「生ける神の神殿」
2021年7月25日説教
コリントの信徒への手紙二 6章14節~7章1節
主の御名を賛美します。学校等は夏休みに入りましたので、お子さんのいる家庭は色々と大変だと思います。私が約50年前に小学生だった時には午前中は子供向けのアニメがテレビで放映されていて良く見ていました。
私が住んでいた家の周りには我が家を含めて5軒に同じような年頃の小学生のいる家が固まっていました。そこで夏休みは良く他の人の家に行って一緒にアニメを見たりしていました。3歳年上の少しずる賢いような、こうちゃんという人がいて、私を自分と似ていると思ったのか可愛がってくれて、家に呼ばれて一緒にテレビを見たりしていました。
こうちゃんは私に空手バカ一代のアニメを見せて、この人は凄いんだよと言っていました。私が小学生の終わり頃に我が家は引越してしまい、こうちゃんには会わなくなりましたが、大人になってから偶然に再会した時には、二人共に空手バカ一代の空手を習っていました。
本当に「朱に交われば赤くなる」の諺通りに、人は関わる人の影響を受けるものだなと思いました。しかもこうちゃんに偶然会ったのは何と教会でした。私たちはお互いになぜ教会に来るようになったのかは敢えて聞きませんでした。
こうちゃんは何となく自分と似ているところがあったので、空手も一生懸命に練習して強くなったのだと思います。しかし空手の強さだけでは解決出来ない問題があることに気付いた時に、お互いに教会に来たのかなと思いました。
1、不信者
先週の12、13節で、コリント教会はパウロに対して心を狭めていますが、パウロは心を広くしてくださいとお願いしました。しかし心を広く開くのは霊の父であるパウロに対してであって、何に対しても心を広く開いて受け入れて良い訳ではありません。
そこで、「あなたがたは、不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません」と言います。以前は不信者という訳語は不審者と何となく似ているので良くないと思っていました。しかし今回は不信者という訳語は良いなと思います。不信者とはどういう人を指すのでしょうか。
不信者は言葉の定義からすると信者でない人ですので、求道中等でこれから信仰を持とうとする未信者も含みはしますがニュアンスが少し違います。不信者という言葉には信者であるないに関わらず不信実な者という意味があります。具体的な内容がⅠコリント5:11に書かれていました。
きょうだいと呼ばれる人ということは、一応は信者で、パウロの念頭に置いているのは特に11:13の偽使徒です。信者はその様な不信者と、釣り合わない軛を共にしてはなりません。軛は動物の首の部分に取り付けて、田畑を耕したり荷物などを運ぶのに働き易くする道具です。
申命記22:10は「牛とろばを一緒にして耕してはならない」とあります。牛とろばは物理的には歩幅も引っ張る力も違いますので、軛を一緒にして耕させたらバランスが取れません。霊的には牛は清い動物であるのに対して、ろばは清くないということもあります。軛が釣り合わないとお互いに疲れてしまいます。
2、5組の軛
パウロはこの手紙で、正反対の対の言葉を多く使っていますが、ここでも5組の言葉を使います。一方は正義、光、キリスト、信者、神の神殿で、その反対として、不法、闇、ベリアル、不信者、偶像があります。この二つのグループはそれぞれ何を表しているのでしょうか。
初めのグループに信者が入っていますので、何となく初めのグループは信者を表していて、信者は正義、光、キリスト、神の神殿のような気もします。しかしそうすると、その反対のグループは不信者が入っていますので、不信者は不法、闇、ベリアル、偶像となります。
信者は自分たちが正義、光、キリスト、神の神殿で良い方で気分が良いかも知れません。実際、ここの意味を何となくそのようである思う人もいるようです。しかし不信者にとっては、自分たちは不法、闇、ベリアル、偶像と悪く言われれば、冗談じゃない、聖書など読むかと思ってしまいます。
しかしこの箇所で言っていることは、信者はどういう者で、不信者はどういう者であるということではありません。釣り合わない軛についてです。つまりここで言っていることは、信者と不信者のそれぞれの軛が何であるかということです。
軛とは従うもののことで、使徒言行録15:10でペトロは律法のことを、「先祖も私たちも負いきれなかった軛」と言って、律法の軛は負いきれなかったと言っています。それに対して主イエスはマタイ11:29、30で、「私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」と言われました。
一つ目の軛である正義と不法は道徳的な規準としての正義を持つか持たないかです。信者は聖書の教える正義に基づいて判断・行動します。しかし不信者は不法であって法である正義の判断基準を持ちません。正義と不法は正反対ですので、関りを持てません。
二つ目の軛である光と闇は住んでいる霊的な世界です。信者は4:6にある、「キリストの御顔にある神の栄光を悟る光」の世界に住んでいますが、不信者はその光の当たらない闇に住んでいます。光がある所には闇は消えてしまいますので、光と闇が交わりを持つのは不可能です。
三つ目の軛であるキリストとベリアルのベリアルは聞かない名前です。ベリアルはヘブル語で、旧約聖書では、「ならず者」という意味で使われていますが、ここではキリストに対立するサタンの意味で使われています。三つ目の軛は誰を頭として生きるかです。
信者はⅠコリント12:27の通りに、キリストを頭として生きるキリストの体の一部分です。しかし不信者はならず者であるベリアル、サタンを頭として生きます。義であるキリストとサタンであるベリアルに調和は有り得ません。
四つ目は信者と不信者ですが、ここでは誰のために生きるかです。信者はキリストを軛、頭としますので、4:15の通り、自分に死にキリストのために生きます。しかし不信者は自分のために生きる自己中心ですので、目的が違う両者は関係を作れません。
五つ目は神の神殿と偶像ですが、これはどこで何を礼拝するかです。信者は神の神殿で神を礼拝するのに対して、不信者は偶像を礼拝します。偶像は、木や石で作った異教の神だけではなくて、神以外で神よりも優先する全てのもので、お金や財産、名誉、地位等で、両者には全く一致がありません。このように不信者と、全く異なる釣り合わない軛を共にしてはなりません。
