「ダビデの主、メシア」
2026年1月4日礼拝式
マルコによる福音書12章35~37節
主の御名を賛美します。人によってものの見方が違うことがあります。例えば、お化けがいると思うか、思わないか、UFOが存在すると思うか、どうか等です。お化けがいると思う人は暗い場所を怖がるでしょうが、いないと思う人は怖がらないでしょう。
UFOが本当に存在すると思っていて、その研究者になるなら人生に大きな影響を与えることになります。どちらの考えでも余り人生に影響はないことと大きな影響を与えることがあります。大きな影響を与えることは正しく判断をしたいと思います。
1、ダビデの子
今日の場面は11:20から始まった受難週の火曜日の続きです。11:27~12:27の三度の議論を終えられて、主イエスの敵対者たちは議論では主イエスに勝てないことを悟り、12:34で、もはや、あえて質問する者はありません。そこで主イエスは再び、教えられます。教えは13章の終わりまで続く、受難の前の最後の教えとなります。
神殿の境内で教えていたとき、今度は逆に主イエスから、「どうして律法学者たちは、『メシア(救い主)はダビデの子だ』と言うのか」と問われます。ここで多くの人は主イエスがメシアであるとは思っていません。また、主イエスもご自身がメシアであることを公表されようとは思っていません。
ただ多くの人々に正しいメシアのすがたを教えるために、一般論として、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と質問されます。まず律法学者について聖書の後ろの、「用語解説」の48頁を見ましょう。
メシアはダビデの家系から出ることは旧約聖書で複数預言されています。一つの例としてエレミヤ23:5は、「私はダビデのために正しい若枝を起こす。彼は王として治め、悟りある者となりこの地に公正と正義を行う」と言います。
そして実際、主イエスの系図であるマタイ1:6には先祖の名前としてダビデが書かれています。また10:47、48では盲人バルティマイは主イエスが自分の方に近付かれていることに気付くと、「ダビデの子よ」と二度、叫んでいます。「ダビデの子」はメシアの称号であり、「用語解説」の38頁にもそのように書かれています。
主イエスは律法学者たちが、「メシアはダビデの子だ」と言うことの何を問題とされているのでしょうか。ダビデはイスラエルの歴史に実際に存在した二代目の国王です。戦争に強く、国を拡張しました。この時にローマの支配下にあったユダヤ人たちはメシア、救い主は自分たちを政治的にローマの支配から解放してくれると期待していました。
その考えを作ったのが律法学者たちです。律法学者を中心とするファリサイ派が紀元前1世紀に作った儀典のソロモンの詩編17編にそのように書いて広まりました。しかし政治的・軍事的なメシアであれば、それはダビデのように聖霊が共にいる人であっても完全な人間です。
しかし主イエスはユダヤをローマの支配から解放するためにこの世に来られた、ただの人間ではありません。律法学者たちはメシアはダビデの子孫で、神に遣わされる人ではあるけれど、自分たちと同じ人間であると思っています。
律法学者たちは旧約聖書の預言による、「メシアはダビデの子」ということには何の疑いも持っていません。しかしメシアは普通の人間であるという自分たちの考えが正しいと思っていて、それ以外の発想は考えられません。「ダビデの子」という称号がそのように思わせるのかも知れません。
2、詩編110:1
主イエスは説明として、「ダビデ自身が聖霊を受けて、こう言っている」と、詩編110:1を言われます。初めに、「主は、私の主に言われました」。ここに二人の主がおられますがそれぞれどなたでしょうか。初めの「主」はへブル語で「ヤーウェ」と書かれていますので「神」です。
「私の主」は「アドナイ」ですので、ダビデの主である「メシア、救い主」です。「神はメシアに言われました」。その内容は、「私の右に座れ 私があなたの敵を あなたの足台とするときまで」です。これは言い換えますと、「神の右に座れ 神がメシアの敵を メシアの足台とするときまで」となります。
その意味は、「神の右に座れ」は、主イエスが十字架の死から復活され、昇天され神の右に座しておられることに繋がります。「メシアの足台とするとき」は、終末のさばきをあらわします。
このように、ダビデ自身がメシア、救い主を私の主と呼んでいます。そこから王であるダビデが自分の子孫を私の主と呼ぶようなことがあるのだろうかと問われます。ユダヤ人は自分の先祖を大切にしますので、自分の先祖であればもしかすると敬意を込めて主と呼ぶことがあり得るかもしれません。
しかし自分の子どもや孫、ましてやまだ生まれていない自分の子孫を、国の王が私の主と呼ぶことは考えられません。そこで、「どうしてメシアがダビデの子なのか」と問われます。
「ダビデの子」という表現は私たち日本に住む者に言い換えると、どんな表現になるでしょうか。フィギアスケート選手に織田信成さんがいます。織田信長から数えて17代目の末裔と自称されています。言わば、「信長の子」ということになります。
フィギアスケート選手として活躍されたのですから、度胸があって勝負強いのは、もしかすると信長譲りかも知れません。しかしいくら度胸があって勝負強くても、人間である信長の子ですから完全に私たちと同じ人間であって、それ以上の存在ではありません。
3、私たち
私たちは聖書を知っていますので、ここで律法学者たちの考えを批判することは簡単なことです。しかしここにお集まりの私自身も含めて多くの人たちは、もしもこの時代にいたら律法学者たちと同じような考えになってはいなかったでしょうか。
