「信仰による義」
2022年7月17日説教
申命記 6章16~25節
主の御名を賛美します。ここのところ聖書に、「幸せ」という言葉が多く出てきますので、幸せって何だろうと改めて考えていた時に、36年前に明石家さんまさんが歌っていた、「しあわせって何だっけ」という歌を思い出しました。キッコーマンのコマーシャルに使われて、その答えは、「ポン酢醤油のある家さ、ポン酢醤油はキッコーマン」でした。クリスチャンにとって幸せとは何でしょうか。
1、主を試してはならない
6:3からはイスラエルが神の命令を受け入れ易いように、命令とそれに伴う約束が交互に繰り返されています。命令と約束を繰り返すと言っても何か違う内容を言っているのではなくて、イスラエルがしっかりと心に留めるように、ほぼ同じ内容を言い方を少しずつ変えて繰り返しています。
先週の7節にもありましたが大切なことは繰り返して語る必要があります。今日の16節からは、12節から続く命令の続きです。今回の命令は16節から18節の前半の3つです。3つと言っても一体である一つのことですが。1つ目は、「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない。」です。
マサで試したって、マサだけにマサか? という気がします。人生の3つの坂の真坂の語源がここにあったのでしょうか。マサとは何のことでしょうか。これは出エジプト17:1~7の記事のことです(1~2、7節)。マサは「「試し」、メリバは「争い」という意味です。一見するとイスラエルの、「飲み水をください」という要望はそれ程には間違っていないようにも思います。
しかしモーセは、神が立てられて神の言を語るモーセと争うことは主を試すことであると言います。その後の2つ目の命令は、「あなたがたの神、主の戒めと、命じられた定めと掟を固く守りなさい。」 3つ目の命令は、「主の目に適う正しいことを行いなさい。」です。
イスラエルはこの時も、その前も後も、神の目に適う正しい神の命令に従うのではなくて、いつも自分の目に適う自分の正しいと思うことを行って失敗を繰り返しています。
マタイ4:6で、悪魔は主イエスに、「神の子なら、神殿から飛び降りたらどうだ。神が天使たちに命じてあなたを両手で支える。」と言いました。何となくそうかも知れないと思って騙されてしまいそうです。しかし主イエスは16節の御言によって、悪魔に「あなたの神である主を試してはならない」と答えられました。
私たちはイスラエルと同じで、主の目に適う正しいことよりも、自分の目に適う正しいことを行いがちですが、それは主を試すことです。私たちが自分の目に適う正しいことを行うのは、全ての人の先祖であるアダムとエバが神のように善悪を知る賢い者となることを願って、善悪の知識の木の実を食べてしまったその子孫で、罪の性質を引き継いでいるからです。自分の罪の性質をしっかりと自覚している必要があります。
2、4つの約束
3つの命令に伴う約束は18節後半から19節の4つです。4つの約束も一体のことです。一つ目は幸せになるです。人間にとっての本当の幸せとは何でしょうか。それは神の言である神と共に歩み、神の言を守ることそのこと自体です。
幸せを望むのであれば前の3つの命令をただ実行することです。ここでいう幸せの具体的な内容は次になります。約束の2つ目は、主があなたの先祖に誓われた良い地に入るです。そして3つ目は良い地を所有するです。入るも所有するも完了形です。良い地に入って所有しても、直ぐに良い地から出て行って所有しなくなっては意味がありません。良い地に入り続けて所有し続けられるという約束です。
そして4つ目の約束はすべての敵をあなたの前から追い払うことができるです。前の3つの命令を守ればこれらの4つの約束は実現します。しかし、逆に言うと、前の3つの命令を守らないと、4つの約束は果たされませんので、幸せではなくなり、良い地に入れず、所有せず、敵を追い払うことができません。
そのような悪い状況の時に早く悔い改めれば良い方向に向かうことができますが、人は悪い方向に向かうと頑なになって悪循環に陥ってしまいがちです。そうすると出エジプトの時のエジプトの王ファラオのように自分で自分に裁きを招くことになりますので要注意です。
3、地を与える
この時のイスラエルはモーセから繰り返し告げられているので、神、主が命じられた定めと掟と法とは何のためなのか、その目的は何となく分かるかも知れません。しかし将来には今のことを知らない世代の子が、「私たちの神、主が命じられた定めと掟と法とは何のためですか」と問うことも起きて来ます。
しかしあなたの子が問うならばという言い方をしつつも、今、目の前にいるイスラエルに対してきちんと整理をして教える意味もあります。そのような問いがあるならば、あなたの子にこう答えなさいと模範解答を示します。この模範解答がまた面白いと思います。普通は、「何々は何のためですか」という質問があったら、その答えは、「何々のためです」と目的となる言葉で答えます。
しかし、モーセは「私たちはエジプトでファラオの奴隷であった。」と歴史を語り出して、23節の前半まで歴史が続きます。歴史は英語でhistoryと言いますが、historyはHis story、主の物語で、歴史とは主の物語です。物語を通して何か教えるということは日本でも行われます。
