「気をつけなさい」

2026年1月18日礼拝式 
マルコによる福音書13章1~13節
     
主の御名を賛美します。私たちは毎日の生活で気をつける必要のあることが多くあります。自分からは何もしていなくても、怪しげなメール、電話、DM、ネット広告が多く来ます。基本的には自分から求めたのではなく、外から連絡の来るものは怪しいと思った方が安全な気がします。そのように考えますと外に伝道をするのは難しく感じるような気もします。

1、預言
主イエスは神殿の境内を出て行かれ、神殿との最後の別れになりますが、どのような御思いでおられたことでしょうか。しかし、そのような御思いとは正反対に弟子の一人が、「先生、御覧ください。なんと見事な石、なんと立派な建物でしょう」と言います。

言った弟子の名誉を考えて敢えて、「弟子の一人」と匿名にしていますが、言ったのは恐らくお調子者のペトロだろうなという感じがします。当時の神殿はヘロデ大王によって修築されて、当時最も壮麗な建物のひとつでした。

弟子たちはガリラヤの漁師たちを中心とする初めてエルサレムに来たお上りさんたちです。壮麗な神殿に目を奪われるのは仕方が無いことで、他の弟子たちも口にはしなくても同じ思いであると思われます。それだからこそ主イエスは、「この大きな建物に見とれているのか。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる」と預言されます。弟子たちにとっては衝撃的な預言です。

しかし今日の内容と同じ日の受難週の火曜日の朝に、葉があっても実を結ばないいちじくの木は枯れ(11:20)、ぶどう園の収穫を主人に渡さない農夫は殺されるたとえ(12:1~9)が語られたばかりです。それらと同じような神殿にも同じことが起こります。

私たちは見えるものに心を奪われ易いですが、Ⅱコリント4:18の、「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」の御言葉を覚えていたいと願います。

2、気をつけなさい
主イエスはオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられます。オリーブ山から神殿は、聖書の後ろの地図10「イエス時代のエルサレム」を見ますと1km強です。13章はオリーブ山で語られたことからオリーブ山の説教と呼ばれます。

そこで主イエスから初めに召命を受けた二組の兄弟である、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、先程の衝撃的な預言について、ひそかに尋ねます。この13章は主イエスの受難の前の、4人の弟子たちだけに対する最後の教えです。

4人は、「そのことはいつ起こるのですか。また、それがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と尋ねます。「そのこと」と「それ」は、「神殿が崩れ落ちる」ことです。要は、神殿が崩れ落ちるのは、いつで、それにはどんな徴があるのかという質問です。Ⅰコリント1:22に、「ユダヤ人はしるしを求める」とある通りです。

しかし質問に対する主イエスのお答えは、「人に惑わされないように気をつけなさい」です。何か質問と答えが噛み合わない感じがします。弟子たちの質問は、神殿がいつ崩れ落ち、どんな徴があるのかということです。しかし主イエスは、いつという質問にはここでは答えられません。
また主イエスのご関心は、神殿が崩れ落ちることではなく、弟子たちが気をつけることです。主イエスは13章で、「気をつけなさい」と4回言われ(5、9、23、33節)、直近の12:38を入れると5回です。13章のオリーブ山の説教の内容自体は終末についてのように見えますが、それよりも大切なのは、弟子たち、そして現代の弟子である私たちが、「気をつける」ことです。

3、気をつけなさい①(人に惑わされないように)
気をつける一つ目は、「人に惑わされないように」です。人を惑わす第一の徴は、偽キリストで、主イエスの名を名乗る者が大勢現れ、「私がそれだ」と言って、多くの人を惑わします。弟子たちが尋ねた直接のことは神殿が崩れ落ちることで、それはこの約40年後の紀元70年のローマの攻撃によるユダヤ崩壊によって起こります。

その前に、そのような人々が現れたことが聖書に書かれています(使徒5:36、37、8:9、21:38)。そしてそれは神殿崩壊の後もずっと続いています。主イエスのお答えの徴は神殿が崩れ落ちることだけではなく、この世が崩れ落ちる終末に向けての内容になります。

