「魂に安らぎを」 

2026年2月8日礼拝式 
マタイによる福音書11章25~30節
     
主の御名を賛美します。

1、御心に適うこと
主イエスは、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と父なる神を賛美されます。私たちも神を賛美しますが、それはどのようなときでしょうか。その多くは自分にとって何か好ましいことが起きたときが多いのではないでしょうか。そのようなときには神に感謝し、神を賛美する思いになります。

主イエスは今、どのような状況におられ、どのような理由で賛美をされているのでしょうか。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになられたからです。「これらのこと」はどのようなことでしょうか。それは、主イエスが救い主であることです。

この世の知恵や賢さでは、神を認めることが出来ません(Ⅰコリント1:20、21)。この世の知恵ある者や賢い者は驕り高ぶります。それで、5節のような救い主の御業を見ても、20節のように悔い改めない者は神の国に相応しくないからです。

それとは逆に幼子たちにはお示しになります。幼子は自分の力だけで生きて行くことは出来ず、親等に頼る必要のある存在です。ここで幼子たちとは、幼子のように神に信頼する者です。主イエスご自身や5節の御業を同じように見ても、それが何を示すかを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちにお示しになられることは神の知恵です。

主イエスが6節のつまずきの石となられて、この世の知恵ある者や賢い者と、幼子を振り分けられます。そうではありますが、その結果、主イエスは19節のように言われてしまいます。しかし主イエスはご自分がどのように思われ、言われるかよりも、父なる神の御心に適うことを喜ばれ、賛美されます。

幼子たちだけに示されることは父なる神の御心に適うことですが、すべてことは、父なる神から主イエスに任せられています。ここに父なる神と子なる主イエスの神の親子の特別な一体性が現れています。そのために父なる神のほかに子なる主イエスを正しく知る者はありません。これは分かります。

そうしますと逆に、子なる主イエスの他に、父なる神を知る者はいないように思われます。しかし、すべてのことを任せられている主イエスは、ご自分が示そうと思う者は父なる神を知ると言われます。主イエスが示そうと思う者というのはどのような人でしょうか。

2、すべて重荷を負って苦労している者
そこで主イエスは、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」と招かれます。重荷とはどのようなものでしょうか。大きくは四つのことが考えられます。一つ目は、当時、重荷は律法の重荷を意味します(23:4)。

当時のユダヤ人は律法に対して熱心になるあまり、神が命じておられない重箱の隅を突くような戒律を自分たちで613個も作ったために、人々は戒律にがんじがらめになって苦労していました(安息日に歩いて良い距離等)。

それは現代の日本には関係の無いことでしょうか。そうではありません。戒律とは違うかたちで存在します。例えば、人は一人一人違う特別な存在として神が造られたにも関わらず、法律にも無いことですが、皆が同じようにしなければならないような無言の空気があります。

またなぜそうする必要があるのか合理的な理由はないのですが、前から習慣としてそうしているからというだけの理由で変えることが難しいこともあります。そのような不条理の中で苦労している人は多くいます。

重荷の二つ目は、罪の重荷です。罪は犠牲を払うことなしには赦されません。そのために苦しむ人は聖書の中にも出て来ます(ヨハネ4章のサマリヤの女等)。また実際には罪を犯したのではないにも関わらず、罪を犯したから報いを受けているのだと言って罪の重荷を負わされることもあります。

ヨハネ9:2の、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」というような考えです。現代でもそのような人の罪の意識に付け込んで、罪の赦しのためと言って、高額の壺等を売りつけることが行われたりします。

重荷の三つ目は、あるゆる苦労や問題です。本人だけでも健康を含めて色々な問題があります。更に家族の問題を含めればありとあらゆる問題があります。何も重荷が無い時期は例えあっても短い期間です。

重荷の四つ目は、日本のようなキリスト教の考えが普及していない地域に多いのかも知れませんが、人生は自分の力だけで生きるものという考えです。宗教に頼るのは弱い人と言われたりします。罪を持っている人間が自分の力だけで正しく生きることは不可能です。主イエスは、「人は神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(4:4)と言われます。

人によって重荷の種類は違っても、重荷を負って苦労していない人は一人もいません。それで主イエスの、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい」の御言葉はすべての人に対する招きです。そうしますと27節の「子が示そうと思う者」は、すべての人が対象として招かれてはいますが、示されるのはその招きに応じて主イエスのもとに来る者になります。

そして、「あなたがたを休ませてあげよう」と約束されます。28節は多くの人に影響を与えている有名な御言葉です。私も初めて聖書を読み始めたときに、重荷の四つ目の自分の力だけで生きることに疲れ果てていましたので、この御言葉に引き付けられました。

3、魂に安らぎを
主イエスは、主イエスのもとに来る者を、どのように休ませられるのでしょうか。「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい」と命じられます。ということは、主イエスのもとに来たら、重荷が取り去られて無くなるのではないようです。
「私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と招かれて、来たら軛を負うとは、どういうことなのでしょうか。軛自体にも重さがあります。「軛」は「頸木」とも書き、牛等の家畜の首に掛ける木です。二頭の首に固定して車などを引き易くします。

