「喜んで与える人」

2021年9月12日説教  
コリントの信徒への手紙二 9章6~10節

        

主の御名を賛美します。教会の近くには田圃や畑があります。私は近所を走ったりしますが、田圃は米が豊かに実ってほぼ収穫を終えたようです。実っている米を眺めていた時に思わされることは、米は完全に全てが自然に出来た訳ではないことです。

豊かな米の収穫を迎えたのは、勿論、神の恵みの賜物ですが、大きな理由の一つは田圃の持ち主が春にきちんと田植えをしたからです。私は米を買ったり貰ったりすることはありますが、自分の米として収穫することはありません。なぜなら私は田植えをすることはありませんし、そもそも自分の田圃を持っていないからです。

その時に教えられた気がします。それは豊かな収穫を迎えるにはきちんと田植えをする必要があるということです。きちんと田植えをしていないでいて、そもそも田圃を持っていないのに米の収穫を期待するのは虫の良すぎる話です。御言を聴かせていただきましょう。

1、蒔くように刈り取る

聖書には収穫の法則があります。それは、「惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」ことです。これをまず数量的な意味として考えますと難しいことではなくて、当時の農民に取っても当たり前のことですし、現代の子どもでも分かることです。

小さな田畑で少ししか種を蒔かなければ収穫量は少しですし、大きな田畑で沢山の種を蒔けば収穫量は増えます。数量的な意味として、蒔いた種の量に応じて収穫の量が決まるというのは、この世の経済法則で分かり易いものです。

ところで、ここではエルサレムの信徒のための献金について話をしています。聖書の献金の法則は、献げる金額の多い少ないで決まるのではなくて、8:12で、「持っているものに応じて神に受け入れられる」とありました。

マルコ12:42で、レプトン銅貨2枚を献げた貧しいやもめは金額としては他の人より少なかったかも知れませんが、主イエスは、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた」と言われました。献金は量よりも質が問われます。

ここでも、「つまり、こういうことです。」と言って、5節の「貪欲の業としてではなく、祝福の業として用意する」ことの説明として、献金の量的な意味よりも質的な意味を言っています。惜しんで蒔くことは貪欲の業で、豊かに蒔く者は祝福の業です。

若しかするとこの二人の献げる金額は同じかも知れません。しかし惜しんで、けちけちとした心で、貪欲の業として献げる者の刈り取りは僅かです。それに対して豊かに蒔く者、献げる相手を喜んで祝福する、祝福の業として献げる者の刈り取りは豊かです。他に人に献げることは種を蒔くことであって、失っているのではありません。

それは収穫に繋がるものですから惜しむ必要はありません。

箴言11:24、25は、「惜しまず与えても富の増す人があり物惜しみをしても乏しくなる者もある。祝福する魂は肥え他者を潤す人は自分も潤う」と言います。これはとても大切な法則です。同じ金額を献げても、献げる人の心が惜しんでいると刈り取りは僅かになり、豊かですと刈り取りも豊かになります。人は蒔くように刈り取ります。

蒔く量が少なかったから刈り取る量も少なかったのなら、仕方がないと諦めがつくかも知れません。しかしそうではなくて、同じ量を蒔いても、心が惜しんで蒔くと刈り取りは僅かで、心が豊かですと刈り取りも豊かになるのが聖書の経済法則です。

そうであるならどうせ同じ量を蒔くなら惜しんで蒔くのは損で、豊かに蒔いた方がお得です。ですから献げる時には、黙って献げていただいても良いですが、「主よ感謝します、ハレルヤー」という思いを込めて献げていただきたいと思います。献金を献げる時には、感謝の声を出しても良いのではないかと個人的には思います。別に無理に声を出す必要はありませんが。

2、喜んで与える人

それで各自は、いやいやながらでなく、強いられてでもなく献げます。いやいやながらとか、強いられてというのは、本当はそれだけの金額は献げたくはないのだけれど、義務感とか、周りの目を気にして惜しんで献げることです。そうではなくて、心に決めたとおりにします。

ではどのように心に決めれば良いのでしょうか。自分で少な目の額に決めればそれで良いのでしょうか。それに続いて、「喜んで与える人を神は愛してくださるからです」と言います。これは献金に限ったことではありませんが、クリスチャンが心に決めることは喜びが伴う必要があります。

喜びと言っても、それは肉の欲を満たすための、少なくて良かったという貪欲の業による喜びではありません。クリスチャンの喜びは、ガラテヤ5:22の霊の結ぶ実である、愛、喜び、平和・・・とある、霊の結ぶ実としての喜びです。

聖霊に示されて、そこに御心に従う喜びがある金額を各自が心に決めて、そのとおりにします。主イエスの十字架によって罪を赦されて永遠の命を与えて頂いて本当に有難い。そして毎日、恵みを与えられて有難い。そのようにして神から与えられた恵みの一部をお返ししますと感謝と喜びによって献げます。

そのように聖霊に満たされて、聖霊に従う喜びに溢れて与える人を神は愛してくださいます。創世記4章で、アダムとエバの次男のアベルは肥えた羊の初子、最上のものを神に献げました。そして神はアベルに目を留めて愛されました。

