「主イエスの言われたとおり」
2026年3月1日 礼拝式説教
マルコによる福音書14章10~21節
主の御名を賛美します。
1、ユダの裏切り
12弟子の一人であるイスカリオテのユダは主イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行きました。イスカリオテはユダの出身地であるユダヤ地方の村の名前です。10節は内容的には先週の2節の続きになります。
祭司長たちはどのように主イエスをだまして捕らえるかと諮っていましたので、ユダの話を聞いて喜び、金を与える約束をしました。ユダの裏切りの企てがマリアの香油注ぎの直ぐ後に起こっています。マリアは3百デナリオン(3百万円)以上の香油を主イエスに注ぎましたが、ユダは金と引き換えに主イエスを売ります。二人の姿は対照的です。
ユダはなぜ主イエスを裏切るのでしょうか。マタイは金のため(マタイ26:15)、ルカ(ルカ22:3)とヨハネ(ヨハネ13:27)は、サタンが入ったからと説明します。マルコは理由は何も説明しません。マタイ、ルカ、ヨハネは裏切る直接の切っ掛けは説明しますが、その根本的な理由の説明はありません。
ユダは主イエスの12弟子の一人として真近で主イエスの全能の力を見て来ました。主イエスは、奇跡を行う力で風も海も従わせ、死人をよみがえらされました。それで主イエスが望まれれば、多くのユダヤ人が望んでいるように、ローマの支配からユダヤを開放することも可能です。
しかし主イエスはそのようなことはされません。他の弟子たちも、主イエスが全能の力によって、この世のローマの支配からユダヤを解放して、軍事的・政治的に神の国を作ることを期待しています。そのために12弟子たちはこの世の全てを捨てて主イエスに付いて来たのかも知れません。
そのような生活が3年近く経っています。そのような時にマリアの香油注ぎが行われました。もしも軍事的・政治的に革命を起こすのなら、300デナリオン(3百万円)以上の香油は大切な軍資金です。しかしその大切な軍資金ともなりえる香油は無駄と思われるように使われて、主イエスは自分は埋葬されると言われます。これではもう駄目だと思ったのでしょうか。
しかし裏切るのはなぜ他の弟子ではなくユダなのでしょうか。12弟子の他の弟子たちはガリラヤ湖周辺等の出身です。しかし、ユダは遠く離れた村の出身です。徴税人のマタイがいるのにユダが会計を任されているのは、ユダがとても優秀であると思われます。
それだけにプライドも高かったことでしょう。ユダは会計を任されていますが、中身をごまかしています。寝食を共にしていながら、どのように会計をごまかしているのでしょうか。恐らくユダだけが皆の輪に入っていないように思われます。孤立した存在なのでしょうか。
ユダが主イエスを引き渡す後も、もしもユダに親しい仲間がいたなら違っていたかもしれません。仲間の励ましによって立ち返ることも可能であったかもしれません。サタンが入ってしまったら人間的なレベルで対抗するのは難しいかもしれませんが。しかし兄弟姉妹と信仰的な交わりを持つことは自分を守る意味でも大切なことです。隙のある所にサタンは入り込んで来ます。
2、主イエスの言われたとおり
弟子たちが主イエスに、「過越の食事を、どこに行って用意いたしましょうか」と尋ねると、主イエスは二人の弟子を使いに出されます。この二人はルカ22:8によるとペトロとヨハネです。そして、「都(エルサレム)に行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人に付いて行きなさい」と言われます。
男が水を運ぶには皮袋を使うのが普通でしたので水がめを運んでいる男は探し易そうです。そして、その人が入って行く家の主人に、「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をする宿屋はどこか』と言っています」と言うと、席のきちんと整った二階の広間を見せてくれるから、そこに私たちのために用意をしなさいと言われます。
二階の広間は屋上です。弟子たちが都に行ってみると、主イエスの言われたとおりです。エルサレムでは、過越の食事のために、巡礼者に部屋を貸すことがあったそうですが、それでもすべてのことが、主イエスの言われたとおりで弟子たちは驚いたことでしょう。
このようなことは私たちも経験することです。この記事と全く同じように、水がめを運んでいる男に付いて行くことはないと思います。しかし聖書に書いてあるとおりのことが自分の身に起こることがあります。
それをただの偶然と思って見過ごしてしまうのか、神の御言葉のとおりになったことに気付くのかです。気を付けて、目を覚ましていることが求められます。今日の聖書箇所に、「主イエスが言われた」と4回あります(13、16,18,20節)。
主イエスが言われたことは必ずそのとおりに出来事になることを覚えていたいものです。16節は13節の預言が成就したことを言っていますので、預言としては3つで、後の二つの18,20節の預言も必ず成就します。ただ弟子たちは主イエスの言われたとおりであることに驚いている暇もなく、忙しく過越の食事を準備します。
