「主イエスの復活」
2026年4月5日 イースター礼拝式説教
マルコによる福音書15章42節~16章8節
主の御名を賛美します。
1、 アリマタヤのヨセフ
今日の聖書箇所は、今年の暦では先週の金曜日の主イエスの十字架から今日のイースターまでの三日間の内容です。主イエスは金曜日に十字架につかれて息を引き取られ、すでに夕方になりました。その日は安息日の前日で準備をする日です。
申命記21:23に、「死体を夜通し、木に残してはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない」の規定がありますので急いで対応する必要があります。しかし、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました(14:50)。主イエスを見守っていた女たち(15:40)には葬ることは難しいでしょう。
そこで動いた人がいます。アリマタヤ出身のヨセフです。アリマタヤは後ろの地図「9 イエス時代のパレスティナ」の2Eの辺りと思われます。ヨセフは高名な議員であり、神の国を待ち望んでいた人です。他の福音書には、ヨセフは主イエスの弟子であるとはっきりと書かれています(マタイ27:57とヨハネ19:38)。
ヨセフは、「ユダヤ人たちを恐れて、主イエスの弟子であることを隠していましたが」(ヨハネ19:38)、「同僚たちの決議や行動には同意しなかった」(ルカ23:50)といいますので、主イエスの十字架には同意しなかったようです。
ヨセフは自分にできるかぎりのことをしようと考えたと思われ、思い切ってピラトのもとへ行き、主イエスの遺体の引き取りを願い出ました。神は色々な人の心に働き掛けられて最善の御業を進められることを教えられます。今年度の御言葉にもありますが、すべてをなされるのは神ご自身であることを覚えていたいものです。
「ピラトは、主イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思った」といいますのは、十字架刑は長引くと48時間位苦しみ続けるそうです。しかし主イエスは15:23で痛み止めである没薬を混ぜたぶどう酒を飲まなかったので死期が早まったと思われます。主イエスの両隣の十字架につけられた二人の強盗は息があったと思われ、残酷な話ですが足を折ることによって窒息させられたようです。
ヨセフは、亜麻布を買い、主イエスを取り降ろしてその布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入り口に石を転がしておきました。ヨセフは主イエスを丁重に葬ったことが分かります。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、主イエスの収められた場所を見届けました。
2、墓の石
翌日の土曜日は安息日です。「女たちは、安息日には戒めに従って休んだ」(ルカ23:56b)とだけ書かれています。安息日は神を礼拝する日ですので女たちも礼拝をし、規定の通りに休んだことでしょう。またこの一週間のことを思い返していたことと思われます。
一週間前の日曜日に主イエスが子ろばに乗られエルサレムに入城された時には、人々は「ホサナ」と叫んで大歓迎をしました。しかし僅かその五日後には、「十字架につけろ」と叫んで、主イエスは十字架につけられて死刑となってしまいました。心身ともに疲れ切って休みたい思いもありつつ、心から休めない思いであったことでしょう。
安息日の終わる土曜日の日没後に三人の女たちは主イエスに油を塗りに行くために香料を買いました。主イエスの御体には香料が塗られていなかった訳ではありません。14:8で、埋葬の準備としてナルドの香油が注がれています。またヨハネ19:40によると、アリマタヤのヨセフとニコデモは香料を添えて主イエスを亜麻布で包んでいます。
香料は何度塗っても良いのだと思います。そして、女たちは自分たちにできるかぎりのこととして香料を塗ろうとしたのだと思われます。そして、週の初めの日である日曜日、朝ごく早く、待ちわびていたように、日の出とともに墓に行きます。
女たちは自分たちで墓の石を見ていますので、自分たちでは石を転がすことはできないことを知っています。そして、「誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。
このような言い方をすると、女性差別のセクハラと言って叱られてしまいそうですが、この台詞はとても女性的な感じがします。男性同士ですと、墓に行っても石があって墓には入れず無駄なので、そのような無駄なことはしないで、どうするかをまず考えようとなると思います。
ところが、女たちが目を上げて見ると、あれほど大きな石が転がしてありました。マタイ28:2によると、主の天使が石を転がしました。石は何のために転がしてあったのでしょうか。主イエスは全能の神であり、戸に鍵をかけている家にも入られますので(ヨハネ20:19、26)、主イエスが墓から出るためではありません。
神は女たちがとにかく来ることをご存じで、女たちのために石を転がされました。論理的に物事を考えて行動することも大切です。しかし神は、主イエスを慕って行動される女たちの思いに応えられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)ことは主イエスが教えられる真理です。
私たちにもこの墓の石のような大きな問題が立ち塞がるときがあって、自分の力では解決しようのないときもあります。そのときに立ち止まるのではなく、主を慕って一歩を歩み出すときに御業が起こることを覚えていたいものです。
3、主イエスの復活
