ひとりでも多くの人が生きるため

山脇望牧師

もみじの実生

 春の芽吹きの季節を迎えて、土色の世界が緑のそれに変えられています。季節の流れの中で繰り返されている命の営みです。

 この時、教会堂の裏の土地に、他の草と混じって紅葉の木の芽が伸びているのが目に入ります。今年は例年になく、たくさんだ。「きっと、お隣の木から種が風に飛ばされてここに落ちたのか・・・」。

と、いつもの習性で、その中から掘り起こして鉢に入れ、またあちらこちらの植えられるところに移しました。ブロック堀の側にずらり、「生垣にできる」と、家の側にずらりと並べ、その数はそれなりになりました。今は小さく、ほとんど目に入りませんが、そのうち伸びてきたら、「先生はまたやっている、とんでもない所に植えたものだ、早く抜かないと土台がやられる・・・」と、悲鳴に似た声が聞こえそうです。

 せも、目に入るすべての実生をそうしてあげたいと思っても、それはできません。可哀想でもどうにもなりません。

神様の思い

 神様の思いはどんなでしょう。「ひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」神様のみ思いは・・・。

 ひとりひとりがこの世に命を与えられ、育てられているのですが、それぞれが何よりも神様の救いの恵みに生かされるものとして置かれていますように、どんなに願っていることでしょう。それがなされていかない辛さはどれほどかと思います。

 「ある人が思っているように、主は約束の実行をおそくしているのではない。ただひとりも滅びることがなく・・・」(ペテロ第二3:9)という、神様の切ない思いです。

教会の使命

 このみ思いを受け止めているのが教会です。植物と人とは本質的に違いますから、同じように扱うことはできません。が、教会の働きは、それぞれの教会に関わる人の数や献金の多少を競うところではありません。また、ひとりの牧師の生活を支えることができたら、よしとするところでもないのです。

 “ひとりも滅びないで・・・”の精神で人々に向き合い、関わりひとりでも多くの方々が、神様の恵みのうちに根をはり、伸びていくようになることを喜びとすることを求められているのです。

 現実に、それぞれの教会においてどれほど受け止められる“場所”を備えているでしょうか。「客間には彼らのいる余地がなかったからである」と、主イエスの父ヨセフと母マリヤが扱われてしまったようになる人がひとりでも少なくなりますように願いつつ、この時主イエスの御心に仕えていきましょう。

2006年5月号