軛は英語では yoke と言い、「連れになる、共に働く、絆」等の意味があります。私たちは主イエスのもとに来ると、一人で重荷を負うのではなく、軛によって繋がれた主イエスと共に重荷を担い、主イエスと共に歩むことになります。

そして主イエスはその軛を、「私の軛」と言われます。主イエスの軛とは具体的にどのようなものだろうかと私は考えていました。説教セミナーで色々な学びをする中で、説教集も読み、その中でボンヘッファーの説教が私の心に響きました。

ボンヘッファーは、主イエスの軛とは、その直前に書かれている、「主イエスの柔和と心のへりくだり」であると言います。主イエスは5節のように重荷を負って苦労している人を解放されても、19節のように批判され、後には十字架につけられます。その主イエスの柔和と心のへりくだりの軛を負い、学びなさいと言われます。

柔和の軛とは、負わされた重荷を柔和とは反対の硬い紐のような物で負わないことです。硬い紐のような心で重荷を負うと紐が自分の身体に食い込んで大きな痛みとなります。そうではなく、主イエスのようにどのような重荷を負わされても、反発をせずに柔らかく受け入れることです。

また心のへりくだりの軛とは、自分の快適さを求めるのではなく、へりくだって天地の主である父の御心に適うことを望むことです。主イエスはそうして十字架を受け入れられました。そうは言っても、私たちには主イエスのような柔和と心のへりくだりはありません。しかし心配はいりません。

私たちが負うのは私たち自身の軛ではなく、主イエスの軛です。私たちが主イエスのもとに来るときに、私たちは主イエスの柔和と心のへりくだりの軛に繋がれます。

そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られます。休み、魂に安らぎを得ると言いますと、重荷を含めてすべてのことを投げ出して、どこか南の島にでも行ってゆっくりとするようなことをイメージしがちです。

しかし主イエスは本当の意味で、休み、魂に安らぎを得ることとは、主イエスの柔和と心のへりくだりの軛によって重荷を負うことであると言われます。休み、魂の安らぎは、何もないところで得るものではなく、重荷を負って苦労している中にあるものです。

この後の12章は安息日の話に繋がっているのは印象的です。「私に学びなさい」とは知識だけで知ることではなく、実際にその体験をして学ぶことです。12弟子たちは、主イエスの軛を負い、学ぶことになります。

色々な人と出会う中で、本当に柔和で心がへりくだり、いつも魂に安らぎがあるように感じる人がいます。このような人は、さぞかし恵まれた環境で何不自由なく過ごし、穏やかな生活をずっと送って来たので、このような人格になるのだろうと私は思っていました。しかし良く話を聞いてみると、そのような人は殆ど例外なく、驚くような大きな重荷を負って苦労して来ています。大きな重荷を負う苦労の中で、主イエスのもとに来て、主イエスの柔和と心のへりくだりの軛を負い、学ぶことによって、魂に安らぎが得られるようになるのだと思うようになりました。聖書のいう聖化、きよめというのはそういうものです。

ただ重荷を負って苦労している者が、皆、自動的に柔和で心のへりくだった者になり、魂に安らぎを得るとは限りません。そのようになるためには、主イエスは三つのことを命じられます。「私のもとに来なさい。私の軛を負いなさい。私に学びなさい」です。

主イエスはこの聖書箇所で、「私」と7回言われて強調されます。主イエスのもとに来ない者は、重荷による苦労のために心が頑なになってしまうことが多くあります。すべての人は重荷を負って苦労をしています。そのすべての人に主イエスは、「私のもとに来なさい」と招かれます。

28~30節は中心構造です。大切な中心は中心聖句の前半の29節aです。「あなたがたを休ませてあげよう(28b)」の対称は、「あなたがたの魂に安らぎが得られる(29節b)」です。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい(28節)」の対称は、「私の軛は負いやすく、私の荷は軽いのである(30節)」です。

28節の「すべての重荷」は、私たち人間の重荷です。しかし主イエスのもとに来る者には、私たちの重荷は、主イエスの軛によって、主イエスの軽い荷と変えられます。もはや私たちの重荷ではなくなり、主イエスの荷になります。

この御言葉から、「あしあと」というマーガレット・パワーズの有名な詩が思い浮かびます。主イエスは私たちと共に歩んでくださいますが、本当に私たちが辛いときは、軛を共にするだけではなく、背負ってくださるといいます。

主イエスは、すべて重荷を負って苦労している者のために十字架につかれました。そして私のもとに来なさい、私の軛を負い、私に学びなさいと招かれます。聖霊の導きに従って招きに応じて、主イエスの軽い荷を負い、休み、魂に安らぎを得させていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。すべての人は様々な重荷を負って苦労しています。神はそのような私たちを憐れみ、主イエスの十字架によって罪から解放してくださいますから有難うございます。すべての人が聖霊の導きに従い、主イエスのもとに来て、主イエスの軛を負い、学び、魂に安らぎが得られるようお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。