墓の中に入ると、白い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、女たちはひどく驚きました。いくら墓の入り口が開いているとはいえ、墓の中に白い衣を着た人がいたら驚くと思います。この若者はマタイ28:2によると主の天使です。
若者は二つのことを言いますが、その一つ目は、「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と主イエスの復活についてです。
「復活なさって」は受動態ですので、父なる神によって、「復活させられた」ということです。死からの復活は主イエスがこれまで5回預言されてきたとおりです(8:31、9:9、31、10:34、14:28)。
そして二つ目は、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」とガリラヤでの再会の約束です。これは先週の14:28の預言のとおりです。
14:28で主イエスはガリラヤでの再会を約束されていましたが、14:50で弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。そのような弟子たちの裏切りのような行いも主イエスの十字架によって赦されています。ペトロは主イエスを知らないと三度言ってしまいましたので、ペトロは一人だけ名前を出して特に赦しを伝えられます。
しかし、女たちは、墓を出て逃げ去り、震え上がり、正気を失っていました。そして、誰にも何も言わなかったというより、言えなかったのだと思われます。恐ろしかったからです。人間は自分の理解を超えるものを恐れるものです。
確かに自分の目の前に天使が現れたら驚くと思います。しかし天使である若者が言った二つのことは、主イエスがこれまでに言われていたことであり、特に新しいことではありません。女たちや弟子たちはこの若者の言う二つのことを素直に受け入れられるのでしょうか。
福音書によって、また人によって多少ニュアンスの違いがあります。現代でも聖書を読む人によって、主イエスの復活と主イエスと再会することについての受け入れ方に違いがあります。そのような違いを生むものはどのようなことでしょうか。
4、安息日
主イエスは金曜日に十字架につかれて息を引き取られ、三日目の日曜日に復活されました。十字架の死から復活の間に安息日があることは大きな意味があるように思われます。金曜日に主イエスは十字架で息を引き取られました。愛する者の死によって残される者は大きなダメージを受けます。
精神的にも肉体的にもその影響は測り知れません。私たちも愛する人を天に送った後には安息、休みが必要になります。この当時の土曜日の安息日は主イエスの死を受け止めて休む日です。安息日は一日だけですが、それは場合によっては安息年として何年、何十年も必要となるかも知れません。
安息日の基本は休むことですが、休むだけではなく、安息日の過ごし方が大切になります。安息日は休むと共に、神を礼拝し神の御言葉を聴くときです。教会に長く通っている方は、若者が言った二つのことである、主イエスの復活と再会の約束を、知識としてはご存じであると思います。
しかし同じことが自分の人生にも起こり、主イエスにあって天に召された人が、主イエスの復活の力に与って復活すること、そして天国でその人とも主イエスとも再会することの確信をどれ程、与えられているでしょうか。
主イエスは金曜日に十字架につかれて息を引き取られました。それまで主イエスと一緒にいた女たちや弟子たちは翌日の土曜日の安息日に神を礼拝したことでしょう。そのときに、主イエスの5回の復活の預言とガリラヤでの再会の約束にどれ程の確信を与えられていたでしょうか。
日曜日に復活された主イエスに直接に会うまでは確信を持てなかったようです。これは私たちも同じであると思います。私たちは愛する人が天に召されるときに大きな悲しみに打ちひしがれます。これは自然なことです。これはこの聖書箇所では金曜日の出来事と言えます。
そうしますと、愛する人が復活して、天国での喜びの再会に与ることは日曜日の出来事です。金曜日からは二日の時間が経てば自動的に日曜日になります。しかし私たちの心は死の悲しみの金曜日から中々、喜びの希望の日曜日に移ることができません。
どうしたら金曜日の死の悲しみから、日曜日の復活と再会の希望の喜びに移ることができるのでしょうか。それは土曜日の安息日に心から神を礼拝し、聖霊の働きの中で神の御言葉の意味を悟ることです。
二千年前から主イエスは、ご自身が死から復活されたのですから、主イエスを信じる者はその復活の力に与ると約束されています。そして再臨の主イエスにお会いし、復活した者同士も再会の喜びに与ります。このことを知識としてだけでなく確信を持って知ることです。
どうしたら確信を持って知ることができるのでしょうか。それは聖書の登場人物たちもそうですが、神に直接に会うか、神の声を直接に聴くことです。本当にそのようなことができるのかと思われるかも知れませんができます。
神を試す思いでなく、神を本当に信じたいのでそうしてくださいと祈るなら叶えられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)のです。神に出会い、死者の復活と再会の喜びの希望をしっかりと持って歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは二千年前に復活と再会の希望を語られその証拠としてご自身が復活されて多くの弟子たちと再会をしました。私たちはそのことを知識としては知っていますが、意識として薄くなってしまいがちです。主イエスの尊い犠牲によって与えられた復活と再会の希望を聖霊によってしっかりと覚え喜び歩む者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
