教会の集まりは主の晩餐

2020年11月29日
コリントの信徒への手紙一11章17~22節

主の御名を賛美します。今年はコロナウイルスの影響で難しいと思いますが、例年ですとこれからは忘年会のシーズンです。忘年会に限らず、私たちは親しい人と、またこれから親しくなりたい人とは食事を一緒にしようとします。例えば、親しくなりたい男性と女性のデートや、また同性同士でも気の合う人での食事会、またビジネス等で親しい関係を作りたい人とは接待で食事を一緒にします。

これはなぜなのでしょうか。同じ物を食べることによってそこに一体感が生まれます。同じ釜の飯を食った仲間等と言います。また食欲を満たすという喜びを共にすることでそこに絆も生まれます。一緒に食事をすることの意味を思いつつ、今日の御言を聴かせて頂きましょう。

1、教会の集まりが悪い結果

今日からアドベントです。アドベントは「到来」の意味で主イエスが2千年前に、この世に来られたクリスマスを待ち望む時であると共に、再びこの世に来られることを待ち望む時でもあります。アドベントにはそれらしい聖書個所を選ぼうかという思いもありましたが、聖書は主イエスを証するものですから、どこからでも主イエスを証できるとの思いから、続きの聖書個所とさせて頂きました。

2節ではパウロがあなたがたであるコリント教会に伝えたとおりに教えを守っていることを褒めていましたので、礼拝の時に頭にかぶり物を着けることをコリント教会の女は守ろうとしていたようです。しかしこの後のことについては、23節からの「あなたがたに伝えたこと」を守っていないので褒めるわけにはいきません。

それはどのようなことでしょうか。17節では「あなたがたの集まり」、18節では「あなたがたが教会に集まる時」のことです。教会という言葉は、元々、教会堂の建物ではなくて人の集まりという意味です。その意味を込めてテレビのライフラインでの茂原教会の写真は教会堂の前で教会の人が写っている写真を使っていることを覚えて頂ければと思います。

この当時は教会堂はまだ余りなく信徒の家に集まることが多くありましたので家の教会でした。教会の集まりに限らず、人々の集まりは何のためにしているのかと言えば、良い結果を招くためです。しかしコリント教会の集まりは反対に悪い結果を招いていると言います。良い結果ではなくて、悪い結果を招く位なら集まりをしない方が良いことになってしまいます。ですからパウロは褒めるわけにはいきません。

2、互いの間の分裂

悪い結果の具体的な内容ですが、パウロがローマ3:2でも言っていたのと同じに「第一に」がありますが、ローマと同じように第二、第三はありません。これは強調のための表現とも思われますが、第二は34節の「その他のことは、私がそちらに行ったときに決めましょう」で、第三は12~14章にある霊の賜物や異言や預言のこととも思われます。

教会に集まるときというのは、現代でも同じですが日曜日の礼拝に限らず、平日の祈祷会等の時のことです。その時に、互いの間に分裂があると聞いています。互いの間の分裂を分派争いとも言っています。これも1:11にあるクロエの家の者たちから知らされていたと思われます。

パウロは信頼している人たちから聞いているのである程度それを信じています。分裂があることは、とても残念だと思いますが、パウロは誰が適格者であるかはっきりするためには、分派争いも必要だと言います。Ⅱテモテ4:3は、「誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます」と預言しています。そして惑わすことを言う人が出てくる中で、誰が真実を語る適格者であるかをきちんと見極める必要があります。

3、食事

さて、互いの間の分裂、分派争いとは具体的にはどのようなことでしょうか。それは食事のとき、各自が勝手に自分の食事を済ませていることです。気心の知れた家族同士であれば、何の遠慮なく各自が勝手に自分の食事を済ませることは、ある程度は許されるかも知れません。

しかし家族以外の人と食事を一緒にするときに、例えばデート等でこのようなことが有り得るでしょうか。そもそもなぜ人と食事を一緒にするのでしょうか。たまたま食事の時間になったから一緒に食べるということもあるかも知れません。

しかし初めにお話ししたように、敢えて食事を一緒にするのは親交を深めるためです。ですから食事でレストラン等に一緒に行けば、自分の注文した物が出てきたらさっさと自分だけが独りで食べ始めるのではなくて、相手の注文した物が出てくるのを待って一緒に食べ始めたり、食べる時も相手と食べるペースを合わせたりします。

コリント教会のように各自が勝手に自分の食事を済ませることなどは有り得ません。コリント教会では、裕福な人は食事を一杯持って来て、自分だけでたらふく食べて、ワインも飲んで酔っている者もいました。その一方では貧しい人は持ってくる食事もなかったり、仕事が終わった後に教会の集まりに遅れて来たりして空腹な者もいました。

パウロは、「あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか」と問います。食べたり飲んだりすること自体を否定しているのではありません。34節で、「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」と勧めます。そんなに空腹なら家で食べて来くれば良いことで、何も教会で食べなくても良いでしょということです。

教会で食事を持参しない人々の前で、これ見よがしに飲み食いするのを見せ付けて、侮辱するのですか、それは神の教会を軽んじることですよと言います。この点については、褒めるわけにはいきません。それと33節で、食事のために集まるときは、各自が勝手に食べるのではなくて、互いに待ち合せて食べなさいと指示します。

4、主の晩餐

そもそも教会の集まりとは何なのでしょうか。今日の中心聖句の20節は、「しかし、それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません」と言います。これは裏を返せば、「一緒の集まりは、主の晩餐を食べること」ということです。主の晩餐とはマタイ26:26~28にあるもので、一般的には最後の晩餐と言われます。主の晩餐を記念して、現在の聖餐式は行われます。つまり教会の集まりの中心である礼拝は、主の晩餐を食べることである聖餐式ということです。

