洗われ、きよめられ、義とされた

2020年6月28日
コリント人への第一の手紙6章1~11節

主の御名を賛美します。私たちは周りの環境から気付かない内に色々な影響を受けるものです。私は30年位前にロンドンに行く前は同性愛者というのが全く理解出来ませんでした。しかしロンドンで生活しているとファッションや振舞から明らかに同性愛者と分かる人が学校の先生を含めてとても多くいました。

私自身の生き方には影響はありませんでしたが、一つの生き方としてそんなこともあるのかなと思う様に感覚が変わって行った記憶があります。現代の日本も含めて難しい環境で生活をすると色々な影響を受けるのではないかと思います。若者の健全な成長を祈るばかりです。

1、訴訟

パウロはコリント教会の問題を解決するために、この手紙を書いています。一つ目の問題は1~4章の教会内で分かれて争う分争の問題で、二つ目は5章の不品行の問題でした。今日は三つ目の教会内で争いを起こした場合に訴える訴訟の問題です。

1節で問題の内容を説明しますが、それはコリント教会員が同じ教会員と争いを起こした場合に、それを教会の中の聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出ることです。正しくない者とはどういう人のことかと思いますが、4節では「教会で軽んじられている人」と呼び、6節ではそれは「不信者」のことと分かります。

これはキリスト教の信仰を持っていない裁判官がいくら良心的でも、不信者は全て正しくない者という意味ではありません。それは神の存在を認めないということで、神の前には正しくない者という意味です。そして裁判官としては優秀であっても、教会内で信仰的には重んじられない人という意味です。

コリント教会はなぜその様な人に訴え出るのでしょうか。一つの目の理由は、ギリシャ人は知恵を求めて、議論が好きで、裁判が好きだった様です。現代では米国は裁判が好きというか何かと裁判を起こしますが、その様なものでしょうか。

ただ米国の場合は多民族国家で習慣や文化、価値観等の違う人が多くいますので、ある意味で仕方のない部分もあるのかも知れません。コリント教会はどんな問題を不信者に訴えているのでしょうか。それはきわめて小さい事件(2節)で、この世の事件(3節)です。なぜそんなことを訴えるのでしょうか。

それは4:6や5:2にある様に高ぶっているためと思われます。

裁判に訴えて勝つことで、丸で自分が知恵のある賢い者であるかの様に、多くの人にPRしたいのでしょうか。小さなことで簡単に解決すべき様なことを、やたらと大事にして多くの人に見せたがる様なことは残念ながら現代でもあることです。

2、仲裁者がいない

パウロはコリント教会に強く訴えるために、今日の個所では質問を多く投げ掛けます。またこの様なこことも知らないのかと3回質問します。コリント教会が知らない初めの2つはクリスチャンの特権です。それは聖徒は世と御使をさばく者であることです。

これは聖徒が直接にさばくという意味ではなくて、キリストが世をさばかれるので、キリストをかしらとするからだである聖徒もさばきに加わるという意味です。パウロは4:14では、コリント教会をはずかしめるためではなく、愛児としてさとすために書きましたが、今回ははずかしめるために言っています。

それは余りに深刻な問題であって、例えはずかしめてでも何とか解決して欲しいからです。それは自分が知恵のある者の様に振舞って高ぶっているのに、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者がひとりもいないからです。

またそれはキリストをかしらとする一つのからだの中で争うことの愚かさに気付いていない問題でもあります。またこれは訴える人だけの問題ではなくて、教会員同士の間で裁判があっても気にしない教会全体としての問題でもあります。

パウロは明らかに、争いを大きくして訴えるのではなくて、仲裁によって争いを大きくしないで収めることを勧めています。それは主イエスがマタイ5:23で、「供え物をささげようとする場合に、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、思い出したなら、まずその兄弟と和解しなさい」と言われた通りです。

コリント教会は世の習わし通りに、裁判で自分の正義を主張して、裁判に勝つことが勝利だと思っています。しかしパウロは信仰者として、「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ」と言います。

それは、どちらが裁判に勝とうが負けようが、裁判になった時点で、コリント教会としての敗北だということです。それではパウロの言う本当の勝利とはどの様なものなのでしょうか。それは不義を受けて、だまされることです。

それは主イエスがマタイ5:39で「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」と言われ、パウロ自身もローマ12:21で、「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」と言った通りです。裁判に訴えて勝って高ぶるのは不信者のすることです。

しかしコリント教会では、信仰者の勝利の道を歩むのではなくて、教会員同士で、お互に不義を働き、だまし取るという、信仰者として有り得ないことを行っています。

3、コリント

コリント教会にはある程度の同情の余地もあるかと思います。コリントの地はこの手紙の初めの説教でもお話しましたが、交通の要衝の地として発展すると共に大きな歓楽街となって風紀は乱れ切っていました。そこには9、10節に書かれている10個の罪を持つ者たちが多くいた様です。これはコリント教会員のことではなくて、教会の外の人のことだとは思います。しかしその10個の罪を持つ者たちが悲惨な生活をしていたかというと、そうでもなく普通の生活をしていたり、この世的には普通以上のもっと良い生活をしていたと思われます。これは現代でも同じです。

