「心を広く」
2021年7月18日説教
コリントの信徒への手紙二 6章3~13節
主の御名を賛美します。30年位前に英国から帰国して初めに入った商社で筋子を作る仕事でロシアに行きました。カムチャッカの中心都市から二か所の漁業コルホーズに行く時に、数日間いつ飛ぶか分からない飛行機を空港で待ちました。
コルホーズに着いても、いつになったら仕事を始められるか分からない状況で私は苛立っていたのかも知れません。年下の通訳から、「ロシアの広い心を知ってください」と言われました。当時の私はそんなものは知りたくもないという気持ちでした。しかし「郷に入っては郷に従え」の諺通りに相手の習慣を理解して尊重することも大切であると後で思わされました。
1、困難に対して
パウロたちを含めてクリスチャンの奉仕の務めは、キリストに代わっての使者の務めで、神の和解を受け入れることを勧める大切な務めです。ですから他のことについては兎も角、奉仕の務めについてだけは、とやかく言われないように、どんなことにも人につまずきを与えません。
そしてあらゆる場合に自分を神に仕える者としては推薦しています。それは全てにおいて完璧ということではなくて、神に仕える者として、5:15の「自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる」ことです。そのことの具体的な内容が4~10節に書かれています。
まず、「大いなる忍耐をもって」ですが、これはこの後に続く4、5節の9つのことに対してです。ヘブライ10:36に、「神の御心を行って約束のものを受けるためには、忍耐が必要なのです」とあるように、忍耐はクリスチャンの基本です。忍耐について皆さんは如何でしょうか。
忍耐が必要なこととして9つのことがありますが、これらは狭い意味ではパウロが使徒となったが故にのことですが、広い意味ではクリスチャンになったが故に全ての人が直面するもので、三つづつの三つのグループに分けられます。皆さんはこれらのどれに今、自分があっているでしょうか。
一つ目のグループは外側からの原因で起こる一般的な困難で苦難、困窮、行き詰まりです。現代ではクリスチャンになったからといって特に何の苦難も無いという人もいますが、人によっては家族関係や周りの人のことで苦難を抱える方もいますがそれに忍耐します。
二つ目の困窮は、生活の最低限の衣食住等に困ることと思われますが、これは主に伝道者のことと考えられますが、パウロは11:27で、寒さに凍え、裸でいたこともありましたと言いますが、それも忍耐します。三つ目の行き詰まりは、正に八方塞がりの状態ですがそれでも忍耐します。
二つ目のグループは迫害である、鞭打ち、投獄、騒乱です。11:23からのパウロが経験した苦難のリストに鞭打ち、投獄が挙げられています。現代の日本ではクリスチャンだからということで、物理的な意味での鞭打ち、投獄に遭うことはありません。
しかし精神的な意味での鞭打ち、投獄のようなことは現代でも経験することもありますし、騒乱は実際に起こることです。三つ目のグループは本人に焦点を当てた困難で労苦、不眠、空腹です。労苦は労働の苦しみですが、この時代には旅の難も多かったと11:26で言っています。
不眠は用語からいうと、敵に襲われる等の危険のために寝れない状況を指すようです。また空腹は、11:27でいう、飢え渇き、しばしば食べ物もない状態です。いくらキリストの使者といってもこれほどの多くの困難に対してどのように大いなる忍耐をもつのでしょうか。
2、使者
初めに純潔によってです。純潔は純真という意味もある言葉で、自己中心でないことです。それは前の9つの困難に対しても5:14にありましたように自分に死にます。その上で知識によってですが、ここでいう知識はこの世の知識ではなくて、5:17の新しく造られた者として、神が啓示された知識である聖書の言葉です。
その後に、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛と続きますが、寛容、親切、愛はガラテヤ5:22の霊、聖霊の実です。ここまでパウロは多くの言葉を使って言っていますが、纏めて考えると9つの困難に対して自分に死にます。そして知識、それは真理の言葉に従って、聖霊、神の力によってそうしています。キリストのために生きるとは、自分に死に、真理の言葉に従って、神の力である聖霊の力によって生きることです。
またそれは、左右の手に持った義の武器によってですが、これは霊の戦いのことで、エフェソ6:16、17で両手に持つ武器は、「信仰の盾、霊の剣」です。4、5節の困難に対して、信仰の盾で守って、霊の剣で6節のことを行うということでしょう。
2:12からここまでずっとパウロは、パウロは使徒ではないと反対する者に対して使徒であることを説明して来ました。これはパウロに限ったことではありませんが、伝道者、クリスチャンは、いつの時代でも、信仰のある人、良識のある人からは、栄誉を受け、好評を博しますが、そうでない人からは侮辱を受け、不評を買います。
パウロはここでも正反対の対の言葉を使って説明します。これらは直接的にはパウロたちのことですが全てのクリスチャンに当てはまることです。パウロに反対する者は、パウロは自分は使徒だと言って人を欺いていて、パウロが使徒であることは人に知られていないと言います。
しかしパウロが使徒であることは真実であり、神に知られ、またコリント教会を初め多くの教会の人に知られていることです。また4、5節の様な懲らしめを受けて、死にかけているようでいて、いつも神に救い出されて、殺されずに生きています。
Ⅰテサロニケ5:16に、「いつも喜んでいなさい」とありますが、パウロに悲しみがない訳ではありません。開拓したコリント教会が問題だらけになって自分に反対する者もいて、2:4では涙の手紙を書きました。しかしそこで終わるのではなくて、主から慰めを受けて、希望を持って喜んでいます。
