「造り、担われる神」 

2021年9月19日説教 
イザヤ書 46章1~4節

        

主の御名を賛美します。今はコロナウィルスの影響で祭りも中止になったりしていますが、例年ですと夏から秋に掛けて色々な祭りが行われます。そして祭りの中では御輿を担いだりします。一説には、この御輿は旧約聖書でイスラエルが契約の箱を担いでいたことに由来するのではないかとも言われます。

1、背負われる偶像

イスラエルはソロモン王が紀元前922年頃に亡くなった後に、後継者争いで南北に分裂します。その後にも神に従わないイスラエルは北イスラエル王国も南ユダ王国も滅ぼされてバビロンに捕囚として連れて行かれます。バビロンは後ろの5の地図にありますが、現在のイラクです。

しかし憐れみ深い神はペルシャのクロス王によってバビロンを滅ぼしてイスラエルを解放します。今日はその時の場面の預言です。ベルは身をかがめ、ネボは身を伏せます。ベルはバアル(主)でバビロンの神の主神の名前です。ネボはナブーに由来して、車のナビと同じで預言者の意味の神です。

今日の個所全体は平行法という文学形式で、同じことを少し違う表現で繰り返して強調します。古代のこの辺りの地域では、戦争は戦う国同士の神の戦いと考えられて、負けた国は自分たちの神の偶像を担いで逃げます。しかし偶像の神は自分で歩くことが出来ませんので、牛や馬といった獣と家畜に背負われます。イスラエルもこの偶像の神を拝み続けて来たのでしょう。

しかし運ばれる偶像の神は荷物となって、他にも重い荷物を背負って長距離を歩く動物の重荷となります。偶像の神は動物が伏せれば共に伏せ、身をかがめれば共に身をかがめることになります。自分では重荷を解くこともできません。偶像の神自身が捕らわれの身となって行きます。動物に背負われざるを得ない偶像が本当の神なのでしょうか。

2、腹を出た時から運ばれている者たち

しかし主なる神は語り掛けられます。「聞け、ヤコブの家よ。またイスラエルの家のすべての残りの者よ」と。ヤコブの家、イスラエルの家のすべての残りの者とは誰のことでしょうか。ヤコブの家とは神に選ばれたヤコブの家の者、またイスラエルの家の残りの者とは、捕囚からイスラエルに帰って来た人たちです。それは神に選ばれて神と契約を結んだ人たちです。

それは現代では神を信じて神に従うクリスチャンです。イスラエルの残りの者、クリスチャンとはどのような存在でしょうか。それは母の胎を出た時から私、神に担われている者たちです。平行法で、腹を出た時から私に運ばれている者たちです。

確かに茂原教会でもクリスチャン・ホームの子は、生まれた時から家族に連れられて教会に来て、神に担われている者たちです。しかしある人は大人になってから自分の意思で教会に来るようになったから、自分は母の胎を出た時から担われているのでは無いと思われるかも知れません。

しかし黙示録13:8は、「命の書に、天地創造の時からその名が記されていない者は皆、この獣を拝む」と言います。それは逆に言うと、救われる者の名は、天地創造の時からその名が記されているということです。そうしますと正確には、母の胎を出る前から神に担われている者たちです。

実際にそうだと思います。私たちは妊婦さんがいると、出産前から赤ちゃんの健康のためにお祈りをします。そして実際に神に守られて神に担われて出産を迎えます。新改訳では、「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ」と訳しています。

生まれたての赤ちゃんは自分で移動することが出来ませんので、物理的にも他の人に運ばれます。両親に背負われて運ばれたり、お祖父ちゃん、お祖母ちゃんに背負われて運ばれる人、兄弟姉妹に背負われて運ばれる人もいます。

しかし人はいつしか大人になると、自分は誰にも担われてはいないし、運ばれてもいない、自分は自分で歩いていると勘違いする人もいます。しかし物理的に考えただけでも運ばれていない人は誰一人としていません。例えば、私たちは一日を24時間単位で行動しています。

24時間単位で行動するのは地球が24時間で1周、自転しているからです。神によって造られた地球によって運ばれているからです。また私たちは1年を365日単位で行動するのは、地球が365日で太陽の周りを1周、公転するからです。

私たちは物理的に運ばれるだけではなくて、霊的にも神に担われて運ばれるものです。私たちは普段は地球が回って運ばれていることを意識していません。それと同じように、神に担われて運ばれている恵み、物理的に太陽の光、水、食べ物を与えられているだけではなくて、神の不思議な御業をあまり意識しないものです。

3、背負われる神

神はいつまで私たちを担い運んでくださるのでしょうか。神は、「あなたが年老いるまで、私は神。あなたが白髪になるまで、私は背負う」と言われます。年老いて白髪になったらお終いではありません。新改訳は「あなたがたが年をとっても、あなたがたが白髪(しらが)になっても」と訳します。

生まれる前からずっと最後迄、神は私たちを背負い運んで担ってくださいます。動物に背負われる必要のある偶像の神とは正反対です。私たちの姿は幼い赤ちゃんが安心しきってお母さんの背中に背負われているようなものでしょうか。