私たちも初めてキリスト教の話を聞いた時、聖書を読んだ時には、普通の人間の常識によって聞いて、読んだのではないでしょうか。初めはイエス・キリストも普通の人間のように思って、読んだ部分もあるのではないかと思います。
それで主イエスがおとめマリヤから生れたと聞くと、「はー、そんなことが有り得るんですかね」と感じ、主イエスが十字架の死から復活されたと聞くと、「本当のことかな」と感じたのではないでしょうか。
聖書の中には、ルカ2:25に出て来るシメオンのように、本当の救い主の姿を知っている人もいますが例外です。多くの人たちは人間の常識の中だけで考えています。これはある意味で仕方がないことかもしれません。普通の人は霊的な目は開かれていません。
そして自分の考えが正しいと思い込んでいます。そして人間の常識を超える世界があるとは考えられません。しかしこの世を良く見て見ますと人間の常識を超えることが沢山あります。どのようにこの自然界が保たれているのか、どうして人間のような高度な知能を持つ生物が存在するのか等です。
神の存在を抜きには考えられないことが沢山あります。そのことに目が開かれる人は幸いです。今日の箇所は11:27から始まった論争の纏めです。三つの論争は今日の結論に導かれます。
第一の11:27~33は権威の議論で、主イエスはこの世の人からの権威で行っているのではなく、天から与えられた権威によって行っていることを暗に示されました。祭司長、律法学者、長老たちは主イエスの言い分を受け入れはしませんが、そのことに気付いたはずです。
第二の13~17節は税金の議論で、そこで主イエスは税金等、この世のものはこの世に返しなさい、しかし神のものは神に返しなさいと言われました。それはこの世とは違う神の支配される世界、霊の世界があることを説明されました。
第三の18~27節は復活の議論で、七人の兄弟全員と結婚した女の話でした。そこで、復活は確実にあることで死後の世界があることを説明されました。サドカイ派は復活を信じていません。しかし今日の話題の律法学者たちは復活や御使の存在を信じています。
そうであれば死者の復活後の世界やメシアのことである今日の話を少しは理解しても良さそうなものです。大勢の群衆は、主イエスの教えに喜んで耳を傾けました。これはこれまでの主イエスの議論や教えが痛快であったためと思われますが、次回の律法学者の話に繋がることでもあります。
4、ダビデの主、メシア
今日の聖書箇所で分かることは、メシアは系図的にはダビデの子、子孫です。これは旧約聖書にも多く預言されているので間違いありません。しかしダビデがメシアを主と呼んでいることから、メシアはダビデの子孫以上の存在であるはずです。
メシアがダビデの子であり、ダビデの主であることの二つの条件を同時に満たすには、どのような存在である必要があるでしょうか。神が人となられる必要があります。ここに神の受肉、神が人となられる必要があります。メシアはおとめマリアが聖霊によって身ごもってお生まれになりました。
それによってメシアはダビデの子であり、ダビデの主であるという条件を満たすことになります。神が人となられる神の受肉はキリスト教の奥義であって、この当時の人には全く考えられなかったことです。このような奥義が誰にでも知らされている現代の人たちは本当に恵まれています。
しかし奥義は普通の人に知らされてもその意味は全く分からないものです。ペトロが8:29で主イエスに、「あなたは、メシアです」で告白したのは天の父の啓示によります。そのことを、Ⅰコリント12:3は、「聖霊によらなければ、誰も、『イエスは主である』と言うことはできません」と言います。
私たちは自分中心の考えを捨てて聖霊に満たされるときに、イエス・キリストはダビデの子であってメシアであると心から告白することができます。前回、大切な戒めの第一が主を愛すること、第二が隣人を愛することとありました。
目に見えない神を愛することは難しいと感じるときに、人となられた主イエスなら愛し易いと感じて、主イエスを愛するなら神を愛することになります。そして主イエスを愛するなら、主イエスはマタイ25:40で、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」と言われるのですから、隣人を愛し易くなります。
これらのことはすべて、メシアをどのように思うかによって決まって来ます。それは、メシアを単なるダビデの子と思うのか、それともダビデの子であると同時にダビデの主である救い主と信じるのかです。それは私たちの人生を決定的に大きく変えるものです。
あなたはメシアをどのように思われるでしょうか。どのように思って歩んで行きたいと望んでおられるでしょうか。聖霊によって、主イエスこそメシア、救い主と告白して生きるなら、それが真実であることが実感できます。日々、新たにされ幸いな歩みをさせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。メシアはダビデの子であり、ダビデの主であると言われます。この当時の人たちも現代の私たちも、人間の常識では受け入れ難いことです。しかし主イエスは歴史上に実在され、聖書に書かれていることが現実に存在します。私たちが人間の常識に縛られることなく、聖霊によって真実を受け入れ、幸いな歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