ここにある10個の罪を持つ様な有名人がいたり、それなりの社会的なステータスのある地位にいたりします。現代の日本のテレビ等のマスコミに、これらの罪を犯している者が普通に毎日の様に出ていたりします。その様な環境で生活していると私たちは知らぬ間に慣らされて行きます。

そしてその様な者たちが訴え合っていると自分たちの生活にも影響して来ます。

米国で裁判の多いのは有名人の裁判が多いのも影響しているとも思われます。

しかしパウロは6章で3回目の「知らないのか」として、これらの正しくない者は神の国をつぐことはないと2回繰り返します。そして自分たちの周りにその様な者たちが一杯いて、それなりの生活をしているからといって、そんなことでも良いのかと「まちがってはいけない」と注意します。

4、10の罪

この10個の罪のリストを見ると気付くことが色々とあります。まずは初めの5つの罪です。これは「偶像を礼拝する者」を除く4つの罪は明らかに性的な罪です。ここに偶像礼拝と性的な罪の関係が現れています。偶像礼拝は神以外のものを神より優先したり、神の定められたことを超えて行うことです。

ここの書かれている4つの性的な罪は、神が制定された男女の結婚の枠を超えて行うことです。ですから性的な罪は広い意味では偶像礼拝と言えます。性は神の制定された結婚の中では祝福・喜びとなりますが、結婚の外では正しくないことで神の国をつぐことがなくなることです。性的な罪には相手もいますが、これらの罪は主として自分を汚す罪です。

前半の5つの罪のキーワードが偶像礼拝であるとすると、後半の5つの罪のキーワードは何でしょうか。これは「貪欲」と言えます。貪欲と訳されている言葉の意味は、本来は自分に与えられていないものまで、より多くを求めることで、十戒でいう「むさぼる」ことです。

盗む者は自分のものではない他に人のものを取ることです。酒に酔う者は平静を保てる限度を超えて酒を飲む者で、そしる者は他の人に言ってはいけない限度を超えて言うことです。略奪する者は他の人のものを力づくで奪う者です。貪欲は主に他の人に害を及ぼす罪です。

しかし偶像礼拝が神の定められたことを超えて行うことであれば、貪欲も偶像礼拝ではないのかと思われるかもしれません。その通りです。エペソ5:5(口語訳p305)は、「すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像礼拝をする者は、キリストと神の国をつぐことができない」と言います。

偶像礼拝とは、10の全ての罪である、不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者です。そして同じ教会員である兄弟を訴えることは、主イエスの「和解しなさい」の御言に従わない偶像礼拝であり、裁判によって兄弟から不義によって、だまし取ろうとする貪欲な者だということです。そしてその様な者は神の国をつぐことはありません。

5、洗われ、きよめられ、義とされた

パウロは、「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた」と言います。確かにコリントの様な地域ではいたことでしょう。しかしこれはコリントに限らずに、この礼拝に参加している私も含めて全ての人は、多かれ少なかれこの様な罪を持っているものです。

しかしパウロは、「あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである」と言います。一体いつ、洗われて、きよめられて、義とされたのでしょうか。洗われてというのは、洗礼を受けることです。

洗礼を受ける者は、どんな罪を犯して汚れた者でも、十字架に付けられた主イエス・キリストの名によって、また神の霊である聖霊によって、洗われますのできよめられます。落ちない汚れはありません。ですから神の前に義、正しい者とされて、神の国をつぐ者とされます。クリスチャンとはそういう者です。

しかし今のコリント教会の実態を聞くと何か違うのではないのかというのがパウロの問いです。主イエス・キリストの十字架の贖いによって、洗われ、きよめられ、義とされたにも関わらず、兄弟を訴えるなど、神の国をつぐことのない者と同じことをしているのではないかということです。

これは洗礼を受けている私たちへの問いでもあります。洗礼を受けた時には、洗われて、きよめられて、義とされました。しかしいつの間にか、生まれながらの人の様に、肉に属する者の様になっていることはないでしょうか。どうしたらその様なことにならないで済むのでしょうか。

それは神を神として心から毎日礼拝し続けることです。全ての罪は神を神としない偶像礼拝から始まります。偶像礼拝は石や木で作った偶像を拝むことだけではなくて、神の御心ではなく、自己中心から来る全ての罪は偶像礼拝です。

その様なことにならないためには、日々、一人でも聖書を読んで神を礼拝して、聖霊の力強い導きと助けを求めることです。そのために主イエスは十字架に付けられ、聖霊を送ってくださっています。そして信頼して歩む者を導いてくださいます。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは神の恵みによって、洗われ、きよめられ、義とされる者です。それにも関わらず、私たちはこの世の思いにいつの間にか流されてしまう弱い者です。どうぞ、聖霊の力強い御手で私たちを導き、神の国をつぐに相応しい歩みをさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。