祈りによる霊の追い出し」
2025年9月7日礼拝式説教
マルコによる福音書9章14~29節
主の御名を賛美します。
1、汚れた霊に取りつかれた子
主イエスと3人の弟子がヘルモン山と思われる高い山から下って、ほかの弟子たちのところに来ました。すると彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していました。山の上では、主イエスの栄光の姿があり、エリヤとモーセも現れましたが、山を下って下界に来るとトラブルが絶えません。
ここはフィリポ・カイサリアであると思われますが、そのような異教の地に律法学者がいるのは不思議です。この地にもユダヤ人がいて律法学者もいたのか、もしくは主イエスの命を狙う律法学者たちはここまでついて来たのかも知れません。
主イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の一人が答えました。答えの内容からこの人は霊に取りつかれた子の父親です。「先生、息子をおそばに連れて参りました。」 「先生」という呼び掛けから、この父親は主イエスは教師であると考えています。またルカ9:38によるとこの息子は一人息子です。
「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。」 問題の根本は取りつかれた霊によって、ものが言えないことです。そして、「霊がこの子を襲うと、所構わず引き倒すのです。すると、この子は泡を吹き、歯ぎしりをして体をこわばらせてしまいます。」 取りつかれた霊による症状はてんかんと同じようです。
「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」 12弟子は6:7で、「汚れた霊を追い出す権能を授けられ」、実際に6:13で、「多くの悪霊を追い出し」たと報告されています。しかし今回、弟子たちは汚れた霊を追い出すことができません。
そのような弟子たちに対して律法学者たちは、汚れた霊を追い出す権能を授けられていると言うなら、なぜ追い出すことができないのかと、ここぞとばかりに14節で弟子たちに議論を吹っかけていたようです。律法学者たち自身は初めから何もすることはできませんが、そのようなことは棚に上げておきます。
父親の話を聞かれた主イエスは、「なんと不信仰な時代なのか。いつまで私はあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と答えられました。主イエスは8:31、32で、はっきりと自分は間もなく殺されることを預言され、もう弟子たちと共にはいられなくなってしまうのにという思いがお言葉になったようです。
2、汚れた霊の追い出し
その子を御もとに連れて来させると、霊は主イエスを見て、すぐにその子に痙攣を起こさせ、その子は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回りました。主イエスが、「いつからこうなったのか」と尋ねられると父親は、「幼い時からです。霊は息子を滅ぼそうとして、何度も息子を火の中や水の中に投げ込みました」と答えます。
父親だけでなく、母親や他の家族等はどんな思いでこの子を見守って来たことでしょうか。何度も火の中に投げ込んだということは、恐らく多くの火傷の痕等もあったことと思われます。父親は、「もしできますなら、私どもを憐れんでお助けください」と心から訴えました。
父親はこれまでにも、この子のためにできることは何でもしてきているはずです。そして主イエスの弟子たちにもお願いしましたが、できませんでした。そのような経緯から遠慮気味に、「もしできますなら」と言ったもので、決して悪気があった訳ではないと思われます。
しかし、神を心から信頼することの無いところに、神の力が働くことはできません。そこで主イエスは、「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる」と言われました。すると父親はすぐに、「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫びました。この父親は素直でとても正直な人です。
「信じる者には何でもできる」と言われて素直に、「信じます」と答えます。しかし自分の信仰の弱さを正直に認めて、「信仰のない私をお助けください」と助けを求めます。神は正直に自分の弱さを認めて、神により頼む人を受け入れてくださいます。
主イエスは群衆が走り寄って来るのを見られました。群衆は14節で既にいたと思いますが、更に走り寄って来たと思われます。群衆はメシアにこの世の支配者になることを期待しているので、主イエスはご自分がメシア、救い主であることを知られることを今はお望みではありません。
そこで主イエスは急がれたのか、汚れた霊をお叱りになり、「ものを言わせず、耳も聞こえさせない霊」と呼びました。私たちはこの子のてんかんのような病状に目を奪われがちですが、汚れた霊の問題の本質は17節にもありますが、「ものを言わせず、耳も聞こえさせない」ことです。
この当時は、文字の読み書きのできる人は少なかったと思われますので、ものを言えず、耳も聞こえないことは人と神との愛の交わりを大きく妨げ、現代よりも大きな問題であったと思われます。
