「慰めてくださる神」

2021年8月1日説教  
コリントの信徒への手紙二 7章2~7節

        

主の御名を賛美します。明日からまた緊急事態宣言となり、茂原市でもこれまでにないコロナウィルスの感染者数になっています。コロナウィルスの影響によって困難の中におられる方々に、助けが与えられることをお祈り致します。

今、茂原市では50歳以上のワクチン接種の予約が始まり私も対象者ですので早速、予約し今月中に2回受ける予定です。ウィルスの危険には対して正しく恐れて対応を取る必要はありますが、怖れだけに捕らわれる必要はありません。

実際に会うのとは違いますが、自宅に居ながらユーチューブで礼拝が出来て、ズームで祈祷会を行え、オンラインで色々な集会に参加出来るのは感謝なことであり、感謝なことにも目を留めたいものです。物事の多くにはプラスの面とマイナスの面の両方がありますので、偏らずに両面を正しく見てプラスの面への感謝を覚えたいと思います。

1、共に死に、共に生きる

今日の個所の内容は、直接的には6:12、13の続きになります。確かに続けて読むととてもスムーズです。コリント教会にはパウロたちを受け入れない人たちがいますので、「どうか、私たちを受け入れてください」とお願いします。

コリント教会がパウロたちを受け入れない理由は11:13の偽使徒がパウロたちについて悪い噂を流しているからです。どのような悪い噂であるかはパウロの話から考えることが出来ます。パウロは悪い噂話の3つのことは事実ではないと否定します。

それは、私たちは誰にも不正を働かず、誰をも破滅させず、誰からも貪り取ったりしませんでした。これはどのようなことを言っているのでしょうか。この内容と思われることが12:16~18に書かれています。

パウロや同労者のテトス等がコリントに滞在した時に、コリント教会に重荷を負わせなかったにも関わらず、偽使徒はパウロたちは不正を働いて、破滅させて、貪り取ったと言いふらしていました。そしてそのことを真に受けたコリント教会員は、パウロたちはとんでもないと思って受け入れませんでした。

勿論、パウロはコリント教会が重荷を負わなかったことを責めるつもりで、このようなことを言っているのではありません。前にも言ったように、コリント教会はパウロたちの心の中にいます。6:11、12で、パウロは心を広く開いて、コリント教会を受け入れていると言いました。

コリント教会はパウロたちの心に受け入れられて心の中にいますので、一心同体でパウロたちと共に死に、共に生きる存在です。それは5:15にあったように、パウロたちと共に自分に死に、死んで復活してくださったキリストのために共に生きる存在であるということです。

コリント教会に対するパウロの姿勢を見ると本当にお人好しが過ぎる程に面倒見が良いなと思います。コリント教会のために一生懸命に尽くして、何の報酬も得ていないのに、あいつは偽使徒だとか、不正を働いて、人を破滅させて、貪り取っていると作り話を言われて受け入れて貰えません。自分がパウロと同じ立場であったとしたらどのように感じるでしょうか。多くの人は、そこまで自分が尽くしても悪を持って報われるなら、もう後はコリント教会は自分の好きなように勝手にしたら良いと思うのではないでしょうか。そして神の正しい報いを受ければ良いと。

しかしパウロはそうはしません。自分で開拓したコリント教会員はパウロの霊的な子どもで愛する羊です。今はただ悪い羊飼いに騙されて悪い方向に向けられているだけです。今ここでパウロが見放したら、コリント教会は本当に悪い方向に引き連られてしまいます。

パウロ自身が以前は本当のことを知らないでクリスチャンを迫害していました。しかしそれでも神はパウロを見捨てずに、キリストの十字架による贖いの愛を持って受け入れてくださいました。パウロはかつての自分が受け入れていただいた神の愛を持ってコリント教会を受け入れています。

そして愛を持って受け入れていますので、極めて率直に語っています。私たちが極めて率直に語る相手は自分が受け入れている人です。自分が受け入れていない相手に率直に語ることは出来ません。またパウロはコリント教会のことを大いに誇っています。14節では、コリント教会のことをテトスに対しても誇っています。

