「悪を追い出す」
2026年10月18日礼拝式説教
ヨシュア記 16章1~10節
主の御名を賛美します。
1、ヨセフの一族の割り当て地
ヨルダン川の西側での相続地の割り当てで、一番初めは15章のユダの家系の部族でした。これは創世記49:8でお父さんのヤコブが、ユダが兄弟の長となる預言したとおりです。二番目はヨセフの一族ですが、これはなぜなのでしょうか。これは歴代誌上5:1、2が次のように説明します。
「ルベンは長男であったが、父の寝床を汚したので、その長男の権利はイスラエルの子ヨセフの子らに与えられた。そのため彼は長男として登録されていない。兄弟の中で力があったのはユダで、そこから指導者が出たが、長男の権利はヨセフのものとなった。」
主イエスのお父さんはヨセフですが、お父さんのヨセフはヨセフの一族の子孫ではなく、ユダの子孫です。長男の権利はヤコブが愛した第二婦人ラケルの長男であるヨセフのものとなりました。ヤコブは創世記49章で12人の息子たちを祝福しますが、その前の48章でヨセフの二人の息子であり自分の孫であるエフライムとマナセを自分の養子にして祝福します。
創世記41:50で、「飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の息子が生まれた」と言いますので、二人の息子は幼い時期に7年の飢饉を迎えたと思われます。しかしお父さんのヨセフが7年の豊作のときに食料を蓄えていたので二人はひもじい思いをしないで守られたことでしょう。
ヨセフの一族の相続地について16、17章で語られますが、初めの16:1~3は全体について、終わりの17:14~18は全体の開拓地について、その間の16:4~10はエフライム族、17:1~13はマナセ族ですので、中心構造のような感じです。
1~3節の境界線は、エリコの近くのヨルダン川から始まり、海(地中海)に至っていますので、エフライム族とマナセ族を合わせたヨセフ族全体としての南の境界線ということです。エリコの水場はエフライム族の相続地で、一日平均約1,580万リットル(50mプール6.3杯分)の水が出るそうです。
この辺りは丘陵地帯でパレスチナの中でも最も豊かな地域の一つで、現在でも果樹が栽培されて、ぶどう、オリーブ、ざくろ等が取れます。エフライムの名前の意味は、「実り豊かな地」で、正にその通りです。
2、エフライム
本当はマナセが兄でエフライムが弟です。しかしヤコブは、「弟(エフライム)のほうが彼(マナセ)よりも大きくなり、その子孫は国々に満ちるものとなる」(創世記48:19)と預言しました。そのためエフライムの相続地がマナセよりも先に書かれます。
5b、6a節は2、3節の内容の繰返しで南の境界線ですが、2、3節はヨセフ族の境界線として語りましたが、今回は改めてエフライム族の境界線として語ります。6b、7節は大体シェケムから東側の境界線、8節はタプアから西側の境界線です。これらはマナセ族との境界線になります。
エフライムの一族に配分された町は、マナセの一族の相続地の中にもありました。そのすべての町とそれに属する村もエフライムのものです。例えばタプア(8a節)については17:8に説明があります。
ヤコブから「その子孫は国々に満ちるものとなる」と預言、祝福されたエフライム族からはヨシュアが出ました。後にはエフライム族からサムエルも出て来ます。またパレスチナの中心地にあることもあり、エフライムの町のシロ(18:1)、ベテル(列王上12:32)が礼拝の中心地になります。
イスラエルは紀元前922年に北と南に分裂しますが、北イスラエル王国の初代の王ヤロブアム1世はエフライム人です。また紀元前745年頃からは、北イスラエル王国のことをエフライムと呼ぶようになります。
3、カナン人を追い出さなかった
そのように一見すると順調に見えるエフライムの一族ですが、人は順調なときほど隙が生まれ易いものです。16、17章が中心構造ですと10節は中心となる大切な文章です。似たような文章は15:63、17:12、13とそれぞれの部族の割り当て地の最後を締め括る文章です。
これはこの後に起きることを暗示する文章です。それはイスラエルの12部族の中でも最有力なユダ族、ヨセフ族でも同じということです。エフライム族がユダ族、マナセ族と違うのは、彼らは「追い出せなかった」のですが、エフライム族は「追い出さなかった」ことです。