3、過越の食事の用意
夕方になると、主イエスは十二人と一緒にそこへ行かれました。この辺りの出来事の曜日等は色々な議論があります。ユダヤでは日没で日付が変わることを考えますと、日没後の木曜日に主の晩餐が行われると思われます。
一同が席に着いて食事をしているとき、主イエスは二つ目の預言として、「よく言っておく。あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」と言われます。裏切り者は外にいる敵ではなくて、身内の者です。どのような思いで言われているのでしょうか。本当に断腸の思いであったことでしょう。
弟子たちは心を痛めて、「まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めます。「まさか私のことでは」の原文は否定の答えを期待する疑問文です。主イエスの言われることはそのとおりになりますが、弟子たちは裏切るのは少なくとも自分ではないはずという思いと、絶対に自分ではないとも言い切れない複雑な思いがあったのかも知れません。
主イエスは三つ目の預言として、二つ目の預言よりも詳しく、「十二人のうちの一人で、私と一緒に鉢に食べ物を浸している者だ」と言われます。ユダヤ人は干した果物に酒か酢を混ぜたソースを鉢に入れて、パンを浸して食べました。ここを日本風の表現で言いますと、同じ釜の飯を食った仲の者です。この表現ですと同じ鉢に浸している意味か分かりませんが、席も近いようです。
4、裏切り
クリスチャンを含めて多くの人はユダは主イエスを裏切ったとんでもない人だと考えます。しかし、主イエスを裏切るのはユダだけでしょうか。ペテロを初めとして他の弟子たちも皆、自分の命欲しさに主イエスを見捨てて逃げ去ります。これらは主イエスに対する裏切りではないのでしょうか。
またクリスチャンも主イエスの言われたとおりに行えない、言ってみれば裏切り者のようです。ではなぜユダだけが裏切り者と言われるのでしょうか。そして他の人たちはなぜ裏切り者とは言われないのでしょうか。
この聖書個所に、「裏切る」と訳されている言葉が、18、20節に2か所あります。原語では「裏切る」と同じ言葉が、日本語では他の言葉に訳されている箇所が2か所あります。それは10、11節の「引き渡す」です。「裏切る」と「引き渡す」は原語では全く同じ言葉です。
それは私たち人間にとって、主イエスを引き渡してしまって、自分が主イエスから離れてしまうことが裏切るということです。ユダは主イエスを祭司長たちに引き渡すつもりですが、それは自分をサタンに引き渡すことです。
私たちは主イエスを信じても、中々主イエスの言われたとおりに出来ないで失敗ばかりしてしまいます。しかしペテロや弟子たちのように、自分の失敗を悔改めて主イエスに立ち返るならば、それは裏切りではありません。ただの失敗です。それは私たちも全く同じです。主イエスは例え失敗をしたとしても、悔改める者を温かく迎え入れてくださるお方です。
人生で例えどんなに大きな失敗をしてしまったとしても、それは主イエスを裏切ることではありません。主イエスを裏切るかどうかは、失敗の後に主イエスに立ち返るか、立ち返らないかです。ユダの裏切りは主イエスを引き渡して、自分から主イエスから離れてしまうことです。
ユダが主イエスを引き渡してしまった後でも、悔改めて、主イエスに立ち返るならば裏切り者とはならなかったはずです。子どもが親を裏切るというのは親の言うことを聞かないことではありません。自分勝手に親から離れてしまって、帰らないことです。
それは物理的に離れることではありません。遠くに引っ越したら親を裏切るのではありません。霊的な意味で離れてしまうことです。ルカ15章の放蕩息子は放蕩はしましたが親を裏切ってはいません。なぜなら悔改めて親の元に帰ったからです。私たちがいくら失敗しようが、主イエスは愛を持って私たちの帰りをいつまでも待っていてくださいます。
主イエスは最後に、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに去って行く。だが人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった」とまで言われます。これはユダのことだけを言っているのではありません。
福音を聞いた上で裏切る、主イエスを引き渡して離れてしまう人のことを言っています。主イエスは脅しているのではありません。私たちの本当の幸いは主イエスの言われたとおりに生きることです。私たちの幸いのために主イエスは十字架についてくださいました。聖霊の導きに従って、主イエスの言われたとおりに歩み、幸いな道を進ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスの言われたことは、良くも悪くもすべてそのとおりになります。聖霊の導きに従って、主イエスの言われたとおりの幸いな道を歩む者とさせてください。また失敗をしてしまうときも、主イエスに立ち帰ることができますようにお守りください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。
