みこころのままに
野田信行牧師
マタイによる福音書26章36節~46
主イエスはゲッセマネの園に行かれ、ペテロとヤコブとヨハネの3人の弟子には、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」と言われました。「目をさまして」というのは肉体的に起きているだけではなく、霊的に目をさまして祈ることです。主にある働きを行う時に大切な事は、悲しみや悩みの時に主と一緒に、また皆で目をさまして祈ることです。
主イエスはお一人だけで進んで行き、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。主イエスの悲しみ、悩みは、いつも親しくしていた父なる神と断絶することです。主イエスは天の父との断絶の悲しみ、悲惨さをご存知です。だからこそ、天の父と断絶している人間を悲惨な状況から救い出すために杯を飲もうとされていました。主イエスにとっては、肉体の死ではなく、天の父とそして弟子たちとの交わりを断たれることが大きな悲しみでした。しかし自分の思いではなく、みこころがなるようにと祈られました。
主イエスが戻られた時に眠っていたペテロに主イエスは「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか」と言われました。目をさまして祈る目的は、
①悲しみの中にいる主イエスを支えるためであり、それは今後、弟子たちが悲しみの中にいる人を支えるため、
②聖霊の導きの中で主イエスと同じ一つの思いへと導かれるため、
③誘惑に陥らないため、です。
主イエスの2度目の祈りは、1度目の祈りより杯に対して前向きに進んでいます。杯である苦難はそのままではただ辛いだけです。私たちも人それぞれに与えられた飲まざるを得ない杯がありますが、霊的に目をさまして祈ることによって、その杯に隠された御心、それぞれの人に与えられた役割を知る事が出来るかもしれません。目をさまして祈ることによって、つまずきの杯を通して、金を精錬するように(ゼカリヤ13:9)、自分の思いを精錬し、自分を最上の捧げものとします。主イエスは「立て、さあ行こう」と言って杯である十字架に向かって前向きに進まれました。聖書は読むだけのものではありません。自分自身で実行して体験するものです。
今年も主イエスと一緒に皆で目をさまして、祈って行きましょう。私たちにとって最善をなしてくださる神に信頼して、「どうか、みこころが行われますように」と祈り歩ませて頂きましょう。
2018年1月号