神の栄光をあらわす

2020年7月5日
コリント人への第一の手紙6章12~20節

主の御名を賛美します。3か月振りにこうして会堂で皆さんと共に礼拝出来ることを嬉しく感謝します。

私は30年位前にソ連が崩壊した1年半後にロシアに行くことがありました。行く前はロシアの人々はきっと共産党の支配から解放されて皆が自由になって喜んでいることだろうと思っていました。しかし行って驚いたことは喜んでいる人はほとんどいなかったことです。共産党の支配が無くなったら自由になったのではありません。無法地帯になっていました。戦後の日本の様なものでしょうか。

ソ連の時代にはおかしなことをすれば、直ぐに秘密警察が来て取り締まりますので、ある種の秩序がありました。しかしソ連が崩壊して秘密警察等が機能しなくなると、無法地帯の犯罪まみれになっていました。

ロシアの人たちはソ連時代には秩序が保たれていたけれど、今は無法地帯になってしまって、前の方が良かったと言って嘆いていました。自由という時に犯罪を行う自由などというものは本来はないものです。自由というのは義務や責任の意識がないところには育たない、とても大切で貴重なものであることを実感しました。

1、自由

クリスチャンはどういう者かと考える時に、16世紀に宗教改革を始めたマルチン・ルターは1520年に出版した「キリスト者の自由」という本で、「キリスト者は何ものにも隷属していない」、自由であると言いました。パウロも、4:3で同じ様なことを言っています。

パウロはここで、「すべてのことは、わたしに許されている」と2回繰り返し強調しています。

これはコリント教会も良く知っている言葉であって、パウロも認めています。しかしコリント教会にはすべてが許されている自由の意味を誤解したのか、敢えて捻じ曲げていました。

現代を生きる私たちも自由な者ですが、自由というのは何でもかんでも好き勝手にして良いということではありません。自由と無秩序の無法地帯は全く違うものです。そういった意味で、パウロはすべてのことが許されていて自由だけれど、例えば罪を犯すことは益になるわけではないのでしません。

またすべてが許されているからといって麻薬等をすれば、麻薬中毒になって麻薬に支配されて自由でなくなってしまいますので、そんなこともしません。

2、からだ1

次にパウロは、同じくコリント教会の人々に知られている格言の様な「食物は腹のため、腹は食物のためである」という言葉を引用して認めます。確かに食物は腹で食べるための物で、逆に腹は食物を食べるための器官です。しかし食物も腹もこの世のもので、いつかは滅びて無くなるものです。

同じ様に考えますとからだは何のためにあるものでしょうか。

神は創世記1章でこの世のもの全てを造られた時に、造られたものを見て良しとされて祝福されました。全ての創造者である神に対して、造られた被造物である私たちが神にすることはどういうことでしょうか。それは創造者である神に感謝して、神を賛美して、神の栄光をあらわすことです。

この当時グノーシス主義と呼ばれるものの影響がコリント教会にもありました。グノーシス主義では霊と肉体を完全に切り離した二元論的に考えて、霊は永遠に続く大切なものだけれど、肉体であるからだはこの世だけの悪いものと考えていました。からだには色々な役割がありますが、神が制定された結婚の中には性もあります。

グノーシス主義では霊的に救われたクリスチャンは、この世の物である肉体は例え不品行を行っても関係はないと考えていました。しかし霊とからだは切り離すことの出来ない一体のものです。

からだは不品行に使うことも可能ですが、神は人のからだを不品行のために造られたのではありません。神に造られた私たちのからだは、神の御心に適わない不品行のためではなくて、からだを造ってくださった主なる神のためのものです。

食物は腹のため、腹は食物のための様に、からだを主のためにすることによって、主はからだのためとなってくださいます。そして主は私たちの霊を救うだけではなくて、私たちのからだを大切にしてくださり、悪い部分があれば癒してくださいます。そして主イエスを十字架の死からよみがえらせた、その力で、わたしたちをもこの世の死からよみがえらせて下さいます。

3、不品行

不品行については、旧約聖書の初めの方から書かれていますので人類の歴史上ずっと続いていることです。これは不品行がなぜいけないのかを信仰を抜きに説明することが不可能だからではないかと思います。一般的には不品行がなぜいけないかというと不道徳だからいけないとなります。

しかし不道徳の何がいけないのか、当事者同士が合意しているのであれば、他の人には関係無いのだから良いではないかとなると説得するのが難しいものです。聖書では何と説明するのでしょうか。

洗礼を受けるクリスチャンはキリストをかしらとする一つのからだに組み入れられます。

クリスチャンのからだはキリストの肢体、からだの一部です。

そして性的関係を持つことは、創世記2:24の御言通りに、「ふたりの者は一体とな」ります。

これは結婚に限らずに、遊女につく者は遊女と一つのからだになるということです。

ここに二つの問題が起こります。まず一つ目は自分が遊女と一つのからだになって良いのかということです。そしてもう一つは、キリストの肢体である自分が遊女につくことは、キリストの肢体と遊女の肢体とを一体とさせることです。そんなことはどちらも断じていけないことです。