またパウロは物質、金銭的な意味では貧しいようですが、多くの人を霊的に富ませています。金銭的にもパウロ自身は持っていませんが、エルサレムの聖徒たちのための募金を集めて与えます。パウロは物質、金銭だけではなくて、多くの人から正しく理解されていませんので好意も持たれていませんので、何も持たないようです。しかし全知全能の神に仕えることは、全知全能の神から無限の恵みをいただきますので、すべてのものを所有することになります。
3、心を狭める
ここまで語って来たパウロは、「コリントの人たち」と呼び掛けて、「私たちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。私たちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたのほうが自分で心を狭めているのです」と言います。心を狭めるというのは、どういうことでしょうか。
それは5:16でいう、肉に従って知ることです。生まれながらの罪の性質である肉に従って知るのは、自己中心の思いで知ることです。自己中心で凝り固まっていますから心を狭めています。そして全てが自分の思い通りでなければ受け入れません。
ところがこの世の中、全てが自分の思い通りに行くほど甘いものではありません。その結果、心を狭めている人にはどの様なことが起こってくるでしょうか。あらゆることに不満を抱いて、あらゆる人とトラブルを起こして行きます。本人に取ってもとても辛いことだと思います。
なぜその様な状況から抜け出すことが出来ないのでしょうか。それは自分が正しいと思っているからです。自分が正しいことをしていると思って間違ったことをしている人に、その間違いに気付かせるのは中々、大変なことです。普通の会話が成立しない場合もあります。
今はコロナの影響でほとんどありませんが、茂原教会の中のことではなくて、色々な問題が発生した時に呼ばれて和解の務めをさせていただくことがあります。色々なところに行かせていただく中で気付かされたことがあります。それは問題の種類は様々ですが、根本的な問題はほとんど全て同じであることです。
そこには心を狭めて頑なに自分の考えだけを主張する人がいます。一応皆さん、クリスチャンのようですが。問題を解決するには一度、自分の考えを離れて、他の立場の人や他の人がなぜそのように考えるのかを理解して貰う必要があります。
言葉で言うと、この一言だけなのですがこれ程、言うは易く行うは難し、であることはありません。5月号の「りばいばる」に書きましたが、私は基本的に自由主義で、望まない人に余計な口を鋏んで干渉するのは好きではありません。聞く耳を持たない人に何かを言うのは無駄ですし、本人が刈り取る結果から学ぶ必要があると思うからです。勿論、望まれる人には喜んで関わらせていただいています。
しかし心を狭めている人が、必然的に刈り取ることになる結果、報いを見ての後悔もあります。今から思い返しても、自分が何か心を広くするように言ったとしても結果は何も変わらなかったとは思います。逆にその人との関係を悪くするだけだったとは思います。
しかし何もしなかったという後悔よりは何かをしてだめだった方が良いのかとも思います。キリストの使者として、人に嫌われるとか、結果は何も変わらないということは考えないで、ただ自分の役割を果たす必要も感じています。
ただ自分の考えではなく、本当に聖霊の導きを求める必要を覚えています。
4、心を広く
コリント教会が心を狭めているのに対して、パウロたちの心を広く開くとはどういうことでしょうか。心を狭めるのは肉に従って自己中心の思いですから、心を広くは、自己中心ではなくて、自分に死んで、キリストの思いになることです。
自分の思いから離れて、相手の立場、状況を考えて相手の思いを理解しようとすることです。福音書で主イエスが罪人と呼ばれていた人たちを、そのままの状態で受け入れたように受け入れることです。パウロがコリント教会を開拓して世話をし続けていて裏切られても愛し続けることです。
大いなる忍耐をもって行います。このようなことは本当に自分の思いで出来ることではありません。本当に自分に死んで、4:10にある、主イエスの命がこの身に現れていただく必要があります。
最後にパウロは、「子どもに話すように言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください」と言います。霊の父として霊の子どもであるコリント教会に言うということです。コリント教会が心を狭めたのは、自己中心的な考えもありますが、11:13の偽使徒の存在が大きく影響しています。
偽使徒はコリント教会に対してパウロについて、あることない事を言って不信感を抱かせたようです。心を広くするというのは、自分の考えを離れて何でもかんでも受け入れることではありません。現代は情報社会で情報が溢れていますが、それらの全てを受け入れることが心を広くすることではありません。
善いものは受け入れますが、逆に百害あって一利なしのものは一切受け入れません。しかしなぜか心を狭めている者は、善いものには心を開かないのですが、胡散臭いものには心を開き易い屈折した思いがあって、悪循環が起こり易くなります。
そこで善悪を見極める目が必要になって来ますので、7節の真理の言葉に従って、神の力によって見極める必要があります。そして左右の手に持った信仰の盾、霊の剣によって、善いものを受け入れ悪を除きます。
私たちが顔を主に向けているなら、キリストの愛が私たちを捕えて離さずに、真理の言葉、神の力によって安心して心を開いてくださいます。聖霊の導きの中で善いものに心を広く開いて受け入れさせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは自分の考える正義に捕らわれ易く、心を狭め易いものです。しかしあなたは大いなる忍耐をもって自分に死に、真理の言葉、神の力によって歩みなさいと言われます。それが私たち自身にとっても最善の生き方です。
聖霊の導きの中で、私たちが善悪を見分けて、善いものに対して心を広く開くことが出来ますようにお導き下さい。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。