申命記20:16、17は「あなたの神、主があなたに相続地として与えるこれらの町からは、息のあるものを決して生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように、必ず滅ぼし尽くさなければならない」とはっきりと命じています。それにも関わらずエフライム族はなぜカナン人を追い出さなかったのでしょうか。
追い出さなかった理由は終わりの「カナン人には苦役が課された」という文章から考えることができます。苦役について現代では3Kの仕事という言い方がされます。3Kは「きつい・汚い・危険」の意味です。現代では人によってはその仕事の方が自分に向いていると感じたり、高い報酬を目的に自ら進んで選ぶ人もいます。
ただこの箇所の「苦役」の原語は「強制労働」の意味もありますので高い報酬は望めないと思われます。現代でも最近は3Kに新3Kの「帰れない・厳しい・給料が安い」が加わって6Kとなると本当に厳しそうです。
エフライム族は本気でカナン人を追い出そうと思えば恐らくできたと思われます。しかし、そうしますと苦役を自分たち自身で行わなければならない必要が出て来ます。それは嫌だという思いがあり、カナン人にやらせた方が良いということになったのでしょう。その結果、カナン人はエフライムの中に住み着き、この聖書箇所が書かれた今日に至っています。
その後にどうなるかは、先程の申命記20章の続きの18節に、「これは、彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行いをあなたがたに教えて行わせ、あなたがたの神、主に対して、あなたがたが罪を犯すことのないためである」とこれもはっきりと書いてあります。
イスラエルの中に住み着く15、16、17章のカナン人、エブス人はイスラエルにどのような影響を与えるのでしょうか。士師紀3:5、6は、「だが、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の中に住み続ける間に、彼らの娘を自分たちの妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々の仕えるようになっていた」と言います。
これは申命記20:18に預言されていた通りです。人間は順調なときほど、主の御言葉に聞き従うのではなく、自分たちにとって都合の良いことを優先してしまい流され易いものです。
4、律法等
この聖書箇所を読みますと、エフライム族もカナン人を追い出さなかったために、イスラエルは士師記で悪を行うことが分かります。これらの聖書箇所を読むクリスチャンは自分もそのような過ちを犯すことのないように、カナン人が象徴する悪を追い出そうと考えるものです。
そこで私たちは考える必要があることがあります。それは主がイスラエルに滅ぼし尽くせと命じられたカナン人等の先住民は、現代の私たちにとってはどのようなものなのかということです。申命記20:18の言うカナン人等の問題は、「彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行いをあなたがたに教えて行わせる」ことです。
異邦人の問題は異教の神の忌むべき行いを教えて行わせることです。そこから、少し前までは異邦人を滅ぼし尽くす訳にはいきませんので、異教の人や異教を排除するような考えになっていました。しかし聖書は現代を生きる私たちに果たしてそのようなことを命じているのでしょうか。
旧約聖書の律法等の現代への適用を考えるときに気を付けることは、律法の種類によって適用の方法が異なることです。律法は大きくは3種類に分けて考えられます。一つ目は道徳的な律法で、これはそのまま現代でも適用されます。例として十戒と、神と隣人を愛すること等です。そのため十戒は礼拝式でも告白されます。
二つ目は祭儀(儀式)的な律法で、これは主イエスが十字架上で成就されましたので現代では行なわれません。例として、レビ記にある神殿に献げる動物や穀物の献げ物、割礼、食物や衣服の規定等です。しかしその意味と十字架との関りを理解する必要があります。