それは赤ちゃんの時だけではなくて、ずっと大人になっても赤ちゃんのように神の温かい背中に背負われて信頼して生きて行くことです。素直に信頼したいものです。ここは霊的な意味で書かれていますが、ここの聖書個所から来ているのかどうか分かりませんが、思い浮かぶ社会制度があります。

それは第二次世界大戦の後に英国の社会福祉政策のスローガンになった「ゆりかごから墓場まで」というものです。英国は国民全員が無料で医療が受けられる国民保険サービスです。外国人でも英国に住んでいれば無料で医療が受けられます。

神が望まれるサービスを社会制度として実現しようとするものでしょうか。ノルウェー、スウェーデン、カナダ等もそうです。その分、勿論、税金は高くなりますが、金銭的に貧しい人も皆が平等な医療を受けられることになります。

クリスチャンは神の代理人としてどこまで人のお世話をするのでしょうか。「ゆりかごから墓場まで」でしょうか。ゆりかごの前の生まれる前から、墓場というよりも天国の入り口迄です。私たちは生まれる前から生まれて来る人のために祈ります。そして天国の入り口迄のお導きとお世話をさせていただきます。天国に入れられるのは神の権限になりますので私たちはタッチ出来ません。

4、造られた

神はなぜそこまで人間を背負ってくださるのでしょうか。それは神が造られたからです。創造者である神は神によって造られた被造物である人間に対して責任を負ってくださいます。造り主が責任を負われると聞いて思い浮かぶのはPL法です。

PLというとかつて高校野球で強豪校だったPL学園が思い浮かぶかも知れませんが、PL学園は関係ありません。PL法というのは、日本では26年前から施行された製造物責任法という法律で、製造されたものから何か問題が起きた時には、製造者が責任を負うものです。

製造物責任法は英語のProduct Liabilityの頭文字を取ってPL法と言います。PL法の考え方は1960年代の初めと言いますから約60年前のアメリカで判例として確立して、その後にヨーロッパでは、1985年に当時のECで導入されました。

造られたものの責任は造った者が取るというPL法の発想が、キリスト教国から起こったことを考えると、少しこじ付けな感じもしますが聖書的なのかも知れません。これは福音、良い知らせです。造られた私たちは自分の責任を自分で取らなくて良いのです。

自分で自分の責任を取らないというと、何か無責任に聞こえるかも知れません。しかしそれは無責任ではなくて、責任の取りようがないからです。例えば、車に何か欠陥があって事故を起こしたとします。その時に車が自分で責任を取りますと言っても責任の取りようがありません。

せいぜい車をスクラップにして終わりです。車の欠陥で事故が起きた時には車を製造した自動車メーカーが責任を取ることになります。そのようにして私たちの罪の責任を神が取ってくださったのが、主イエス・キリストの十字架です。

私たちは自分で自分の責任を取る必要はありませんが、私たちを造られた創造者の指示に従う必要があります。それは自動車を運転する時には自動車メーカーが作った運転マニュアルに従うようなものです。マニュアルに従わないで燃料にガソリンを入れるのに水を入れたら車は動きません。

私たち人間が従うマニュアルは創造者が書かれた人間のマニュアルである聖書です。マニュアルに従うなら創造者が責任を担ってくださいますが、マニュアルに従わずに燃料に水を入れたりしたら製造者も責任を取れません。

創造者なる神は責任を取ってくださるだけではなくて、私たちがマニュアルである聖書に従う力である聖霊も与えてくださいますから感謝なことです。聖霊は車のナビの音声ガイドのように導いてくださいます。

5、背負って、救い出す

そうは言っても私たちは時にミスを犯して道を踏み外してしまうこともあります。20年以上前のことですが、私はそれまでペーパードライバーだったので運転が下手でした。夏に睦沢の山道を走っている時に側溝に草が沢山生えていて側溝があることに気付かないで車のタイヤが側溝に落ちてはまってしまいました。

ちょうどパトカーとすれ違った直ぐ後だったので、お巡りさんが直ぐに気付いてくれて、一緒に軽自動車を持って運び出してくれました。お巡りさんが近くにいたから良かったものの、普段はほとんど車の通らない道だったので本当に助かりました。

しかし人生にはその様なことが起こるものです。大丈夫だと思って通っている道に、突然に落とし穴のようなものがあることです。そしてそこに落ち込んではまってしまって自分の力だけでは抜け出せなくなってしまうことです。

その様な時にも神が背負って、救い出してくださいます。背負うためには身をかがめる必要があります。しかしそれはベルやネボが動物が身をかがめたら共にかがめざるを得ないようではありません。神が主体的に私たちを背負うために身をかがめてくださいます。

そして神は打ちひしがれた私たちの下に来て支えて背負って、救い出してくださいます。私たちはこれからも色々なところを通って行くことでしょう。しかし私たちを造られた神が、責任を持って背負って、救い出し、担ってくださると約束してくださっています。安心して信頼して歩ませていただきましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちを造られ、生まれる前から私たちを担い、年老いても背負ってくださいます。そして私たちが苦難に陥っても、背負って、救い出してくだると約束してくださいますから有難うございます。今はコロナウイルスの影響もあって本当に難しい時です。困難の中にある方々を背負って、救い出してくださいますように、主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。