「主イエスの証言」 

2026年4月26日 礼拝式説教 
マルコによる福音書14章53~65節
        
主の御名を賛美します。

1、 死刑にするため
人々は主イエスを捕らえて、大祭司のところへ連れて行きます。マルコは書いていませんが、ヨハネ18:13によると初めは大祭司カイアファのしゅうとのアンナスのところへ連れて行って1回目の裁判を行っています。それで今日の箇所は二回目の裁判になります。

裁判は本来は最高法院で行われ、場所はソロモンの廊にあります。しかし、この時は日没で金曜日になった真夜中と考えられ、神殿の門は夜は閉まっていますので、大祭司のところへ連れて行きます。それでこれは15:1で行われます正式な最高法院の前の予備裁判のようなものです。

そこに、最高法院のメンバーである、祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来ます。最高法院は原語のスューネドゥリオンから、サンヘドリンと言われます。サンヘドリンは大祭司を議長として、71人で構成されるユダヤ人の宗教、政治、司法の最高決定機関です。

ペトロは、遠くから主イエスの後に付いて、大祭司の中庭まで入り、下役たちと一緒に座って、火にあたっています。ペトロは主イエスを見捨てて逃げてしまいましたが、主イエスがどうなるのか気になっているのでしょう。複雑な思いを抱えていると思われます。

祭司長たちは1節で主イエスを殺すことを既に決めています。そこで、この最高法院の目的は物事の真実を追求することではありません。ここの目的は死刑にするため主イエスにとって不利な証言を集めることです。初めから結論が決まっているとんでもない裁判です。

普通の法治国家であれば、被告人の罪を訴える側の検察側と、被告人を守る弁護側がいて、両方の立場から議論されて公正に判断されます。しかし現代でもこれと同じような、初めから結論ありきの裁判によって冤罪事件が生まれることもあるようで恐ろしいことです。

しかし私たちも普段の生活で同じように初めから結果ありきのことをしてしまうことがあります。自分と敵対する人の話は、初めから客観的に聞くことをしないことがあります。敵対する人の話は、初めから粗探しをしながら聞いて、その話の問題点や間違いを探そうとします。

それとは反対に自分の仲間の話は間違いには目をつぶって、良い所だけを探そうとします。このようなことは、聖書やキリスト教に対しても見られます。聖書やキリスト教に対して良い印象を持っていない人は、聖書を粗探しをしながら読みます。矛盾点や間違いを探そうと目を皿のようにして読みます。私も教会に通い始めた頃はそうでした。

そして質問をしてクリスチャンが答えに詰まると勝ち誇ったように喜びます。そのような読み方をしては恵みは得られません。イザヤ56:1は、「公正を守り、正義を行え」と言います。何事においても真実を求めるなら、公正に正義を行う必要があります。それはその人に祝福となって帰って来ます。

2、偽証
最高法院の目的は主イエスを死刑にすることですので、主イエスに不利な証言を求めます。しかし、これまでも主イエスに言い掛かりをつける人たちはいましたが、真実を語られる主イエスに勝つことはできませんでした。そこで何とかしようとして偽証をする者が多くいます。

証人は申命記17:6の規定によって二人または三人必要です。そして証人は一人ずつ呼ばれて色々なことを質問されますが、偽証ですのでやはり一致しません。そこでついに、数人の者が立ち上がって、主イエスに対する偽証をします。これは数人の者が協力をして偽証をするということでしょう。

そして、「この男が、『私は人の手で造ったこの神殿を壊し、三日のうちに、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、私たちは聞きました」と言います。しかし、この場合も、証人を一人ずつ呼んで質問をすると証言は一致しません。

この証言の信憑性はどうでしょうか。似たような内容を主イエスはヨハネ2:19で、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と言われています。似ているようで違います。主イエスが言われているのは神殿を壊すのはご自身ではありません。しかしこの偽証者たちは、神殿を壊すのは主イエスと言っています。

ユダヤ人にとって大切な神殿を主イエスが壊すと冒涜的なことを言っていると、人々に悪い印象を与えようと悪意を持って偽証します。ここで壊される神殿は主イエスのお身体です。そして三日目によみがえられます。それで、主イエスの言われる通りに、主イエスのお身体である神殿を壊す者は祭司長たちです。

3、大祭司の尋問
これでは死刑にできませんので、議長として何とかしなければと思ったのか、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、主イエスに尋ねます。「何も答えないのか。この者たちが不利な証言をしているが、どうなのか。」 偽証が一致しないため死刑にできませんので、大祭司は何とか主イエスに話をさせて口を滑らせようとしているようです。

全体の流れとしては主イエスに不利な証言かも知れませんが、証言は一致しないので、それは偽証の証明になっています。そうしますとそれは主イエスにとって不利ではなく、反って有利な感じもします。とにかく、主イエスに何か話をさせて、突破口を作ろうとしているようです。

しかし、主イエスは黙り続け、何もお答えになりません。なぜ黙り続けておられるのでしょうか。
悪意を持って真実を捻じ曲げる者に対して、真実を話しても無駄だと思われているのでしょうか。人間的にはそのようにも考えられます。しかし何よりもそのようになることが聖書の言葉の実現であり、御心であるからです。

これはイザヤ53:7の、「彼は虐げられ、苦しめられたが口を開かなかった」の御言葉の実現です。主イエスはご自分の思いで行動されるのではなく、何よりもその時の御心が何かをいつも求められます。

そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言います。「ほむべき方」は神ですが、十戒の第三戒で、「神の名をみだりに唱えてはならない」ので、ほむべき方と言います。核心の質問です。

