「命じ、強め、励ます」

2022年3月13日説教  
申命記 3章23~29節
        
主の御名を賛美します。今日は召天者記念礼拝です。今年度、茂原教会に集っていた方々、また茂原教会には通ってはいなくても、皆さんの周りで天に召された方もおられるかも知れません。今年度は昨年度に続くコロナウイルスの影響で、召される前に十分な面会などが出来ないために、更に辛い思いをされた方もおられるかも知れません。慰めが与えられることを祈りつつ、召天者を偲ぶ礼拝をお捧げしましょう。

1、モーセの願い
モーセはルベン人、ガド人、マナセ族の半数に、彼らの希望に応えてヨルダン川の東の地域を領土として与えました。しかしその条件として、前回の18節の後半で、彼らにヨルダン川の西に、武装して、先に立って、進んで行くことを命じました。

また22節ではヨシュアに、主が戦ってくださるから恐れてはならないと命じました。他の人たちに恐れずに進んで行くことを命じるモーセの心には、どのような思いがあるでしょうか。モーセは40年前に、同胞のイスラエルを奴隷の地であるエジプトから脱出させて、神の約束の地を目指して出発しました。

そして約束の地に入るチャンスを一度与えられながら失敗しました。しかし今、40年間待っていた約束が遂に果される時が目前に迫って来ました。自分も一緒に行きたいという思いが湧いて来るのは自然なことです。モーセはその時、主に恵みを祈り求めました。

新改訳の、「懇願して言った」の方が直訳に近いもので、強く願いました。ただ前回にモーセが他の人々に命じた時にも、いきなり命令の内容に入るのではなくて、まず神の恵みの事実を語りました。今回も形式的にそうするというよりも、そのようにせざるを得ない強い気持ちがあるようです。

「わが主なる神よ、あなたは、僕にあなたの偉大さと力強い手を示し始められました。」これは2章の後半のヘシュボンの王シホンとの戦いと3章の前半のバシャンの王オグとの戦いを通して、僕である自分に示された神の偉大さと力強い手です。

それらを示し始められたことは事実ですが、モーセは約束の地へは行けないことになっているので、このままでは御業のすべてを見ることが出来ません。そして、「あなたのような業と力ある行いをなしうる神が、この天と地におられるでしょうか。」 これはモーセの心からの思いであり、神を褒め称える賛美です。

そして遂に、「どうか私を渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの美しい地、美しい山、レバノン山を見せてください。」と懇願します。この言葉には、モーセの二つの願いである、一つは自分も神の約束の地に渡って行きたい、そしてもう一つの、神の約束の地の美しさを見たいという強い思いが現れています。自然な感情でしょう。

しかしモーセの強い願いにも関わらず、主はイスラエルの人々のゆえにモーセに怒りを示し、モーセの願いをお聞きになりませんでした。1:37にも、「主は私にも、あなたがたのゆえに怒り」とありました。これは民数記20章でイスラエルの不従順がメリバの水でのモーセの軽率な行動を引き起こしたからです。

モーセは岩に水を出せと命じなさいと言われたのに、杖で岩を打ってしまい、主を聖としませんでした。そこにはイスラエルの不従順がありましたが、若しかするとモーセのリーダーとしての連帯責任もあったのかも知れません。

2、主の言葉
主はモーセに言われました。「もう十分だ。」 とても意味深な言葉です。原語では、「あなたに十分だ」と書かれています。それはモーセは自分に与えられた役割を十分に果たしたという意味にも取れます。モーセは確かにメリバの水では失敗をしましたが、これまでの40年間、不従順なイスラエルを導いて来ました。

もしもモーセがメリバの水での、一度だけの失敗に対する主のさばきのために、約束の地に渡って行けないのだとしたら、少し可哀そうな気もします。しかしイスラエルは今は信仰的に良い状態ですが、完全になった訳ではありません。これから先も色々なトラブルが発生します。しかしモーセはもう120歳になりました。

主はモーセを労う意味で、あなたのこの世での苦労はもう十分だ。後の苦労は若いヨシュアに任せなさい。それらの苦労を通して若いヨシュアも成長して行くのだ。その苦労はモーセにではなく、ヨシュアに必要なものなのだという意味もあるのかも知れません。「このことを二度と語ってはならない」と言われます。

その代わりにモーセに、「ピスガの頂に登り、西に、北に、南に、東に目を向けなさい。あなたは、ヨルダン川を渡ることができない以上、自分の目に焼き付けておきなさい。」と命じます。ピスガはネボ山と考えられています。

主はモーセの二つの願いの内の、一つ目のヨルダン川を渡って行くことは叶えませんが、もう一つのヨルダン川の向こうの美しさは、自分の目で見て目に焼き付けなさいと言われ、一応は叶えさせます。少し前に、祈祷会でピスガの頂からモーセが見たのと同じと思われる場所からの眺めをユーチューブで見ました。確かに美しい光景です。

