「祝福の業」
2021年9月5日説教
コリントの信徒への手紙二 9章1~5節
主の御名を賛美します。先週の礼拝の賛美で歌詞が1節だけの165番を賛美しましたが、2回繰返し賛美することを事前にヒムプレーヤーを操作している妻に伝えていませんでした。その前の週にも2回繰返しの賛美がありましたが問題ありませんでしたので、大丈夫かなと思っていました。
妻のために少し言い訳すると、今はヒムプレーヤーの表示が時々出なくなってしまっていて、賛美の番号を間違えないことに気が行っていて2回繰返しの指示を聞き逃してしまったとのことです。事前に確認することの大切さを改めて教えられました。ただ先週の動画を今から見直しても編集していますので、動画では何事も無かったかのように2回繰返しています。確認することの大切さを覚えつつ今日の御言を聴かせていただきましょう。
1、熱意、熱心
パウロはコリント教会に、「聖なる者たちへの奉仕について書くのは、もうこれで十分でしょう」と言います。8、9章はエルサレムの信徒のための献金についてですが、献金という言葉を使わずに、ここでは献金を、聖なる者たちへの奉仕と言います。
そしてもう十分な理由は、パウロはコリント教会の熱意を知っているからです。コリント教会の熱意とはどのようなものでしょうか。コリント教会は8:10で、「昨年以来、自ら願ってエルサレムの信徒のための献金を始めました」。
それでパウロは、コリント教会のあるアカイアでは昨年からすでに献金の用意ができていると言って、マケドニアにあるフィリピ、テサロニケ、べレアの教会の人々にコリント教会のことを誇りました。コリント教会の熱心は多くの人を奮い立たせました。
以前に8:1~5を読んだ時には、まずマケドニアの諸教会が献金に熱心であって、次にその姿勢を見習ってコリント教会も献金をするようにパウロが勧めているように見えますが、実は順番は逆で、コリント教会の熱心がマケドニアの諸教会を奮い立たせていました。
2節で、熱意と熱心という言葉が使われていまして、先週もお話ししましたが、7章から熱心、熱い思い、熱意などの言葉が繰り返されていますが、これは聖霊の働きです。そして今日の個所では、コリント教会の熱心は多くの人を奮い立たせたと言いますが、果たして熱心というのはある人から他の人に伝わって行くものなのでしょうか。
マケドニアの諸教会の熱心はコリント教会の熱心によるもので、コリント教会の熱心はパウロたちの熱心によるものです。そしてパウロの熱心は、使徒言行録9章で出会った主イエスの熱心によるものです。
キリスト教は現在は全世界に広がっていますが、元々は主イエスと寝食を共にした12弟子に主イエスの熱心が伝わり、その熱心が次々に伝わって行ったものです。聖霊の働きである熱心は他の人に伝わって行くものです。東京聖書学院が全寮制であるのは聖霊による熱心を伝えるためでもあります。
前に一度お話したことがあると思いますが、私が13年位前に牧師になるために神学校に行くという話を周りの人たちに話したところ、ほとんどの人は驚いていましたが、唯一人だけ、「あなたが牧師になるのは時間の問題だと思っていました」と言われた方がいました。
初めは、この人は私の信仰を見抜いて将来を予測する素晴らしい目を持つ人だと思いましたが、そうではありませんでした。その方曰く、私の妻の両親が熱心に伝道をしていたので、その伝道の熱心があなたに伝わらないはずがないと思っていたと言われました。確かにそうかも知れません。
それ以上のことをその方は言われませんでした。しかしその方は私が初めに行った教会の牧師であり私たちの結婚式の司式もしていただいた牧師で、私はその牧師の熱心の影響を大きく受けています。その牧師は自分の熱心が私に伝わっていたことが分かっていたのかも知れません。
日本の諺では、「朱に交われば赤くなる」と言い、関りを持つと何らかの影響を受けて行きますので、関わる人を慎重に選ぶ必要があります。ただ聖霊による熱心は伝わって行くものですが機械的に全ての人に同じように伝わるものでもありません。
主イエスの同じ12弟子でもイスカリオテのユダのように、聖霊による熱心を拒否することも可能です。人間には自由意志が与えられていますので、聖霊による導きを求めて、その導きに素直に従う必要があります。