確かに、偽キリストのような者は続き、7世紀にはムハンマドが自分はイエス・キリストより偉大な預言者だと名乗ってイスラム教を起こしました。比較的新しいものでは、統一教会の文鮮明が自分がキリストだと名乗っていました。

人を惑わす第二の徴は、「戦争のことや戦争の噂」です。ユダヤは紀元前63年にローマに支配されるようになり、その後何度も戦いがくり返されて、紀元70年に滅びます。しかし、慌ててはいけないということは、慌てないように気をつけなさいということです。

「それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない」ということは、「もうこれで世の終わりだ」と言って、人を惑わす者が現れるということです。それはこの当時にも現れ、少し前では第一次世界大戦と第二次世界大戦の間にも現れました。

第一次世界大戦という大きな戦争の後に、また次の戦争の噂のある時期です。終末の徴と考えて終末が始まったと考える人がいました。そのように考える人がいることも分かります。しかし戦争や戦争の噂は今も絶えません。

しかし、「それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない」とはっきりと書かれていますので、偽キリストが戦争と戦争の噂によって終末が来たと言っても、慌てて惑わされてはいけません。

人を惑わす第三の徴は、「敵対」で、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」ます。敵対は戦争や戦争の噂の原因でもあります。これはこの当時もありますし、現代も酷いものです。第二次世界大戦以降は、冷戦や局地的な戦争はあったものの、比較的には平和であった感じがします。

しかし、最近は良識はどこへ行ってしまったのだろうと思う程で世も末だと感じるかも知れません。レーニンは第一次世界大戦中の1917年に書いた「帝国主義論」に副題として、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」と付けています。資本主義は必然的に帝国主義に至る、つまりは国は国に敵対して立ち上がると予言しています。

レーニンは一応は幼児洗礼を受けているクリスチャンですが信仰に関心は無かったようです。資本主義は帝国主義に至るというレーニンの予言は素晴らしいと思いますが、帝国主義の後は社会主義に至るというのは、「?」な感じがします。社会主義者は人間の罪という視点が欠けているように思います。

人を惑わす第四の徴は方々の地震と飢饉です。紀元40年代から60年代に地中海沿岸地区では、地震が何度もあり、飢饉も数回あったそうです。地震大国の日本では地震は良くあることですが、最近は地震がまた増えているように感じます。終末には世が乱れると共に自然も乱れます。

しかしこれら6~8節の4つの徴は産みの苦しみの初まりです。産みの苦しみということは苦しみだけで終わるものではありません。産みの苦しみということは、苦しみの後に喜ばしいものが産まれます。

完全なる神の子として生まれ変わって、神の完全な支配が行われる新しい世界が産まれます。私たちはこの世では様々な苦しみに会います。それは世の乱れによる人災かもしれません。また自然の乱れによる自然災害かもしれません。出来ることならそのような苦しみは通りたくないものです。

しかしそれは産みの苦しみであって、出産と同じで、この苦しみを通った後に喜ばしい世界が産まれます。私たちの苦しみは産みの苦しみであることを覚えて、人に惑わされないように気をつけたいものです。産みの苦しみの後には大きな喜びが待っています。

4、気をつけなさい②(自分のことに)
5~7節は自分の外側の人に惑わされないように気をつける徴です。9節からは気をつけることの二つ目の、自分のことに気をつける徴です。自分のことに気をつける徴の第一は、クリスチャンに対する迫害です。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ち叩かれ」ます。

迫害については聖書にも多く書かれています。主イエスは十字架につけられ、弟子の中ではステファノが初めの殉教者になります(使徒7:60)。その後にはエルサレム教会に対する大迫害が起こり(使徒8:1)、使徒ヤコブはヘロデ王に殺されます(使徒12:2)。

現代の日本ではクリスチャンに対する迫害はありませんが、キリシタンの弾圧、戦時中のクリスチャンの弾圧がありました。また現代でも海外ではクリスチャンに対する迫害があり、残念ながら命を落とす人もいます。