3、満ち溢れる

しかしそんなに気前良く、喜んで他の人に与えてしまって与えた本人は本当に大丈夫なのでしょうか。全能の神は、あらゆる恵みを私たちに満ち溢れさせることがおできになります。収穫は蒔いたのと同じ量を刈り取るのではありません。収穫は蒔いた量の何倍にも増えますので満ち溢れることになります。すると疑問が湧きます。それは、神はあらゆる恵みを満ち溢れさせることがおできになるのであれば、なぜ神ご自身が直接に与えることをなさらないのでしょうか。エジプトを脱出して荒れ野を彷徨っていたイスラエルには神が直接にマナを与えられました。

しかし現代では神が直接に与えられるのではなくて人間を用いて、豊かに与えられている人が他の人に与えることによって皆が満ち足りるようになることを神はお望みです。このことは8:13に書かれていたことで、豊かに与えられている人が他の人に与えることで平等にするためです。

と言うことは、豊かな人が他の人に与えれば皆が満ち足りるものを神は与えられているということです。しかし現実の世界では豊かな人がいる一方で、本当に貧困のために命を落とす人もいる状況です。実際に世界の10人に1人は極度の貧困状態と言われて一日を1.9ドル(約2百円)以下で暮らしています。

その一方でビリオネアと言われる資産10億ドル(約1千億円)以上の人は世界に2、189人いるそうです。キリスト教国のお金持ちは良く色々な寄付を行うということを聞きます。それが本当に善意に基づくものであれば良いと思います。しかし収穫だけを目的にしていて、貪欲の業として蒔いていれば、神は恵みを満ち溢れさせることがおできになられるけれど、されないこともあります。

4、善い業に満ち溢れる

こうして、私たちは他の人に与えても、神が恵みを満ち溢れさせますので常にすべてのことに自足して困ることはありません。自足するというのは面白い言葉だと思います。暫く前からテレビ等で自給自足の生活をしている人を紹介する番組等が流行って、私も好きで見ていました。

自給自足とは自分で自分に供給して、自分を足らせることです。自給は自分で給することで良いのですが、自足の自分を足らせるのは、なぜ「足」という漢字なのでしょうか。これは色々な説がありますが、昔、中国で土器に足が付けられるようになったことから、足すという漢字に「足」が使われるようになったと言います。

何が言いたいかといいますと、他の人に与えても神が恵みを満ち溢れさせるので自足します。自足という漢字を見ると、思わずタコが自分の足を食べることを思い出しましたが、自分の足を食べて足りるということではありません。因みにタコが自分の足を食べるのはお腹が空いてではなくて、環境の急な変化等のストレスが原因だそうです。人が爪を噛むようなものでしょうか。

喜んで与える人に、神は恵みを満ち溢れさせて、自足させて、その結果として、あらゆる善い業に満ち溢れる者となります。神は困窮されている人に直接に恵みを与えることも出来ますが、そうはなさらずに人を用いて、人が喜んで他に人に与える善い業に満ち溢れる者となることをお望みです。

パウロは自分が書いていることは、この当時の聖書である旧約聖書に基づくことであることを示すために良く引用しますが、ここでは詩編112:9を引用して、「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えその義は永遠に続く」と言います。

主イエスはマタイ6:20で、「宝は、天に積みなさい」と言われ、その前に善行として、施し、祈り、断食を挙げます。貧しい人々に惜しみなく分け与える施しは、宝を天に積むことでありその義は永遠に続きます。

困難の中にある人を見ると、神がいるならなぜあのようなことを見過ごすのかと言われる人がいます。私たちには分からないこともありますが、その答えの一つがここにあります。それは困難の中にある人々を私たちが助けて善い業に満ち溢れる者となり、宝を天に積むためです。

5、義の実を増し加える

神は蒔く人に種と食べるパンを備えてくださいます。種と食べるパンと分けて書いていますが、蒔くための種用の麦と食べるパンを作るための麦は全く同じ物です。どれだけの量を種として蒔いて、どれだけの量を食べるパンにするのかは、各自が心で決めることです。

しかし優先順位として神はまず蒔くための種を私たちに備えておられます。そして残りを食べるパンとして備えてくださいます。食べるパンの分を先に取って、残りを種用にするのではありません。いやいや私は種用として蒔くための分の余裕等ありませんから、全部食べるパンの分にするとしたらどうなるでしょうか。タコでさえ空腹のためには自分の足は食べません。タコイカ(以下)です。

種を蒔かなかったらシーズンの終わりに食べるパンの分の収穫も無くなってしまいます。その時になって種を蒔かなくて、種だけに困ったねと言っても後の祭りです。神は順番として、まず蒔くための種を私たちに備えて与えてくださいましたので、私たちは御心に従って喜んで蒔く必要があります。神は喜んで蒔く人を愛して祝福して増やしてくださいます。

そして私たちの義の実を増し加えてくださいます。この収穫の秋を義の実で満たさせていただきましょう。私たちに永遠の命を与えてくださる神は、この世で食べるパンも必ず備えてくださいますので信頼して歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世の中は先の見通せない不透明で、私たちは不安になり易いものです。しかしあなたは喜んで与える人を愛し、善い業に満ち溢れることを望まれます。私たちがこの世のことに目を留めるのではなくて、私たちを造られ、私たちを愛し、支えてくだるあなたを見上げて、歩むことが出来ますようにお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。