「愛の律法」
2026年元旦礼拝式
マルコによる福音書12章28~34節
主の御名を賛美します。毎年年末に、その年の世相を表す漢字一字を決めます。去年は「熊」でした。良いイメージではありませんが確かに大きな影響があり、色々と考えさせられるものです。聖書の思想を漢字一字で表すと何になるでしょうか。御言葉を聴かせていただきましょう。
1、律法学者の問い
彼らの議論を聞いていた律法学者の一人が進み出ました。この律法学者はどの議論を聞いていたのでしょうか。恐らく11:27からの三回の議論を聞いていたと思われます。三回とも主イエスが聖書に基づいて真理を語られて、主イエスを陥れようとする、祭司長、律法学者、長老たち、ファリサイ派とヘロデ党の人、サドカイ派の人々との議論に打ち勝たれています。
律法学者はどの議論でも主イエスが立派にお答えになったのを見ました。特に律法学者の印象に残ったのは最後の復活についての議論だったと思われます。律法学者の所属するファリサイ派は復活と御使いの存在を信じていますが、サドカイ派は信じていません。
考えの違うファリサイ派とサドカイ派の間では以前から色々な議論があったと思われます。その中で、復活と御使いの存在の議論のときに、ファリサイ派はサドカイ派から19~23節のことを言われて、これまで、きちんと言い返すことが出来なくて悔しい思いをして来たと思われます。
そのファリサイ派の弱点を、主イエスが立派にお答えになったのを見て、律法学者は感心したのでしょう。そこで、「あらゆる戒めのうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました。「あらゆる戒め」とありますが、律法学者は613の細則を作っていました。613の内訳は「~せねばならない」という命令の律法の数が248で、これは人体の骨の数と言われます。
そして残りの、「~してはならない」という禁止の律法の数が365で、これは1年の日数です。この613の戒めのうちで、どれが第一なのかは議論となっていたようです。そこで律法学者は立派に答えられた主イエスに純粋な思いで尋ねたのだと思われます。
しかし、並行記事のマタイとルカによる福音書では、「主イエスを試そうとして尋ねた」とあります。詳しいことは分かりませんが、違う律法学者と同じような議論をする機会もあったのかも知れません。
2、第一の戒め
主イエスはこれまでの議論で、ご自分を陥れようとする思いを持つ者に対しては、質問に対して質問で返されたりしてこられました。しかし今回は律法学者の純粋な思いを読み取られたためか、ストレートにお答えになられます。
「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。』心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と申命記6:4、5を言われます。これはシェマと言われます。シェマとはヘブル語で初め言葉の「聞け」という意味です。
これはユダヤ教の礼拝で初めに告白する聖句です。またユダヤ人の子どもが最初に覚える聖句であり、ユダヤ人は一日に2回この聖句を告白します。また申命記6:8、9にありますように、この聖句を書いた紙を箱に入れて、左腕と額に結び付けます。そして家の門の右の柱に書きます。
これは十戒とも関わるものであり、十戒の第1~4の戒めを要約すると、この御言葉であると言われます。主はこの世の全てを造られた唯一の創造主です。またここで、心、魂、思い、力の四つを尽くしてとありますが、この四つはどのように違うのかということではなく、人格の全てを尽くして神を愛するということです。
主イエスが何かを命じられるときには、ただ命じられるのではなく、ご自身が初めに手本を見せてくださいます。愛するということは他の言い方をしますと従うことと言えます。主を愛することの一つ目のこととして、主イエスは父なる神を愛され、いつもご自身の思いよりも父なる神の御心に従われます。
十字架を控えた主イエスはゲッセマネで、「この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに」(14:36)と祈られます。これは究極的な主を愛する姿です。主イエスはこのようにご自身が父なる神を愛する姿を弟子たちに見せられた後に、主を愛することの二つ目のこととして、弟子たちにご自身を愛することをお求めになられます。
主イエスは十字架の死から復活された後にペトロに、「私を愛しているか」(ヨハネ21:15)と言われます。一度だけではなく、同じことを三度言われます。これは不思議な問いです。ペトロは主イエスが捕らえられた後に、「お前も主イエスの仲間だろ」と言われると、自分の命欲しさに三度、「そんな人は知らない」と言って主イエスを裏切ります(14:71)。
普通なら「もう私を知らないと言わないか、とか、もう私を裏切らないか」等と聞くのではないでしょうか。なぜ「私を愛しているか」と言われるのでしょうか。ペトロは自分の力に頼って、主イエスを知らないとは決して言わないと言っていました。しかし自分の力ではそのようなことは出来ません。
私たち人間にとって自分の力に頼って何かをしようとすることほど愚かなことはありません。そうではなく、一番大切なことは自分の全てを尽くして神を愛することです。神を愛することによって聖霊の力を頂くことが大切です。それで主イエスがペトロに、「私を愛しているか」と聞かれたのは、今日の聖書箇所が言うように、主イエスを愛することが何よりも一番大切なことだからです。
ペトロが主イエスを愛して素直に従っているときには、マタイ14:29で湖の上を歩きました。そのことを後で思い出させるために、主イエスはペトロを一度、湖の上を歩かせたのかも知れません。主イエスはペトロに、まず私を愛しなさい、そうすればあなたは聖霊の力を得て、再び湖の上を歩くことが出来るということを伝えたかったのでしょう。
3、神がまず愛された
神を愛することが一番大切なことは分かります。では神は自分が愛されることだけを望んでおられるのでしょうか。先程もお話しましたが、主イエスは弟子たちに命じられることは、まずご自身が初めに行われます。主イエスはここで、「全力を尽くしてあなたの主を愛しなさい」と言われます。