主イエスが、「この子から出て行け。二度と入って来るな」と命令されると、霊は叫び声を上げて出て行きました。その子は死人のようになりましたが、主イエスが手を取って起こされると、立ち上がりました。一応は一件落着です。
3、祈りによる霊の追い出し
しかし弟子たちは納得が行きません。主イエスが家に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねました。これはある意味で、もっともな質問かも知れません。弟子たちは6:7で、「汚れた霊を追い出す権能を授けられ」、6:13で、「多くの悪霊を追い出し」て来た実績があります。
それがなぜ今回はできなかったのでしょうか。主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ追い出すことはできないのだ」と言われます。この御言葉はどのようなことを意味しているのでしょうか。
第一に、弟子たちは主により頼むよりも、自分たちの成功体験により頼んだしまった部分があったのではないでしょうか。自分たちは汚れた霊を追い出す権能を授けられていて、実際に多くの悪霊を追い出して来た実績もあるのだから、今回も大丈夫だろうというような思いがあったのかも知れません。
そこには祈り、主により頼む姿勢が欠けていたのかも知れません。そのことが主の力が働くことを妨げてしまったと思われます。
第二に、「祈りによらなければ追い出すことはできない」という言葉は正しく理解する必要があります。この文章の裏は、「祈りによれば追い出すことはできる」になります。裏の文章は正しいのですが、この文章はクリスチャンでも誤解を招くことのあるものです。
それは、祈れば追い出せるのだから、自分の祈りの力によって追い出そうとするものです。それでは人間の努力によるものになってしまい、神の力、御業ではありません。8:34にありましたように、主イエスの後に従うとは自分を捨てることです。
祈るとは自分を捨てて、人間の無力さを認めて、神の力により頼むことです。祈るとはこの父親のように、「信じます。信仰のない私をお助けください」と神の助けを求めることです。
第三に主イエスは、「この種のものは」と言われます。この子は幼い時から汚れた霊に取りつかれています。ということは、汚れた霊に取りつかれた原因はこの子にあるものではないと考えられます。また主イエスは、ただ単に子どもから汚れた霊を追い出すことだけを目的とはされていません。
主イエスはヨハネ9:3で、生まれつき目の見えない人の原因について、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。同じようにここでも神の業が子どもに現れるだけではなく、父親を含めて多くの人々にも現れるために色々と話をされました。
主イエスが父親に、「いつからこうなったのか」と問われ、「幼い時からです」と答えました。その時に父親は、子どもが幼い時から育って来た環境を思い返したことでしょう。もしかすると、そこには幼い子どもの健全な成長にとって良くない環境があり、汚れた霊が近づく原因となるものがあったのかも知れません。
父親はそれらのものを取り除こうと考えたことでしょう。しかしそのようなときに、エフェソ6:12にありますように、「私たちの戦いは、人間に対するものではなく、悪の諸霊に対するもの」です。人間が素手で対抗できるものではありませんので、神の武具を身に着け、霊によって祈る必要があります。
そのためにも第四に、父親は、「信じます。信仰のない私をお助けください」と信仰告白をしました。神の業とは汚れた霊の追い出しや奇跡よりも、人が神を信じるようになることです。そして祈りによって神と交わります。
祈りは自分の願いを神に伝えるだけではありません。祈りを通して、自分自身を振り返り、必要な悔い改めを行います。祈る人が一人だけではなく複数であれば、それぞれが悔い改めを行い祈ります。その結果、神に祈る前と後では願いの内容が変わって行くことが多くあるものです。
祈りの初めは自分たちの願いが叶えられるようにという内容かも知れません。しかし祈りによって神と交わり、聖霊によって自分の罪深さや神の憐れみを示されると祈りの内容は変わって行きます。詩編の多くは、初めは願い事で始まりますが、終わりは神の賛美となることが多いものです(例:59編)。
私たちの祈りも、謙って、この父親のように、「信じます。信仰のない私をお助けください」と神の憐れみにすがらざるを得なくなるのではないでしょうか。聖霊の導きに従って祈る者とさせていただきましょう。神は謙ってより頼む者を憐れみ、豊かに報いてくださいます。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。霊に取りつかれた子どもの父親は、ただ「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫び、子どもは癒されました。私たちも聖霊の導きに従って、謙って祈り、神の御業を現す者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。