三つ目は社会的な律法で、これは当時のイスラエル社会特有の内容で、現代には文字通りには適用されません。しかし律法に込められた憐れみ等の意味は現代にも生かす必要があります。例として申命記23:25の、「隣人のぶどう畑に入ったなら、思うまま満足するまでぶどうを食べてもよい。しかし、それを籠に入れてはならない」は現代では律法としては無効です。
新約聖書にも、「女は頭にかぶり物を着けなければならない」(Ⅰコリント11:2~6)や、「女は、教会では黙っていなさい」(Ⅰコリント14:34)等は当時の社会的な状況を理解し霊的な意味を考える必要があります。
5、悪を追い出す
それではカナン人等の先住民を滅ぼし尽くすことには、現代にはどのような適用が考えられるでしょうか。まずこの時代の状況を考える必要があります。イスラエルは神によって選ばれ、救われた民族です。神の民として相応しく生きるために、異教の忌むべき行いを避けるために異邦人を避ける必要がありました。
イスラエルが神の民として祝福の基となるための訓練の期間です。この当時はイスラエル人以外の異邦人の救いはまだ考えられていません。しかし主イエスが世界のすべての人の救いのためにこの世に遣わされ十字架に付かれました。そして、「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」(マタイ28:19)と世界宣教命令が出されました。
異邦人との関りについて旧約と新約の時代ではステージがまったく異なります。旧約時代は、「異邦人とは関わらない」でしたが、新約時代は、「異邦人のところに行って弟子にしなさい」です。行って弟子にするためには積極的な関りが必要です。
弟子にするためには、異邦人が信じている異教を頭ごなしに否定しては逆効果です。相手をありのままの状態で受け入れる寛容さが必要です。そのようなことをしたら当時のイスラエルの人々のように異教の神々に支配されて忌むべき行いをするようになってしまうのではないかと心配をされるかも知れません。
主イエスを信じる者には全知全能の聖霊が遣わされますので心配は無用です。ただ人の役割は一人一人違いますので、自分はどのようなことに召されているか御心を聴く必要があります。しかし少なくとも、カルト等の危険な宗教を除いて、他の宗教について否定的なことを言うことは伝道の上でも逆効果です。
宗教に関わっている人の中には、「自分の宗教だけが正しくて他の宗教は皆、間違っている」と言う人がいます。残念ながらどの宗教にも、そのようなことを言う人はいます。その結果、宗教とは所詮どれもその程度のものであると思われて宗教離れの一因となりました。
追い出すべきは異邦人や異教ではありません。神のかたちに造られたすべての人の救いのために主イエスは十字架に付かれました。すべての人に福音を届ける役割がクリスチャンにはあります。それを初めから排除してしまっては伝道ができません。追い出すべきは忌むべき行いである悪です。
クリスチャンであると言いながら、戦争を続けて人の命を奪い続けることは有り得ない悪です。まったく証しになりません。ローマ教皇がプーチン大統領に電話会談で停戦を要請したとのことですが何かの結果に繋がるよう祈るばかりです。
主イエスを信じて救われることは大切なスタートです。救われる者には聖霊が働かれ、悪を追い出し、主に従い通すように導かれます。そして愛、喜び、平和、寛容等の霊の実を結びます(ガラテヤ5:22)。
聖霊の働きによる悪の追い出しが滞ってしまいますと、霊の結ぶ実が消えて、淫行、汚れ、放蕩、偶像礼拝等の肉の行いが出て来てしまいます。主イエスの救いに感謝し、聖霊の導きに従って悪を追い出し続けていただき、霊の実を結ぶ者とさせていただきましょう。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。エフライムの一族は主から愛され、イスラエルの長男の権利を授けられ祝福されましたが、主の命令に逆らい、自分たちが楽をすることを考えて、カナン人を追い出しませんでした。それが大きな罠となってゆきます。
私たちも順調なときにこそ主に感謝し、謙って御心を求め、聖霊の力によって主に従い通し、正しい道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