それに対して主イエスは62節を言われます。少し不思議な感じがします。61節では、主イエスはイザヤ書の実現として口を開かれませんでした。それなのに、今度はなぜお答えになられるのでしょうか。主イエスは神の子であり、メシアです。

しかし主イエスご自身がご自分を神の子、メシアであることは公けには言われていません。主イエスはご自分のことを、「人の子」と言われます。主イエスがここでも黙り続け、何もお答えにならなければ、証拠不十分で裁判は終わるはずです。主イエスを訴えることはできません。

なぜ62節を言わるのでしょうか。62節を読んで感じることは、「ついに言ってしまわれた」とか「何もそこまでわざわざお答えにならなくても良いのでは。そうすれば何も問題にならなくて済むのでは」ということです。

しかし、これは父なる神の御心である十字架が実現するためです。「あなたがたは、人の子が力ある方の右に座に座り」は詩篇110:1、「人の子が天の雲に乗って来るのを見る」はダニエル7:13の言葉です。主イエスはご自身の証言によって十字架を背負われます。

ここの場面を良く考えますと、主イエスの十字架の切っ掛けを作ったのはユダの裏切りですが、十字架につくことは主イエスのご決断による証言によってと言えます。使徒信条でも、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とはありますが、「ユダに裏切られ」とはありません。

4、大祭司
主イエスは真実を証言されました。今日の聖書箇所では、「証言」に関する言葉が原語では7回使って強調しています。しかし大祭司は勿論受け入れられません。大祭司の目の前にいるのは自分と同じ姿をした人間である主イエスです。その人間が神の右に座り、天の雲に乗って来ることなど有り得ないと思ったのでしょう。

主イエスの言われることはご自分が神であるということです。人間が神であると言ったので、大祭司は神を冒瀆することだと考えます。そして大祭司は衣を引き裂きます。衣を引き裂くのは元は嘆きを表す行いですが、神を冒瀆する言葉を聞くときの行いになったようです。

そして言います。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか。」 大祭司としては主イエスが冒瀆の言葉をここで自白していて、証人は沢山いるので十分であるということです。

一同は、主イエスは死刑にすべきだと決議します。これは一応はレビ24:16の、「主の名をそしる者は必ず死ななければならない」に基づくことです。大祭司としては、偽証が一致しないで、主イエスが黙り続けた時には、どうしたものかと思ったことでしょう。しかし主イエスの方から、棚ぼた的な証言があって、してやったりです。

大祭司が本来すべきことは主イエスが本当に冒瀆しているかどうかを検証することです。大祭司が真実を追求しようと思うのなら、主イエスがこれまで行われてきた奇跡等を検証すべきです。しかしこの最高法院の目的は真実を追求することではありません。あくまでも主イエスを死刑にするためです。

彼らは主イエスとの議論でこれまではずっと打ち負かされていましたが、ついに勝ったと思って興奮しているのでしょう。ある者は主イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言いあててみろ」と言い始め、下役たちも調子に乗って平手で打ちます。本当に酷い仕打ちです。主イエスはこのとき、どのような思いでおられたのでしょうか。
5、証言
映画に、「猿の惑星」があります。初めは1968年に作られてその後のシリーズもありますので、ご存知の方が多いと思います。未来に猿等の類人猿の知能が発達して、人間が猿たちに支配されるようになって、人間と猿たちの関係が逆転するものです。

人間と猿の当たり前のように思っている関係が逆転すると、このような感覚になるのかと不思議な感覚を味わえる面白いものです。「猿の惑星」とは違うかもしれませんが、ここはある意味で似ているかもしれません。主イエスは神として人を裁かれる、裁き主です。

しかしこの時、その本来は裁かれる人間が、裁き主を愚かな思いで裁いています。裁かれる人間が神に対して、「冒瀆の言葉を聞いた」などと愚かなことを言って、衣を引き裂きます。主イエスは何を思われているのでしょうか。

主イエスはヨハネ5:39で、「聖書は私について証しをするものだ」と言われます。その御言葉の通りに、主イエスは聖書の言葉の一つ一つを実現されます。それは逆に言いますと、主イエスは聖書は真実な神の言葉であることを証しされています。

主イエスはご自身の命を懸けて十字架につかれます。そして聖書の言葉が真実であることを私たちに証しされます。それは何のためでしょうか。それは私たちを滅びから救うためです。私たちは神に対しても人に対しても罪を犯し、そのままでは滅びるばかりです。

しかし主イエスはそのような私たちを憐れまれ、聖書の言葉の通りに、ご自身を犠牲として私たちの罪を赦してくださいます。聖書の言葉の通りに十字架についてくださいます。私たちのすることはただ十字架を感謝して信じるだけです。

ここにはそのことを既に信じている人が多くおられます。既に信じている人は何をすれば良いのでしょうか。13:10で主イエスは、「福音がすべての民族に宣べ伝えられねばならない」と言われます。誰が宣べ伝えるのでしょうか。主イエスを信じる人たちです。

主イエスが今日の聖書個所で証言をされているように、私たちも聖書の言葉が真実であることを証言することが求められます。私たちも聖書の言葉を実現する者とならせていただきましょう。今年度は昨年度に続き、「新たな宣教と教会形成をめざして」が標語となっています。

色々な課題はあると思います。しかし全能の神は聖霊の力を与えてくださり、一人一人を成長をさせてくださいます。神に信頼して歩み、聖書の言葉を証言し、証しする者として用いていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは真実を証言すれば十字架につけられることをご存じの上で、人を救われるために真実を証言されました。十字架により救われる私たちも、必要なときには御心のために真実を証言する力をお与えくださり、お用いください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。