頭に権威の印を

2020年11月22日
コリントの信徒への手紙一11章7~16節

主の御名を賛美します。先週の説教で、私がロシアに行った時に礼拝で女性が頭にかぶり物を着けていた話をしましたが、かぶり物はスカーフのようなものでした。今日の礼拝には、もしかするとかぶり物を着けた女性がいらっしゃるかとも思いましたが如何でしょうか。

1、女の起源

先週の結論は、祈りや預言をする礼拝では、男は神の栄光を映す者ですから頭にかぶり物を着けるべきではなく、女は男の栄光を映す者ですので、かぶり物を着けるべきでした。今日はそのことの理由を前半の8~12節では人間が造られた創造と誕生から、後半の13節からは習慣から説明します。

まずは女は男の栄光を映す者である理由からです。先週も少しお話しましたが、「なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出」ました。神は創世記1:27で、まず男を創造されました。そして創世記2:21で、男のあばら骨の一つを取り、そのあばら骨から女を造り上げました。これは神が男と女を造られた順序です。

そして「男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られ」ました。神は創世記2:18で、「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われて女を造りました。これは神が男と女を造られた創造の順序であり秩序です。その順序によって女は男の栄光を映す者とされました。

ここまでの話は、何となく男に有利な話なので、夫婦で礼拝に出席されている方の夫は、奥さんはきちんと話をきいているか、またどうだいという感じで奥さんの様子を見るかも知れません。また普段はあまり家でYoutubeで礼拝を見ない方も、さりげなくつけて奥さんに聞かせたり、説教原稿をさりげなく奥さんの目に付く所に置きたくなるかも知れません。

2、頭に権威の印を

そして女は礼拝では頭に権威の印を付けるべきです。それはどういう意味なのでしょうか。10節はこの手紙で有名な解釈の難しい問題で、色々な解釈が提案されています。女は男の栄光を映す者ですから、かぶり物を着けない状態ですと男の権威の印を付けて礼拝に出ることになります。

しかし礼拝は全ての人が神の権威だけに跪いて神だけを礼拝するものです。ですから男の栄光を映す女は、そのままですと髪の毛によって男の権威の元にあることを表します。しかしその頭にかぶり物を着けることによって、男の権威に覆いをすることによって、男の上の権威である神の権威の元にあることを表します。

ですからかぶり物を着ける女は男ではなくて、神の権威に従って礼拝をしていることを表しています。ところで頭の権威の印であるかぶり物は、なぜ天使たちのためになのでしょうか。これも色々な説があります。まずこの天使というのはどの様な天使なのでしょうか。

聖書には色々な天使が出てきます。初めに大きくは、霊的な天使と私たちと同じ人間が天の使いとして用いられる場合です。そして霊的な天使には良い天使と悪い天使がいます。原語の使い方から見ると、これは霊的な良い天使と考えられます。そして霊的な良い天使は私たちを見守ってくれています。そして礼拝の時には、この後の賛美にあるように私たちと共にいます。私たちを見守っている良い天使が、礼拝の中に神の権威の印を付けていない者がいると混乱します。ですからその様なことがないようにとの意味のようです。

3、中心構造

8~12節は7節の理由、説明です。8~12節があるユダヤの文学形式で書かれていることに気付かれた方もおられると思います。何度かお話していますが、これは中心構造です。10節を中心に折り返すと対称的な内容になっていて、外側の8節に対応するのが12節、内側の9節に対応するのが11節です。

9節で女は男のために造られたのですから、11節でその元となる男なしに女はありません。しかし「人が独りでいるのは良くない」のですから、女なしに男はありません。9節と11節は男と女の存在の意義についてで、そこに優劣はありません。

また8節では女が造られた起源から、女が男から出たとありました。しかし12節で、生まれることを考えると男も女から生まれたものです。女以外から人が生まれることはありません。起源からいうと女は男から出て、誕生からいうと男も女から生まれます。起源と誕生からも男と女に優劣はありません。そしてすべてのものを造られるは創造主なる神ですから、すべてのものは神から出ました。そして男も女も神のかたちに造られたものです。

4、男の長い髪

パウロはここまで、女は礼拝ではかぶり物を着けなさいと言って来ましたが、着けずに神に祈るのがふさわしいかどうか、自分で判断しなさいと言います。10:15でも「自分で判断しなさい」と言いました。コリント教会員は8:1にもあったように、「私たちは皆、知識を持っている」と誇っていましたから、それなら、ここまで説明をしてきたのだから自分で判断出来るでしょうということです。

パウロは、「自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか」と問います。ここで気を付けることは、パウロのいう自然は完全なる自然のことではありません。この当時でも地理的また文化的に離れている地域では男で長い髪を持つ者もいたようです。

ですからここでパウロが自然と言っているのは、パウロやコリント教会にとって自然と感じるような習慣のことです。この当時、ユダヤ、ローマ、ギリシャでは男は髪は短く、女は長い髪でした。コリントには、6:9にあったように、男娼、男の娼婦や男色、男の同性愛者がいました。男は長い髪が恥であるというのは、男娼や男色の男は長い髪をしていたからです。

