確かな道を進むために

     古川信一牧師

 新しいが年度をスタートし、桜の美しい季節を迎えて、昨年茂原に赴任するときに、期待と不安の入り混じった思いで、こちらにやってきたときも、電車の窓から見えた桜がとても美しかったことが思い起こされます。

 先日、私は車を運転していて、ふと郵便局へ行く用事を思い出し、カーナビで行き先設定をするのに信号待ちのときにいつものように、探索履歴から探そうとナビのパネルに手を伸ばしました。ところが、これまでに探索した履歴があまりにも多かったために、郵便局を探し出すのに手間取り、そのうち信号がかわってしまい、設定ができないまま走り出しました。そんなことを何回か繰り返していたら、指が誤って触れてしまったようで、折角これまで保存してあった1年間のすべての履歴が消えてしまったのです。

 そのことを通して気づかされたことは、ナビに頼りすぎていたことでした。後で考えれば、ナビを設定するまでもなく思い出せた道でした。ナビは確かにとても便利で、新しい地での運転には、どれほど役に立ったか分かりません。考えなくても走れます。だからかえって道が覚えられないのかもしれません。このままいくと、もしかするとカーナビがなかったらどこへも行けなくなる気がしないでもありません。

 また、こんなこともありました。あるとき、目指す行き先を示した高速の看板が見えたのですが、なぜかナビが示さなかったために入るのをためらって、次のインターまで走ることになり、かえって時間を大きくロスしたこともありました。やはり、全く機械を信じるのではなく、自分の目や感覚も働かせながら、便利なものに使われるのではなく、使うことが求められているようにも感じました。

 とは言っても、カーナビは、行き先とそこまでの道筋をあらかじめ示してくれるので、未知の道でも安心して走ることができます。先日も東京のど真ん中を走りながら、人も交通量も多く、車線も複雑な大都会の街中を自分が今、車で走っていることに,新鮮な驚きを覚えました。それができるのは、道が示されているからです。そしてそれを信じて、その通りに進んでいるからです。

導くものがないまま一人ではとても不安で走れません。でも道を示してくれる何かがあるなら、心の根底に安心を持ちながら、確かな道を進んでいけるのではないでしょうか。

「主は人の一歩一歩を定め

御旨にかなう道を備えてくださる。」

– 詩篇37:23 新共同訳 –

2009年4月号