しかしまず初めに全力を尽くして愛するのは人間が神に対してではなく、神が人間に対してです。旧約聖書でも、何度も人間が神を裏切っても、神は人間を愛されて救いの手を差し伸べ続けて来られました。ヨハネ3:16の、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」の「世」は「人間」と言い換えても良いものです。神の人間への愛は変わることのないものです。
主イエスは十字架につけられた時に、ご自分を十字架につけた人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と言われます。ご自分を十字架につけた人々たちでさえ愛して、祈られます。
神の人間に対する変わらない愛は聖書全体を通して一貫して語られるテーマです。Ⅰヨハネ4:8は分かり易く、「神は愛だからです」と言います。聖書の思想を表す漢字一字は愛と言えます。説明を付けるなら神の愛です。私たちが神を愛するのは、神が私たちを愛してくださることへの応答です。
4、第二の戒め
律法学者は第一の戒めだけを尋ねました。しかし主イエスは続けて、「第二の戒めはこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」とレビ記19:18を言われます。これは十戒の第5~10の戒めを要約したものです(ローマ13:9)。
要約したということは、第一と同じで第二の戒めである隣人を愛することによって第5~10の戒めが成就されることになります。また第一の戒めと第二の戒めは、二つの戒めと言うよりは、一つの戒めの表と裏とも言えます。
神と人は縦の関係の愛、隣人は横の関係の愛とも言います。神を愛していると言いながら、神によって神のかたちに造られた隣人を愛さなければ、神を本当には愛してはいません。ある人がどのように神を愛しているかは、その人がどのように隣人を愛するかに現れて来ます。
また隣人を愛するのは自分を愛するようにです。その意味では隣人を愛する前に、自分を正しく愛することを知る必要があります。「他人に厳しく自分に甘く」は勿論良くありませんが、自分に厳しくし過ぎると、どうしても他人にも同じ基準で厳しくなり易いようです。その意味でも、まず神を全力で愛し、神と正しい関係を築いて、自分を正しく愛することを知ることが大切です。
主イエスは更に、「この二つにまさる戒めはほかにない」と言われます。ローマ13:10は「愛は律法を全うするものです」と言います。主を愛し、隣人を愛することは、全ての律法を守り成就することとなる「愛の律法」です。
5、律法学者の応答
律法学者は主イエスのお答えに感心して、「先生、おっしゃるとおりです」と言い、主イエスの教えの御言葉を繰り返します。「『神は唯一である。ほかに神はない』と言われたのは本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くすいけにえや供え物よりも優れています」と言い、ただ繰り返すだけではなく、自分の考えも付け加えます。
神を愛し、隣人を愛することはいけにえや供え物よりも優れているというのは、主イエスがマタイ12:7で、「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない」と言われることと同じで、大切なことです。律法学者の言っていることは正しいことであり、他意は無いかも知れませんが、少し気になる感じもします。
それは律法学者はファリサイ派であり会堂の運営に関わる人です。いけにえや供え物は神殿で献げるものでありサドカイ派が関わるものです。前回のサドカイ派の人々は、ファリサイ派の信じている復活を否定するような話で主イエスを問い詰めました。
先にファリサイ派の信じていることを否定することを言ったのはサドカイ派です。今回はそれに対して、サドカイ派が関わるいけにえや供え物を否定的に言うことで反撃をしているような感じもします。共闘しつつも牽制し合っているのでしょうか。
6、神の国から遠くない
主イエスはこの律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われます。「神の国から遠くない」とはどういうことでしょうか。御心を理解していますので神の国に近いということです。ただ近いのですが神の国に入ってはいません。
神の国に入るために後は何が足りないのでしょうか。それは主イエスを信じることです。聖書の教えや御心を理解することは大切なことです。しかしそれだけでは神の国に入ることは出来ません。主イエスを信じることです。裏を返せばそれだけで神の国に入れます。
実際、主イエスと一緒に十字架につけられた一人は、十字架上で主イエスを信じて言った、「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」の一言で神の国に入ることになります(ルカ23:42、43)。
受洗希望者に時間的な余裕があるときには、聖書の学びをしますが、神の国に入るために本当に必要な条件は主イエスを信じることだけです。思いのある方はぜひお申し出ていただければと思います。
もはや、あえて質問する者はありませんでした。これまでの3回の議論で、主イエスの反対者たちは議論では勝ち目は無いと悟ったのでしょう。
聖書には色々な教えが書かれており、それらを知ることは大切です。しかし、聖霊の導きに従って主イエスを信じるなら、エレミヤ31:33の新しい契約によって神の律法が心に書き記されます。神を愛し、隣人を愛する愛の律法が心に書き記されます。今日から始まった新しい1年を聖霊の導きに従って愛の律法に従って歩ませていただきましょう。
7、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。戒めについて問われた主イエスは、第一は主を愛すること、第二は隣人を愛することと言われます。私たちの中には愛はありませんが、聖霊の導きによって、救い主イエスを信じ、心に記される愛の律法によって、この1年も歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
