「鷲のように新しく」

2026年9月13日礼拝式説教  
詩編103編1~5節

主の御名を賛美します。

1、主をたたえよ

この詩編を聞いてどのように感じられるでしょうか。「アーメン」と心から思えるのでしたら感謝なことです。しかし正直なところ、あまりにも前向き過ぎてちょっと付いて行けないと感じるときもあるかもしれません。聖書はある箇所だけを読んでも良いのですが前後関係から流れを読むことも大切です。

103編は前の102編の続きです。102編は表題に「苦しむ人の祈り。弱り果て、主の前に嘆きを注ぎだすときに」とあります。「主よ、私の祈りを聞いてください」と始めて、すべての嘆きを主に注ぎ出しています。102編は今日の説教題の「鷲のように新しく」とは正反対に、8節で「私は眠らず屋根にいる孤独な鳥のようになった」と言います。

そのように嘆きをすべて注ぎ出した後に、祈りの中で主と交わり、導かれて、終わりの29節で「あなたの僕の子らが住まいを得、その子孫が御前に堅く立てられますように」という祈りの後の言葉です。

1節と2節で「主をたたえよ、その聖なる名をたたえよ、主をたたえよ」と3回言います。私たち人間にとって初めにする大切なことは、主をたたえることです。主をたたえることは賛美と言います。賛美と言いますと現代では歌うことのように感じますが、歌わなくても主をたたえることは賛美です。

私たちはこの礼拝式の中で賛美しますが、これは何か景気付けに歌っているのではありません。主をたたえて、賛美することが大切だからです。2行目の「私の内なるすべてのものよ」は直訳しますと、「私の内臓のすべてよ」です。

ユダヤ人は感情の源は内臓にあると考えました。日本語でも、「はらわたが煮えくり返る」と言います。それは全身全霊をもって、その聖なる名をたたえることです。賛美をするときには、内なるすべてのものも含め全身全霊をもって賛美しましょう。

2、主の計らい

主をたたえる理由は、「そのすべての計らいを忘れ」ずに感謝し覚えるためでもあります。「計らい」と訳されている言葉には、「報い、恩恵」等の意味があり、新改訳は「主が良くしてくださったこと」と訳しています。私たちは神が与えられる計らいを自然なことと思ってしまいがちです。

与えられている計らいを忘れないことは大切です。与えられている計らいを忘れずに心にとめる時間をどこかで持ちたいものです。ある人は一日の終わりにそのようなときを持たれているでしょうか。忙しくされている方は少なくとも安息日であるこの日曜日に1週間を振り返って、主の計らいを思い出して感謝するときを持つと良いと思います。

私たちは主から99個の計らいをしていただいていても、計らいは心を留めることなしに、忘れてしまいがちです。しかし祈って聞き入れて貰えなかった一つのことは、心に残っていつまでも忘れません。そしていつまでも「私の願いを聞いて叶えてくれなかった」と思っています。

随分前にもお話しましたが、渡辺和子シスターはそのような人を「くれない族」と言っていました。何でも「~してくれない」と言っていては不満が募るばかりです。「くれない族」の人は主に対してだけではなくて、人に対しても「~してくれない」と言い続けてしまいます。

主は自己中心的な人間の願いをすべて叶えるかどうかは分かりません。全能なる主でさえ自分の願いを叶えてくださるかどうか分かりません。ましてや不完全な人間に完全を求めて「~してくれない」と言うのは不幸な生き方です。

私たちは色々な人間関係の中で生きています。そこで自分の思い通りにならないことに心を留めていたら切りがありません。ある人が自分の意に沿わないことを例えいくつかしたとしても、その人が良くしてくれた計らいだけを覚えて、心に留めて行くのなら人間関係は良くなって行くでしょうし、その方が幸せに生きれることでしょう。

私たちは「~してくれた」という計らいだけを覚える「くれた族」でありたいものです。神との関係の他に、夫婦関係、親子関係、家族関係、友人関係等みなそうではないでしょうか。但しこれは人の思いだけでは到底できることではなく、聖霊の力が必要です。

3、ダビデへの計らい

主の計らいには具体的にどのようなものがあるでしょうか。それによって、私たちは主がどのようなお方かを知ることができます。主がどのようなお方であるかを5つの表現で言い表しています。一つ目は原語では「主はあなたの過ちをすべて赦す方」で体言止めです。

「過ちを赦す」という意味は分かりますが、何か抽象的です。この詩は「ダビデの詩」という表題が付いています。原語では「レ・ダビドゥ」と書かれていて、直訳では「ダビデの」です。イスラエルの二代目の王で紀元前千年頃に活躍したダビデが書いたと考えられます。ただ、「ダビデに対して、ダビデのために他の人が書いた」とも考えられます。

103編は素直にダビデが書いたと考えられます。ダビデの過ちというと私たちが直ぐに思い出すのが、サムエル記下11章で他人の妻であるバト・シェバとの姦淫だと思います。またそのことを隠すためにバト・シェバの夫で自分の部下であるウリヤを殺したことです。

ダビデはその罪のために自分の子を失うという裁きを受けました。しかし罪をダビデが心から悔い改めたために、主は赦されました。主は悔い改める者を赦してくださるお方です。