景色の良い所はどこでも遠くからだけ眺めていると美しいものです。しかしそこで行われる人間の行動というのはどこに行っても余り変わりません。主はモーセにその美しく見える所にイスラエルが行った時に、どのようなことが起きるのか信仰の目によって見なさいという意味もあるのかも知れません。

これからイスラエルはヨルダン川を渡って、美しく見える所に行きます。しかしモーセはそこには行けません。約束の地には行けない、120歳となったモーセに今、出来ることはどの様なことでしょうか。「ヨシュアに命じ、彼を強め、励ましなさい。彼こそが、この民の先に立って渡って行き、あなたの目にしている地をこの民に受け継がせるのである。」と言われます。

3、命じ、強め、励ます
モーセの様な年長者がヨシュアの様な若者にすることは、命じ、強め、励ますことです。命じるというのは、「あれしろ、これしろ」と命令するだけではありません。先週の箇所でモーセが3部族やヨシュアに命じた様に、神の恵みの事実を語り、相手の状況を良く知って約束を語り、その上で命じ、強め、励ますことです。

若者に限らずに、命じることは、その命令が命じる相手を強め、励ましになる必要があります。今日は召天者記念礼拝であり召天者を偲ぶ時です。皆さんは召天された方を通して神からどのようなことを命じられ、強められ、励まされたでしょうか。

後ででも、ぜひそのことに思いを巡らす時を持っていただきたいと思います。その様なことを実際に行うことが召天者記念礼拝に相応しいことです。召天者記念礼拝は基本的には既に召天された方を記念する時です。しかしそれと同時に私たちは全員、遅かれ早かれ召天する者です。

そういう意味で召天者記念礼拝は、いつかは自分も召天者となることを覚える時でもあります。私たちはこの世に残された期間で、モーセがヨシュアに対して行った様に、若者に命じ、強め、励ますことを行います。それらはどのように行うことが出来るのでしょうか。

あれこれと命じた相手が、命令よって強められるのではなくて逆に弱められ、励まされるのではなくて、挫かれてしまうのでは、本末転倒で、それは良い命令ではありません。どうしたら命じる相手が、弱められ、挫かれることなく、強められ、励まされるのでしょうか。

それは聖書が語る言葉を曲げることなく、真っすぐに語ることです。ヨハネ1:1が、「言は神であった」というように、神の言は神そのもので力がありますので、何も加える必要はありません。更に新約の時代である現代は、主イエスの十字架の贖いを信じる者は罪を赦され、聖霊が降られますので、聖霊が働かれ、聖霊の力によって導いてくださいます。

私たちが命じ、強め、励ます若者は、民の先に立って渡って行き、神の約束の地を受け継がせます。これは色々な意味で考えることが出来ます。教会の組織として考えることも出来ますし、家族、親戚として、会社として、地域の組織として等、色々な意味で考えることが出来ます。また今は物騒な世界になっていますが国として考えることも出来ます。

先週、教会員の葬儀が行われました。そこでお話したことですが、この方はとても堅い信仰を持っていました。その信仰の土台の一つは、若い時に牧師である父親が戦時中にキリスト教の弾圧に遭い、拘置所に入れられたことが影響しているのかも知れません。

その父親の愛読書はアンドリュー・マーレ―著の「神を待ち望む」というもので、そのメイン聖句は詩編62:2、3で、その愛読書と聖句は父親から本人に受け継がれ、そして今はその方から娘さんへと3代に渡って受け継がれているそうです。

モーセがヨシュアに、そしてイスラエルに実際に命じ、そしてそれが彼らを強め、励ます内容がこの後の4章から続きますので、じっくりと聴かせていただきたいと思います。

こうして、イスラエルはベト・ぺオルの向かいの谷にとどまっていました。ベトは「家」の意味で、ベト・ぺオルは「ぺオルの家」の意味です。ベト・ぺオルは民数記25章で、モアブの神ぺオルが礼拝されていた町で、イスラエルはモアブの娘と淫らなことをしたために疫病で二万四千人が死にました。同じ過ちを繰り返さないためにもモーセの説教を聞くのに相応しい場所でしょう。

私たちも自分たちが失敗した場所から逃げる必要はありません。失敗したら逃げるのではなく、そこで悔い改めれば良いのです。召天者を通して神が私たちに示してくださった、命じられたこと、強められたこと、励まされたことを思い起こし感謝する時を持たせていただきましょう。また私たちもそのことを引き継いで、主にあって次の世代に命じ、強め、励ましましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたが召天者を通して私たちに命じ、強め、励ましてくださったことを、私たちがしっかりと覚えることが出来ますようにお導きください。そして私たちが先に立って渡って行き、地を受け継がせてください。

そして私たちもあなたにあって、次の世代に、命じ、強め、励ます者とさせてください。そして次の世代の者が先に立って渡って行き、地を受け継がせてください。神さま、今、本当に困難の中にあるウクライナの人々を特に憐れみお助けください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。