パウロはさらに、主につく者は、主と一つの霊になると言います。日本のことわざでは、「朱に交われば赤くなる」ですが、キリスト教的には、「主に交わればクリスチャンです」。クリスチャンのからだはキリストの肢体とされて、霊もひとつになるのですから、クリスチャンは心身共にキリストと一体になります。

同じように遊女につく者は遊女と心身共に一つになります。だから不品行は避けるべきことです。

信仰の無い人はこの様な意識がありませんから、ちょっとの遊びなのだから良いではないか位にしか考えません。これはちょっとの遊びで済む問題ではありません。不品行は最近のニュース等でも明らかなように、全く益になるわけではなくて、結局自分が不品行に支配される様になります。

4、からだ2

「人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである」との御言に理屈っぽい人は違和感を覚えるかもしれません。確かに多くの罪はからだの外のことかも知れませんが、例えば深酒や麻薬等はからだに直接に影響を与える罪なのではないかと。確かにそうだとは思います。

しかしパウロがここでからだと言っているのは、ただ単に肉体のことを言っているのではなくて、その人の存在を現す人格的なことを意味しているのだと思います。不品行というのはそれ程、その人の人格の深い部分にまで悪い影響を与える深刻な罪であるということです。

さらに先週の個所に続いて、「あなたがたは知らないのか」と問うて、「自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮である」と言います。3:16では、「あなたがたであるクリスチャンの集まりが神の宮である」とありましたが、今日の個所では一人一人もまた聖霊の宮、神のお住まいです。

聖霊の宮である神殿、幕屋を不品行の罪で汚す等はとんでもないことです。

クリスチャンのからだは、自分のものの様であって、もはや自分自身のものではありません。

自分自身のものでないとすると誰のものなのでしょうか。

誰のものかと言うときに、普通は所有者は誰かということになります。まず芸術品である絵や音楽等の作品の所有者、著作権は普通は作った人にあります。その意味では人を造ったのは神ですので、人の所有者はまず神です。

しかし最初の人であるアダムとエバは罪を犯して、所有者である神の元を離れてしまいました。

しかし神はお独り子であるイエス・キリストを十字架に付けて、全人類の代価を払って買い取られました。買うことは所有者になることです。そして買い取られたのですから買われた私たちは買った神のものです。

また聖霊の宮で聖霊がお住まいということは、聖霊には居住権があると言えます。

私たちが他の人の名義の家で他の人が住んでいる家に、勝手に遊女を住まわせたりしたら、とんでもない犯罪です。不品行をする者はその様な罪を犯しています。

私たちは自分自身のからだの管理を委ねられていますが、所有者は神です。この譬えが相応しいか分かりませんが、私たちのからだは自分の持ち家ではなくて、神が大家さんである借家の様なものです。勝手に汚すことは出来なくて、綺麗に使う必要があります。

5、神の栄光をあらわす

私たちは神に買い取られることによって、11節にある様に、「神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされた」のです。それは汚れていた私たちの家を神が買いとられて、ハウスクリーニングをしてくださり、洗われ、きよめられて、義とされました。

それ以降も住込みで住んでくださっている聖霊が家のクリーニングを続けてくださっています。

本当に有難いことですが、それに相応しい生き方はどの様なものでしょうか。それは自分のからだをもって、神の栄光をあらわすことです。ところでここで言う、神の栄光をあらわすとは具体的にどういうことでしょうか。

5章からの文脈で言っていることは不品行をしないことです。もっと積極的に言えば品行方正に生きることです。なぜ品行にそれ程迄に拘るのでしょうか。それは先週の9節にありましたが、不品行は真を神を神とせずに、神の御言に従わない偶像礼拝から起こって来るからです。

旧約聖書で姦淫というと男女の関係を意味することもありますが、真を神を捨てて異教の神を拝む意味に多く使われます。つまり不品行というのは不信仰の現れです。

不品行自体も大きな問題ですが、根本的な問題はその元となっている不信仰です。

ですから信仰が正しく、信仰方正であれば、品行方正となり神の栄光をあらわすことになります。

どうしたら良いのでしょうか。難しいことは何もありません。信じる者には聖霊が宿ってくださいますので、ただその導きに従うだけです。恵みに感謝して歩ませて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはあなたによって自由とされる者ですが、自由の意味を取り違えて自分の欲に従ってしまう愚かな者です。しかしあなたはそんな私たちを代価を払って買いとられ聖霊の宮としてくださいますから有難うございます。どうぞ、聖霊の力強い御手で私たちを導き、神の栄光をあらわす者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。