二つ目は「あなたの病をすべて癒やす方」です。ダビデはこの癒やしをどこで体験したでしょうか。ダビデが仕えたイスラエルの初代の王サウルは、勝手に焼き尽くすいけにえを献げたり(サムエル上13:9)、アマレクとの戦いで聖絶して滅ぼし尽くすべきものを惜しんで取っておいたりしました(サムエル上15:9)。

その結果サウルは神に見捨てられて悪霊に苦しめられました。そのときにダビデが琴をひくと悪霊が離れてサウルは良くなりました。ダビデは主の癒やしに自分自身が用いられることによって、主は癒やされる方、癒やし主であることを体験を通して知りました。

三つ目は「あなたの命を墓から贖う方」です。ダビデが素直に神に従っていたときには神の祝福を受けていました。それに嫉妬した主人のサウル王はダビデの命を奪おうとずっと追い掛け回しました。しかし主はダビデをいつも助けました。そして何よりも過ちを犯したダビデを贖われました。

四つ目は「あなたに慈しみと憐れみの冠をかぶせる方」です。ダビデは過ちを犯したり、三男のアブシャロムが反逆を起こしたりと子育てが上手く行きませんでした(サムエル下15~18章)。この子育ての失敗はダビデが多くの妻や側女を持ったことが原因のようです。またダビデはサムエル下24章では勝手に人口調査を行ったりもしました。

しかし主はダビデに対する慈しみと憐れみの冠をかぶせられました。慈しみと訳されている言葉はヘセドという言葉で、ヘセドは「契約の愛」です。神が祝福すると一度言われたら何があっても変わらない契約に基づく愛です。

結婚のときに「幸いな時も災いに遭う時も、健やかな時も病める時も」愛すると誓うことと同じです。神は契約されたことは何があっても変えられません。神のかたちに造られた私たちも同じでありたいものです。

そして五つ目は「あなたの望みを良きもので満たす方」です。ダビデの人生には色々なことがありましたが、王として満たされてその生涯を閉じました。ダビデは大きく分けてこれらの5つの計らいを、自分の体験を通して知って、心に留めて感謝しました。

4、イスラエルへの計らい

この詩は直接的にはダビデ個人のことを書いています。しかし前の102編を見ますとその苦しみはダビデ個人の苦しみと共に、国としてのイスラエルの苦しみです。そのことを考えますと、この過ちはダビデ個人の過ちと共に、真の神に対して貞節を守らないで、異教の偶像と姦淫を行っているイスラエルの過ちを意味します。

イスラエルの過ちも悔い改めるときに赦されます。それは具体的にはいつのことでしょうか。102:14を見ますと、シオンは要塞という意味で、エルサレムの一部、またはエルサレム全体を指します。主はエルサレムの過ちを赦し、病を癒やし、命を墓から贖います。

それは、紀元前586年にユダが滅ぼされて、バビロンに捕囚に連れて行かれた人々が帰ってくることを指します。この詩をダビデが書いたのであれば、それはバビロン捕囚と帰還の預言の詩ということになります。また将来のイスラエルの再興の預言でもあります。

5、現代の成就

聖書の御言葉は何重もの意味を持ちます。直接的にはその時代のことが書かれています。しかしそれは預言として将来的に何度も同じようなことが繰り返して成就して行きます。これは現代においても成就する御言葉です。

私たちはダビデの過ちとは種類は違うかもしれませんが過ちを犯します。それはただ赦していただく以外に解決方法はありません。また私たちは色々な種類の病を癒やしていただいています。自然治癒と言って自然に癒やされるといいますが、自然に癒やされるのはその自然を造られた神の力による癒やしです。自然治癒の他にも神癒と呼ばれる信仰による癒しもあります。

そして死にゆく他の無い私たちを墓から、主イエスの十字架によって贖い出してくださいます。そして私たちの頭には、慈しみと憐れみの冠をかぶせてくださいます。そして私たちの望みを主の最善である良きもので満たしてくださいます。

6、鷲のように新しく

これら5つの計らいの結果どうなるのでしょうか。5つの計らいによって、若さが鷲のように新しくよみがえります。説教題の「鷲のように新しく」という表現は、日本に住む私たちには少しピンと来ない感じもします。

鷲は聖書にも多く登場し、その特徴は強い、速い、視力が良い等で、鳥の王者です。ローマでは皇帝や国家の象徴に使われました。現代では米国が国章として鷲を使っています。風を受けて空を高く舞い上がる姿が、主の力を受けて高く歩む信仰者の姿と重なります。

これは実際の年齢に関係なく、主の計らいによって若さが新しくよみがえります。若返り効果は主の計らいを忘れずに、心に留めて感謝することによって倍増します。クリスチャンは良く若々しいと言われますがこれが理由でしょうか。美容品より効果的と思われます。

そうは言っても、年齢と共に肉体的には衰える部分はあるかもしれません。しかしコリントの信徒への手紙二 4:16は「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々、新たにされていきます」と言います。聖霊の働きによって、毎日、主の計らいを覚えて、主をたたえましょう。そして日々、若さを鷲のように新しくよみがえらせていただきましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは年齢と共に弱さを覚えることもあります。しかし主は、五つの計らいをなしてくださる主を覚えてたたえるなら、若さが鷲のように新しくよみがえると約束されます。主をたたえ、聖霊によって主の計らいを忘れずに、いつも若さを鷲のように新しくよみがえらせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。