パウロは6:13でコリント教会に対して、「子どもに話すように言いますが」と言い、実際、コリント教会員は、5:17のキリストにある新しく造られた者です。コリント教会の歩みは確かに拙いものです。しかし新しい命を与えられて新生した者です。命のある者は例え時間が掛かっても必ず成長するものです。

親というのは、自分の子どもが例えどの様な状況でも無条件で受け入れて、極めて率直に語りかけて、大いに誇りにするものです。周りからは親ばかと見られることもあるかも知れません。しかし子どもはそのように無条件に受け入れてくれる親の無償の愛があって初めて安心して心が健全に成長出来るものです。

子育て中の方はぜひそのことを心に留めていただければと思います。これは私自身の反省も込めてお願いします。そしてこれは子ども相手だけではなくて、パウロがコリント教会に対して行っているように大人に対しても同じことです。

2、慰めてくださる神

コリント教会はパウロの主にある愛によって歩みますが、パウロ自身はどうなのでしょうか。パウロは、私は慰めに満たされていると言います。パウロは4~7節の短い文章の中で「慰め」という言葉を5回使って強調しています。そして今回はどのように慰められたのかを5~7節で具体的に説明します。

パウロがマケドニアに着いたときのことです。これは2:12、13の続きです。こうして見るとパウロは話が良く飛ぶようです。少し話を振り返りますと、パウロはエフェソでの伝道を終えて、トロアスに伝道に行きましたが、トロアスではテトスと会う約束になっていました。

テトスはパウロが書いた涙の手紙を持ってコリント教会に行って、その報告をトロアスでパウロに行う約束になっていました。しかしトロアスにテトスが来ないので、コリント教会はどうなって、テトスはどうなったのか、居ても立っても居られなくなったパウロは、マケドニアにテトスを迎えに行きました。そしてマケドニアに着いたとき、パウロたちの身には全く安らぎがなく、さまざまな苦しみに遭っていました。外には戦い、内には恐れがありました。安らぎがなく、内には恐れというのは、コリント教会とテトスに対する心配です。

私たちも自分が気にして心配していることが、どうなっているのか何も分からないと安らぎがなく、悪いことも考えたりして恐れてしまうものです。「便りが無いのは良い便り」という諺もありますが、とてもそのように楽天的には考え難いものです。

外には戦いの具体的な内容は分かりませんが、使徒言行録16章で、パウロが前にマケドニアに行った時には投獄もされていますので、色々な戦いがあったようです。「しかし、神は気落ちした者を慰めてくださる」と言います。この時のように、いくらパウロと言えども、さすがに気落ちすることもあるでしょう。

しかし神は気落ちした者を慰めてくださいます。それはどのような方法によって慰めてくださるのでしょうか。神は全能のお方ですから、「パウロよ、慰められろ」と言って超自然の力で慰めることも可能だとは思います。しかし神は何かをされる時にご自身だけでされる時もありますが、色々なものを用いて交わりを大切にされるお方です。

パウロたちの一番の願いはテトスに会うことでした。そこで全能の神は、パウロたちが一番望んでいるテトスの到着によってパウロたちを慰められました。キリストのためにさまざまな苦しみに遭っているパウロに対して、神はパウロにとって最高の慰めを与えられます。

この箇所はマタイ5:4の山上の説教の「悲しむ人々は、幸いである その人たちは慰められる」を思い起こさせます。しかしパウロたちの本当の願いはテトスに会うこと自体だけというよりも、テトスからコリント教会の良い報告を聞くことです。

全てをご存じである神は、パウロたちにテトスを会わせるだけではなくて、テトスがコリント教会から受けた慰めによっても、パウロたちを慰められました。私たちも自分が直接に慰められるのも励ましになりますが、自分が大切に思っている人が慰められることは、自分への慰めに勝るとも劣らぬものです。