3、生ける神の神殿
その後に、「私たちは生ける神の神殿なのです」と言いますが、これはどういう意味なのでしょうか。パウロは自分が言っていることは神の言われた言葉に基づくことであることを説明するために、良く旧約聖書を引用します。
「私は彼らの間に住み、巡り歩く。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」はレビ26:11、12等です。旧約聖書で神の民イスラエルは移動していましたので、初めは移動式の幕屋に住まわれました。その後にカナンの地に定住した後は、エルサレムの神殿に住まわれました。
では神は現在はどこにお住まいなのでしょうか。4:7で、「私たちは、この宝である神、イエス・キリストを土の器である人間の肉体に納めています」と言います。現在は信者の体が神のお住まいになられる神殿です。
神が住まわれた幕屋、神殿、また私たちの体も清いものです。なぜ清いかというと聖なる神が住まわれる場所だからです。幕屋、神殿、人間の体自体が清いというより、聖なる神が住まわれる場所だから清くなるということです。私たちは生ける神の神殿として三つのことが必要ですが、一つ目は、神の神殿に相応しく肉と霊のあらゆる汚れから自分を清めることです。
それはどのようにしてでしょうか。17節で、「だから、彼らの中から出て行き彼らから離れよ。汚れたものに触れるな」と主は言われますが、これはイザヤ52:11等です。この文章は文字通りに読めば、信者は不信者の中から出て行き、不信者から離れよというようにも読めます。
そうすると信者はこの世とどのように関わって生きて行くのでしょうか。これは現代を生きる信者も考えさせられることです。イザヤ52:11は元々は、捕囚で異教の地バビロンに連れて行かれたイスラエルに、異教に染まらないように異教の民から出て行き離れよと、物理的に離れることを命じたものです。
旧約時代の救いは、捕囚からの帰還等の物理的な意味が強かったのに対して、新約時代の救いは霊的なものですのでその教えも霊的に理解する必要があります。ここでは、不信者と釣り合わない軛を共にしてはならないと言っているのであって、社会や家庭等で不信者と物理的に共に生活してはならないと言っているのではありません。
信者は不信者から出て行き離れることを誤解して物理的に考えてしまうと、信者だけで集まって人里離れた所で生活したりするような考えになってしまって、実際にそのようなこともあります。しかしそのような生活をしてしまったら、5:20で言われていた、キリストの使者として神の和解を勧める務めが出来なくなってしまいます。聖書は全体を通して正しく理解する必要があります。
Ⅰコリント7:12、13では結婚した後に信者となった者は、結婚相手である不信者が結婚生活を続けることを望む場合には離縁してはならないとあります。ただ霊的に不信者の軛に引きずられて、罪を共に犯してはなりません。そのためには生ける神の神殿として、二つ目のこととして神を畏れることです。
18節の『あなたがたの父となりあなたがたは私の息子、娘となる』と全能の主は言われる」はサムエル下7:14です。しかしその前に、「そうすれば、私はあなたがたを受け入れ」と丸で前提条件のような訳になっていて、新改訳でも「そうすれば」と訳しています。しかし「そうすれば」と訳されている言葉は「そして」の意味です。
不信者の中から出て行き、離れて、汚れたものに触れないのが条件で、そうすれば、神が受け入れ、父となり、私たちが息子、娘となるのではありません。それでは行いによる救いであって、パウロがいつも言っている信仰による救いではありません。ここは救い、救われて新しく生まれ変わる新生のことを言っているのではありません。
ここは救われた者がさらに清められる聖化のことを言っています。神を信じる信仰によって、神はあなたがたを受け入れ、父となり、私たちが息子、娘となるという、このような約束を受けているのですから、完全に聖なる者となりましょうと言っています。
そして完全に聖なる者になるとは、不信者の中から霊的に出て行き、離れて、汚れたものに触れないことです。では私たちはこの世にあって、完全に聖なる者であり続けることは可能なのでしょうか。それはとても難しく、ほとんど不可能と言わざるを得ません。
なぜなら私たちは生ける神の神殿だからです。生ける神の神殿がなぜ聖であるかというと、生ける神が住んでおられるからです。生ける神が完全に支配する状態がずっと続くのであれば完全に聖なる者となることでしょう。
しかし罪人である私たち人間は、神を信じることによってその罪を赦されますが、罪を犯し易いという性質は依然として残ったままです。神に向けている目を逸らしてしまいがちです。ですから人間は完全に聖なる者となることを目指しつつも失敗を繰り返してしまう弱い者です。
しかし信者にとってはその自分の弱さを認めることが大切です。なぜなら12:10で言うように、「キリストの力は弱さの中で完全に現れる」からです。自分の弱さを知る者は、神を畏れ、謙虚に神の言葉に従って、誘惑に陥ることのないように、不信者と釣り合わない軛を共にしません。
自分を過信することなく、謙虚に神の言葉に従って、生ける神の神殿として、自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となることを目指して歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは主イエスの十字架の贖いの恵みによって、神の子とされる者です。肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょうと言われても、私たちは自分の力では到底出来ない弱い者です。
しかしあなたは全てをご存じで、私たちが誘惑に陥ることがないように、まず不信者と、釣り合わない軛を共にしないようにと勧めてくださいますから有難うございます。私たちが自分の弱さを認めて、謙虚にあなたの言葉に従い、生ける神の神殿として相応しく生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。