ここの御言通りにカトリックでは教会に集まる礼拝の中心は聖餐式で、礼拝=聖餐式です。聖餐式のない礼拝は有り得ないことで、礼拝では必ず聖餐式が行われます。それは説教題の通りに、教会の集まりは主の晩餐だからです。

毎回の礼拝で聖餐式を行うと時間が掛かると思って、カトリックの神父に説教の時間を聞いたところ、説教は長くて10分とのことです。確かに茂原教会でも聖餐式を行う時の説教は10分ではありませんが、普段の半分くらいとかなり短くなります。

カトリックでは礼拝には説教は特になくても良いようです。それは礼拝の中心は説教ではなくて聖餐式だからです。プロテスタントでは逆に聖餐式はなくても礼拝になりますが、説教のない礼拝は有り得ません。しかしそれでは、プロテスタントは20節の御言に従っていないのではないかと思われるかも知れません。

それは先週と先々週の女の頭のかぶり物の考え方と似ているのかも知れません。聖書には礼拝のときに女は頭にかぶり物を着けなさいと書かれていますので、カトリックのシスター等はかぶり物を着けます。しかしプロテスタントでは物質としてのかぶり物ではなくて、かぶり物の霊的な意味として、聖霊のかぶり物を着けて礼拝に出席します。

同じように、カトリックでは主の晩餐を食べることについて、御言通りに礼拝で聖餐式によってパンを食べて、ぶどう液を飲みます。プロテスタントでは、主の晩餐の霊的な意味である主イエスの十字架による福音の説教を聴くことによって御言を食べています。

聖書の御言通りの物質を重んじるカトリックと霊的な意味を重んじるプロテスタントの違いが表れています。これは頭のかぶり物の問題と同じでどちらの考え方が良いとか悪いということではないと思います。例えどちらであったとしてもそれが本来の目的を果たしているかどうかです。

礼拝の中心が聖餐式でも説教でも、パンが意味する主イエスが二千年前のクリスマスにこの世にお生まれになり、私たちの罪のために十字架に付けられ、体を裂かれたことを覚えているか。またぶどう液の意味する、主イエスの新しい契約のしるしとして罪が赦されて、新しいいのちに生きていることを思い起こして感謝しているかです。礼拝を通して主イエスの十字架を思い起こして信仰が深められているのなら、その中心は聖餐式でも説教でも良いと思います。

最近はカトリックもプロテスタントもお互いの良い影響を受けて、カトリックは説教が以前より重視されるようになり、プロテスタントは聖餐式を重視するようになり頻度が増えているようです。

ただ逆に礼拝で十字架を思い起こして信仰が深められていないのなら、聖餐式でも説教でも、それは主の晩餐を食べることになりません。礼拝が主の晩餐を食べることになっているのなら、それは具体的な行いに表れて来ます。そこには勿論、聖霊の力が必要ですが、各自が勝手に自分の食事を済ませて、空腹な者もいれば、酔っている者もいるようなことにはなりません。

5、愛餐会

茂原教会では今はコロナウイルスの影響で行っていませんが、以前は礼拝の後に愛餐会を行っていました。教会ではなぜ普通に、お昼ご飯とか昼食と言わないで、愛餐会等と言うのだろうと結構ずっと思っていました。

私はロンドンの日本人教会で初めは愛餐会の食事を目当てに教会に行っていましたので、そのような私が偉そうに言えるようなことではありませんが。以前は、どこの教会でも午前の礼拝が終わると、大体お昼ご飯の時間位なので、ついでにお昼ご飯を食べるのかな位に思っていました。

愛餐会の愛餐という言葉はユダの手紙12節から来ています。愛餐は原語ではアガペーと書かれていて神の愛の意味です。元々は裕福な信徒が、貧しい者のためにも備えた持ち寄りの食事で、教会の交わり、また聖餐式と同じでキリストにあって一つとなるためのものです。

愛餐会はやはり単なる食事ではなくて愛餐です。ですから愛餐会を通して隣り人を、「愛さんかい!」です。今は教会に集まっても聖餐式も愛餐会もありません。しかしそれでも教会の集まりは主の晩餐を食べることです。実際に一緒に食事をすることはありません。

しかしそこに愛餐、アガペーである神の愛があります。食べ物を持ってきて他の人に配る方もおられます。またそうでなくても聖餐式のように、皆が主イエスの十字架によって罪を赦された者、またこれから赦される者として、主イエスの一つの体であるという交わりがあるのは、主の晩餐を食べることです。聖餐式の原語の意味は交わりです。

主イエスは私たちの罪の身代わりとなるために二千年前のクリスマスにこの世に来られ、新しい契約のしるしとして主の晩餐を制定されました。私たちは今、コロナウイルスの影響で聖餐式も愛餐会も行えません。しかしそのような時であるからこそ、聖霊の力によって、この礼拝、また教会での集まり、交わりによって一つとなり、主の晩餐を食べることとなるようにさせて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは教会の集まりは、全て主の晩餐を食べることであると言われます。私たちは今、コロナウイルスの影響により聖餐式も愛餐会も行えません。しかし、このような時であるからこそ、私たちの一つ一つの集まりが、主の晩餐を食べることとなり、主イエスの十字架によって一つの体となって一致することが出来ますようにお導きください。またこのアドベントの季節に御子キリストのご降誕の意味を味わいつつ過ごす事が出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。