自分のことに気をつける徴の第二は、「主イエスのために総督や王の前に立たされて、証しをすること」です。パウロは逮捕されると、大隊長に自分の回心を証しし(使徒22章)、アグリッパ王の前でも証しします(使徒26章)。

自分のことに気をつける徴の第三は、「福音がすべての民族に宣べ伝えられる」ことです。それは福音を信じて救われる人のためです。ウィクリフ聖書翻訳協会という団体が聖書を世界の言葉に翻訳を行っています。「福音がすべての民族に宣べ伝えられ」てから終末が来るので、ウィクリフの聖書翻訳が終わるまでは終末は来ないという人もいますが、それはどうかは分かりません。

自分のことに気をつける徴の第四は、迫害の中で必要なことは聖霊が話してくださることです。そこで何を言おうかと心配しないように気をつける必要があります。話すのは私たち自身ではなく聖霊が示されることを話せばよいのです。これは本当に有難い御言葉です。自分で出来る準備は何事もしておいた方が良いですが、心配は不要で、最終的には聖霊が導いてくださいます。

自分のことに気をつける徴の第五は、「兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子は親に反抗し死なせる」ことです。なぜこのようなことが起こるのかと思いますが、二つの可能性が考えられます。一つは肉親ですがその近い関係の中で憎しみ合うことになることで、もう一つは自分の命欲しさに、肉親を裏切って死なせることです。確かに現代においてもこのような家族間の殺人事件が発生しています。

自分のことに気をつける徴の第六は、主イエスの名のために、すべての人に憎まれることです。
これはクリスチャンへの憎しみということですが、すべての人ということは、12節のようにクリスチャンであることで家族からも憎まれることを含みます。

5、耐え忍ぶ者は救われる
終末に向けてこれらの10個の徴がありますというより、もう既に起こっています。本当にこの世は苦しみに満ちています。そしてその苦しみに躓いてしまう人もいます。神を信じる信仰を持つ人でも、「神がいるなら、なぜこのような苦しみがあるのか」と言って躓く人もいます。

しかし苦しみは神が与えるものではありません。原因がよく分からないものもありますが、多くの苦しみは人の罪によるものです。また神は前もって、このような苦しみの徴が起こると私たちに知らせてくださっています。

それは私たちが最後まで耐え忍んで救われるようにと願っておられる神の愛によるものです。また私たちは苦しみだけに、つい目を奪われがちですが、この世は苦しみだけではありません。神はこの世でも多くの恵み、多くの祝福を与えてくださっていることも覚えていたいものです。

そして終わりに、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と約束されます。しかし、この御言葉には違和感を覚えると思います。それは、救われるのは信仰によるのではなかったのか。最後まで耐え忍ぶという行いがなければ救われないのだろうかという疑問です。

私たち人間は弱いものです。いくら前もって、苦しみの徴を知らされていても、自分の力で最後まで耐え忍ぶことは難しいでしょう。そうしますとこの御言葉は11節と合わせて読みますと、「最後まで耐え忍ぶのは、あなたがたではなく、聖霊なのだ」という意味です。そこで、信じて救われる者は、聖霊によって最後まで耐え忍ぶ者とされるということです。

信仰によって救われる者は、この世では例えどんな苦しみに遭おうと、必ず天国に入って平安を得るというハッピーエンドが約束されています。それだからこそ、自分だけではなく、すべての人に証しをし、福音をすべての民族に宣べ伝えることが求められます。

逆に言うと、すべての人に証しをし、福音をすべての民族に宣べ伝える中で、最後まで耐え忍ぶ力を与えられて行くとも思われます。どんな苦しみがあっても、聖霊の導きに従って、惑わされずに気をつけ、耐え忍ぶことが出来るように、祈り合い、励まし合って歩ませていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世には様々な苦しみがありますが、それは産みの苦しみの始まりであり、また、苦しみと共に祝福も与えられています。また信じて救われる者は、聖霊によって最後まで耐え忍ぶ者とされるという約束を感謝します。どうぞ私たちの歩みをお守りください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。