2、用意してもらうために
パウロは先週の箇所でテトスと2人の兄弟の計3人の兄弟たちを送り出しますが、その理由を説明します。それはパウロがマケドニアの人々にコリント教会の献金に対する姿勢を誇って言ったとおりにきちんと用意しておいてもらうためです。パウロは「用意してもらう」という言葉を3回使って強調します。
私たちが他の人に何かを確実に用意してもらうためにはどうしたら良いのでしょうか。この聖書個所が教えてくれます。パウロはエルサレムの信徒のための献金を確実に用意してもらうために、3人の使者を送ります。3人の使者を送ることは費用も労力も掛かりますが、パウロはそれらを惜しみません。
パウロが今この3人の使者を送らなかったらどうなのでしょうか。それでも良いのかも知れません。パウロは前の手紙一の16:1~4で、エルサレムの信徒のための献金を行うように指示しました。それでパウロが次にコリント教会に行った時に、あの時に指示をしておいた献金を出してくださいと言っても良いかも知れません。
しかしその後にコリント教会とパウロの関係はごたごたとしてしまいましたので、献金は中止された可能性もありました。もしも使者を送らずに次にマケドニアの人々がパウロと一緒にコリントに行って、用意ができていないと、コリント教会は献金は何となく中止になってそのままになっていたと言うかも知れません。
パウロとしては前の手紙一で指示しておいたのに何で用意していなかったのかと言ってお互いに気まずい思いをするかも知れません。人間関係をスムーズにするには良く“報連相”と言われます。報告、連絡、相談をきちんと行うことです。
事前に報連相を一言しておけば問題にならなかったことを、問題が起きて後から解決しようとすると事前に報連相をすることの何十倍もの労力を必要とすることになります。この聖書個所を読みますと、報連相に加えてもう一つのことが必要であると言えます。それは初めにお話ししましたように確認を行うことです。
ここでは献金を用意してもらっていることを確認することです。報連相+確とでも言えるでしょうか。コリント教会の献金の状況を確認をせずにマケドニアの人々と一緒に行って、用意できていなくて気まずい思いをするよりも、事前に使者を送って、もしも献金が中止されていたら再開してもらう方が余程スムーズです。
確認を行うことは相手に対する思い遣り、愛と言えます。このことは私も年齢を重ねて、物事を忘れ易くなって来てつくづくと感じます。私が忘れ易いこともあって確認をしてくださる方もいます。何月何日は○○の予定ですが大丈夫ですかと言って確認をしてくださいます。覚えていても確認してくださると、その心遣いが有難く感謝しています。
自分が願う何かを確実に用意してもらうために、また人間関係をスムーズにするためには確認を行うことが大切です。そして確認を行う方が万が一に用意されていなくて後になって挽回するよりも、本当に少ない労力で済みます。確認は一言で済みますが、一度問題が起きると大変なことです。
3、献金の用意の目的
ところでここまで確実にコリント教会に献金を用意してもらう目的はどういうことでしょうか。コリント教会のことでパウロたちが抱いている誇りが空しくならないため(3節)、パウロたちがこの(献金の)計画のことで恥をかくことにならないため(4節)と言います。
このことを文字通りに読むと驚きます。パウロは何だかんだと言いながら、自分たちの誇りのため、自分たちが恥をかかないために、わざわざ他の人たちを自分たちより先に送ったりするのか、随分と自分勝手な考えだと感じるかも知れません。皆さんはどのように思われるでしょうか。
パウロは自分の誇りが空しくなること、自分が恥をかくことをどの様に思っているのでしょうか。パウロは11:23で、「投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは数えきれず」と言い、7:2では、「不正を働き、人を破滅させ、人から貪り取っている」と言われていたようですが、余り気にはしていないようです。