テトスはコリント教会からどのように慰めを受けたのでしょうか。それはコリント教会がパウロを慕い、パウロのために嘆き悲しみ、パウロに対して熱心であることによってです。しかし2節によると、コリント教会はパウロたちを受け入れていなかったのではないでしょうか。そこにはテトスの働きがありました。

コリント教会はパウロたちを受け入れていませんでした。そこでテトスが2:4のパウロが書いた涙の手紙を持って先にコリント教会に行きました。コリント教会は偽使徒から吹き込まれた悪い噂によってパウロに対して不信感を抱いています。

そこでパウロが直接にコリント教会に行くよりもテトスがまず行ってパウロに対する誤解を解く必要がありました。テトスはコリント教会にパウロの本当の思いを丁寧に説明したのでしょう。テトスがコリント教会に持参したパウロの涙の手紙は、来週の内容ですがとても厳しい内容のようです。

しかしそれはパウロがコリント教会を責めるためのものではなく、愛するコリント教会が良い方向に進むためのパウロの愛に基づくものでした。そのことを説明して、コリント教会が慕うべきは、口から出まかせを言う偽使徒ではなく、真実にコリント教会を愛するパウロである事、またパウロが今、どれ程に嘆き悲しんでいるか、またどれ程にコリント教会に対して熱心であるか等を伝えたことでしょう。

テトスは忠実に自分の役割を果たしてコリント教会のパウロへの信頼を回復させました。テトスにとっても自分の役割を果たせたこと、それも自分の尊敬する師であるパウロとパウロの愛するコリント教会を和解させる務めを果たせたことは大きな喜びです。

11:23からの所にパウロが遭った苦しみのリストがありますが、投獄、鞭打ち、死ぬような目に遭う等の壮絶なものです。良くこれだけの苦しみに遭って耐えられるものだと驚いてしまいます。しかし気落ちした者を慰めてくださる神は、パウロに忠実な同労者であるテトスやテモテを備えてくださいます。

そしてテトス等を通して慰めを与え、喜びに満ち溢れさせます。今日の個所では、慰めが5回使われて強調されていますが、7章の4つの段落の内3つの段落の終わりは喜びで終わっています。主にあって苦しみに遭う者は慰められるだけではなくて、喜びに満ち溢れます。

Ⅰテサロニケ5:16は「いつも喜んでいなさい」と言いますが、これは痩せ我慢をして喜ぶのではなくて、主にある苦しみの中には慰めと喜びがあります。パウロはこのような神による慰めと喜びの体験を繰り返しているので、11:23からのような苦しみ耐えられるのではないでしょうか。

そして気落ちしたパウロをテトスによって慰められた神は、私たちにもテトスを備えていてくださいます。私自身も牧師としての働きを続けられるのも、さまざまな苦しみに遭っても、神が備えてくださった多くのテトスに慰められ、喜びに満ち溢れさせていただいていることを感謝しています。

私たちの人生には苦しみはありますが、苦しみだけに目を留めるのか、それとも自分を慰めてくれるテトスを通して神に目を留めるのかによって心の状態は大きく変わって来ます。私たちは聖霊の導きによって、どんな苦しみのうちにあっても慰め喜びに満ち溢れさせてくださる神に目を留めましょう。

また自分がいつも慰めを受けるパウロではなくて、パウロを慰めたテトスとして用いていただきましょう。全ての人が神からの慰めを必要としています。お互いに主にある和解の務めを果たして、慰め合い、喜びに満ち溢れて歩ませていただきましょう。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちの人生には色々な苦しみがあります。今、苦しみにある方々をどうぞ慰めてください。そしてどんな苦難のうちにあっても主にある喜びに満ち溢れさせてください。そしてどうぞ私たち一人一人を、人を慰める務めにお用いください。

またコロナウィルスの感染拡大によって、茂原教会も今月一杯は原則としては会堂に集わないこととしました。どうぞ教会に連なる方々の一人一人の健康と信仰と生活をお守りください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。