出会い

野田栄美牧師夫人

 小学生の図工の工作を見たことがあるでしょうか。家にある残り物、例えば、ダンボール、ビーズ、綿、お菓子の箱等を使って、子どもは想像力で様々な物を作り上げます。大人から見れば、それは、価値のない物に見えますが、作った本人にとっては、楽しさ、努力、夢の詰まった作品です。

 ある友達のご主人は、とてもきれい好きで、完璧に部屋を片付ける人です。ある時、子どもが一生懸命作った図工の作品をポイと、ゴミ箱に捨ててしまったそうです。友達は、びっくりしていました。 確かに材料はゴミですから、何も知らなければ、そんなことも起こりうることです。その価値が分らないからです。

 私たち一人ひとりの人生も、その価値はその人でなければ分らないことがあります。大抵の人は、権力や巨万の富、秀でた才能があるわけではありません。テレビで特集を組まれる人生でもなければ、人のうらやむ人生でもないかもしれません。けれども、その人生における体験は、他の人には分らなくても、本人にはかけがえのないものです。

 先日、一人の高校生がある教会で洗礼を受けました。昔教えていた英語教室の生徒だった子です。 その子のお母さんは、私のお気に入りのパン屋さんの店員さんでした。何回も顔を合わすうちに、親しくなり、英語教室に入らないかと声を掛けたのです。

 人と人との出会いの背後には、神様がおられると感じることはないでしょうか。私にとって、その友人と息子さんとの出会いがそうでした。神様の摂理が働いていたと感じるのです。私が出会った大切な人が教会へ、そして、受洗へ導かれた事実は、神様のなさった業でした。それは、生きている喜びを私の心に満たしてくれました。

・・・・・ 今年度の聖句 ・・・・・
すべての人と相和し、
また、自らきよくなるように努めなさい。
きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
– へブル12:14 –

 「きよめ」とは、具体的な意味を掴み難い言葉です。でも実は、「きよめ」は、人と人との関係の中に現れるとても分りやすいものでもあるのです。「きよめ」は、神様の愛の中に生きている人に現れます。「愛」は「きよめ」に、「きよめ」は人との相和に現れるからです。
人生の中で、神との出会いを除けば、人との出会い程、私たちに影響を与えるものはないでしょう。それは、そこに「思い」が与えられるからです。

人と人との間には、喜び、悲しみ、怒り、様々な感情が起こります。その感情の嵐の中で、その人との相和を求め続けることが、人を愛することだと思います。そして、人との相和の中にこそ、生きている喜びを感じるのでしょう。

 今年度、人と人との間にたくさんの喜びが与えらえる一年になることを願っています。

2018年3月号