パウロは自分自身の誇りが空しくなることや自分自身が恥をかくことは余り気にしません。ではここでパウロが傷付けないように大切にしている誇りや恥は何に対するものなのでしょうか。パウロは8:24で、この献金はただの献金ではなくて、パウロたちがコリント教会を誇りとする証拠であると言いました。
4節では、献金の用意ができていなくても、コリント教会の恥とはあえて言いませんとは言っていますが、明らかにコリント教会の恥となってしまいます。さらに8:19では、献金である恵みの業は、主ご自身の栄光と自分たちの聖霊による熱意を現わすものです。
パウロは自分自身の誇りが空しくなり恥をかくことは気にしませんが、愛するコリント教会に恥をかかせたり、神の栄光の誇りが空しくなり恥をかかせることは出来ません。コリント教会に献金をきちんと用意してもらうのは神の栄光のためであり、コリント教会に恥をかかせないためです。
神の栄光のために、また隣人の誇りのためにはあらゆる手段を尽くします。それがマタイ22:37の言う、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛する」ことであり、また隣人を愛することです。
4、祝福の業
そして献金はただ用意してもらえば良いというものではありません。以前にコリント教会が約束した祝福の業として用意してもらう必要がありますので、そのために3人の兄弟たちを送ります。コリント教会が約束した祝福の業としてというのは、8:10の「自ら願って始める」ことであり、8:11の「心からそう願う」ことです。
しかし献金はどのような思いで献げても、金額が同じなら結果は同じではないかとも感じるかも知れません。しかし主イエスはマルコ12:42で、レプトン銅貨二枚を献げたやもめは誰よりもたくさん献げたと言われました。そして8:12は、献金は持っているものに応じて神に受け入れられると言います。
私たちも何かを人から頂く時に、下さる方が心からぜひお渡ししたいという思いが分かると本当に嬉しいものです。頂くもの自体も嬉しいですが、その下さる方の気持ちが嬉しいものです。これは一般論のお話としてのものであって、私が何かを頂きたいと言っているのではありませんので誤解のないようにお願い致します。
それに対して何となく義理として他に人に何かを渡さなければならないような時に、勿体ないな等と思いつつ渡すと、その様な思いは相手に伝わってしまうものです。またもし相手が何も気付いていないとしても全能の神は全てをご存じです。
同じものを献げるのであれば、貪欲の業としてではなく、祝福の業としたいものです。なぜ私たちは祝福の業を行う必要があるのでしょうか。神は創世記1章でこの世を創造された時に、創造された全てを見て良しとされて祝福されました。神は全てを与え祝福されるお方です。神は人を直接に祝福することもされます。
しかし神は創世記12:2で、神に従うアブラハムを祝福の基とされました。そして「地上のすべての氏族はあなたによって祝福される」と言われました。クリスチャンはアブラハムの信仰の子孫です。主イエスの十字架による救いに与かる者は神の祝福を受ける者です。
そして祝福を受ける者は聖霊による熱心によって他の人を祝福します。それが茂原教会の今年度の標語である「神のかたちに生きる」ことです。神はクリスチャンを通して祝福の和が広がって行くことをお望みです。
英語圏では、くしゃみをする人に「Bless you(お大事に)」と言いますが、これはGodが省略されたもので、元々はGod bless youで、神のご加護がありますようにという意味です。私たちは、くしゃみをしていなくても、いつでも全ての人に、God bless you、神の祝福がありますように、と聖霊による熱心によって神の祝福を祈り、祝福の業を行う者とさせていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは神を信じる者を祝福の基とされ、その人を通して神の祝福が広がって行くことを望まれます。この礼拝に連なる全ての方々を救いの祝福に与からせてください。
そして聖霊による熱心によって隣人を祝福する者となり、あなたから頂く祝福を喜んで分け与える祝福の業に携わらせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。