慰めを語る聖書

野田 栄美

学院の図書館で、ユダヤ人のラビが書いた一冊の本に出合いました。聖書の人物を解説する本です。私は最初に、ヤコブの妻だったラケルはどう書かれているのかと思い、名前を探しました。けれども、名前がありません。ちょっと驚いてから、レアはどうかと本をめくると、レアの章はありました。

日本では、恋愛結婚が増え、愛を受けることに重きがあるように、考えられています。ですから、ラケルとレアであれば、当然、夫の愛を受けたラケル(創世記二九30)の方が幸せだと思っていました。

けれども、その本では、レアは最初の妻となり、その祝福を受け継いだと語られていました。それは、アブラハムが墓として買ったマクベラの畑の洞窟に、ヤコブと共に葬られたのは、レアである(創世記四九31)ことからも分かると書いてありました。

創世記を読む度に、可哀そうに思っていたレアは、実は、祝福を受けていたと知った時、神は、一人一人を分け隔てなく、大切に扱ってくださっていると分かり、嬉しくなりました。

パンと水の革袋だけを与えられ、子どもと共に捨てられた召し使いハガル(創世記二一8~)も、正妻サラと比較すると心痛む仕打ちを受けた女性です。もう飢え死にするという時に、神が「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない」と、優しく呼びかけてくださいます。召し使いにさえも、神は目を留められました。

聖書が書かれた時代には、女性は人の数に含まれないような存在でした。その聖書を読んでいると、女性にとって心が痛むことが度々あります。

そのようなことに、心が釘付けになってしまう時、思い出してください。神は名も無き人を愛し尽くしてくださる方だということです。

食べ物がつきて息子と死を待つばかりのやもめ(列王記上17章)、夫を亡くし、債権者が子どもを取りに来る危機にある預言者の妻(列王記下4章)、捕虜として連れ去られ、ナアマンの妻に仕えた少女(列王記下5章)、両親を戦争で亡くした少女エステル(エステル記)。皆、愛の眼差しを神から受け、神の業のために用いていただく栄誉を受けました。神は、性別に関わらず目を注がれ、社会的立場に関わらず、ご自身の尊い業に用いてくださるお方です。

十字架にかけられた愛する息子を、目の前で見ていたマリアには、新しい息子をくださいました(ヨハネ十九26)。悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアに、復活されたイエスは最初に現れてくださいました(マルコ十六9)。聖書の隅々に、人の心に目を配っておられる神の姿を見ることができます。

聖書を読む時には、忘れないでください。聖書は、全体を通して語られることに注目して読むものです。あなたを苦しめるためにではなく、あなたを慰めるために語っています。

2021年2月号