5、女の覆い

そして女で髪の短いのは、先週もありましたが捕虜や奴隷でした。女は長い髪が誉れです。「女の髪の毛には大象も繋がる」ということわざもあります。これは勿論、女の髪の毛には大象も繋ぐ程の物理的な強さがあるという意味ではありません。それ程の魅力のあるものという意味です。

そして女の長い髪は、覆いの代わりに女に与えられています。これは少し混乱するような説明です。女の長い髪が覆いの代わりに与えられているのなら、かぶり物を着ける必要はないのではないかと思ってしまいます。覆いだけに、「おーい、パウロ先生、どうなっているのですか」と聞きたくなります。パウロの手紙を読んでいると、後の時代にパウロの手紙から説教をする牧師等のことを考えて書いてくれているのだろうかと感じてしまうこともあります。しかし全て神の御手の中にあることです。

さて、女の長い髪は覆いの代わりというのは、どういう意味なのでしょうか。註解書等を色々と読んでは見ましたが、これだと思うような説明は見当たりませんでした。ですのでこれはとても個人的な思いではありますが、思うに女は覆いをまとう存在であるという意味ではないかと思います。

15世紀のルネッサンス期のイタリアで「ヴィーナスの誕生」という絵が描かれましたが、そのようなイメージです。基本的には男も女も同じです。ローマ13:14は「主イエス・キリストを着なさい」と言います。私たちは自分の権利や自由を貪るのではなくて、主イエス・キリストを着て霊的な節制をします。聖書を見ますと、それが女に特に現れているのではないでしょうか。

ルツ記のルツは自分を覆って義母のナオミに付いて行きました。主イエスの母マリアは、「お言葉どおり、この身になりますように」と自分を覆って自分を献げました。そして女にとっては自分を覆うことが、魅力的な長い髪のように誉れなのではないでしょうか。そしてそれは男の栄光を映すことです。

野田牧師は案外古い考えなのだなと思われるかも知れませんが、これは私自身の考えというのではなくて、聖書に基づくとその様に説明をせざるを得ない感じがします。そして誉である長い髪ではありますが、それは男に従って男の栄光を映すものですので、礼拝ではかぶり物によってさらに覆う必要があります。

6、習慣

このかぶり物については、現代の日本でも異論を唱えたい人がいると思います。また当時、かなり自由で、もしかすると現代に近い感覚であったかも知れないコリントには異論を唱えたい人がいたかも知れません。

パウロはその様なことも想定して、そういう人がいるとしても、「そのような習慣は、私たちにも神の諸教会にもありません」と、習慣に訴えます。確かに習慣は理屈を上回る部分があります。良く聞くのは、日本では髭を伸ばしていない男性が、中東に駐在になると髭を伸ばすと言われます。中東では髭を伸ばしていないと一人前の男と認められないからのようです。

パウロがここで習慣を持ち出すことは自分の主張を補強するためですが、やはり習慣は尊重すべきものです。現代では男で長い髪をしている人もいますし、女で家事や育児、仕事をしている人は短い髪の方が機能的な感じがします。そのように考えますと、日本の色々な習慣も尊重しながら、偶像礼拝に陥らないようにする知恵も必要となって行きます。

7、適用

ではこの礼拝の時に女は頭にかぶり物をつけるべきであるという議論の、現代の日本への適用はどのようになるのでしょうか。パウロの理屈から言うと、かぶり物は着けるべきです。しかし習慣からいうと、日本では女が礼拝でかぶり物を着ける習慣は殆ど無いと言えます。

日本でもカトリックのシスターは制服のような感じであるのか、普段から頭にかぶり物を着けています。恐らくここの御言に基づくのだと思います。かぶり物を着けても良いのではと考えられる理由は、日本の伝統的なものではまず初めは外側の形から入って、形の中に心を少しづつ込めて行くという考えがあります。

お花や茶道、空手の型等もそうだと思います。そういう意味でかぶり物を着けることによって、男の栄光を覆って、神の権威の印を意識するためにというのであれば着けても良いのではないかとも思います。ただ他の人に着けるように強要することはすべきではありません。

ではかぶり物を着けなくても良いと思われる理由はどういうことでしょうか。それは日本にはかぶり物を着ける習慣がないからです。しかし日本に習慣がないからと言って、聖書の御言に従わなくて良いのでしょうか。

それは先週もお話しましたが、本当に大切なのはかぶり物を着けるか、着けないかというよりは、神の栄光を映すか、それとも男や自分の栄光を映すかです。その意味で言いますと、かぶり物を着けると急に神の栄光を映すようになるのでしょうか。そんな簡単なことではないように思います。

ではここでかぶり物が表す霊的な意味はどの様なことでしょうか。それは神の栄光を映すようにと私たちを導く聖霊であることが分かります。私たちは聖霊に覆われた時に、この個所が言うかぶり物を着けた様に、人間の栄光を映すのではなく、神の栄光を映す者とされます。

ですから男も女も聖霊の満たしの中で、自分の頭には恵みにより神の権威の印である聖霊がおられることを意識して礼拝を献げさせて頂きましょう。ローマ12:1は、「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」と言います。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたはかぶり物を用いてあなたの栄光を映すことを教えらえました。私たちは礼拝に限らずに、いつも聖霊の導きによって自分を覆って神の栄光を映す者として歩めるようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。