私たちも幼い子供に何かを教えるときは、言葉で教えるのではなくて、童話等の物語を通して教えることをします。このイスラエルの物語ではポイントとなるものがありますが、一つ目はイスラエルは「奴隷」でした。しかし主は、力強い手によって私たちをエジプトから導き出した。二つ目のポイントは「導き出した」です。「奴隷」でしたが、「導き出した」のです。
それは私たちを導いて、私たちの先祖に誓われた地を与えるためであった。三つ目のポイントは、「地を与える」です。「奴隷」でしたが、「導き出した」のは、「地を与える」ためです。20節に、「何のためですか」の質問があって、「地を与えるため」とあって、「ため」と書いてあるので、これが答えかなと一瞬思ってしまうかも知れません。
これが国語の問題であったら引っ掛かるかも知れません。しかし「定めと掟と法とは何のためですか」と問うていて、定めと掟と法が全然出て来ていませんので、「地を与えるため」は20節の「何のためですか」の質問の答えではありません。
しかし18節の後半から19節の約束には、良い地に入り、これを所有して、良い地から敵を追い払うことができると、約束の良い地が強調されています。そして21節から23節でも、「奴隷」でしたが、「導き出した」のは、「地を与える」ためですと、やはり地が強調されています。
ここで言われる、良い地、与える地とは何のことなのでしょうか。ユダヤ人はこれをパレスチナに実際にある土地と考えるようです。ではクリスチャンにとってこの地とは何のことでしょうか。罪の奴隷から導き出され、与えられる地です。それは神の支配される神の国です。
それはこの世の不動産的な土地とは関係がありません。それはどこの国であっても神の言葉に従う神の民がいて神の支配が行われているところが神の国、良い地です。それはマタイ13:31~33に書かれている、からし種とパン種のたとえにように、とても小さいものかも知れませんが、この世に既に存在しているものです。
4、掟と戒め
そして良い地を与えられた後で、主は、私たちにこれらの掟をすべて行うように命じられました。これはどういうことを意味しているでしょうか。イスラエルは奴隷でしたが、導き出され、地を与えられて、神の民とされてから、主の掟を行うように命じられました。
これは順番がとても大切なことです。主の掟を行うように命じられたのは、神の民にされた者に対してです。神の民でない人が主の掟をいくら行っても神の民になることはできません。主の掟は、あくまでも、神の民とされた者が行うためのものです。
それは現代でいうと、主の掟を行うように命じられるのはクリスチャンとなった者に対してです。主の掟をいくら行ってもクリスチャンにはなれません。主の掟はクリスチャンとなった者が行うためのものです。それでは主の掟を行うとどうなるのでしょうか。
「いつも幸せに生きるようにしてくださった」と言いますから、「いつも幸せに生きる」ということです。
そうしますと20節の、「主が命じられた定めと掟と法とは何のためですか」の質問の1つ目の答えは、「いつも幸せに生きる」ためです。幸せは先程もお話しましたが、神が共にいてくださることです。
そしてもう一つ、「この戒めをすべて守り行うならば、それは私たちにとって義となるであろう。」です。ということは、「主が命じられた定めと掟と法とは何のためですか」の質問の2つ目の答えは、「義となるため」です。
もしも国語の問題で、16~25節の文章があって、この文章に題名を付けなさいとあった時に、今日の説教題のように、「信仰による義」と付けたら、恐らく✕で、△も付けてもらえないでしょう。この文章の結論を纏めると、「掟を行えば幸せに生きる、戒めを守り行うならば義となる」です。
そうするとそこから導かれる教訓は、「掟を行い、戒めを守り行いましょう。そうすれば、幸せに生きて、義となる」です。確かに、ここに書かれている文章だけからですと、そのような内容になりますし、実際にそのような説教を聞くこともあります。
確かに先程、お話しました纏めの、「掟を行えば幸せに生きる、戒めを守り行うならば義となる」はここの聖書箇所が言っている正しい内容です。ただ問題は人間が掟を行い、戒めを守り行うことができるのかということです。むしろ、掟は私たち人間には行うことができない、戒めも守り行うことができないことを知るためのものです。
そのことを、ガラテヤ3:24は、「こうして律法は、私たちをキリストに導く養育係となりました。私たちが真実によって義とされるためです。」と言います。イスラエルは旧約の数千年の歴史を通して、人間には掟を行い、戒めを守り行うことができないことを嫌と言うほどに学びました。
5、信仰による義
その上で初めて神の真実である主イエス・キリストに辿り着いて感謝することができます。しかし私たちは人類の数千年の歴史の知恵をこの聖書によって知ることのできる恵みを得ているのですから、遠回りをする必要はありません。
今日の中心聖句にありますように、私たちが義とされるのは、ただ主イエス・キリストを信じる信仰によってのみです。それでは今日の聖書箇所の言っていることは何か間違っているのでしょうか。そうではありません。聖書の御言に間違いはありません。
旧約聖書は聖書全体から見るとピースがいくつか入っていないパズルのようなものです。神の言ですからとても大切なものですが、ピースが全部は揃っていないので補って読む必要があります。揃っていないピースというのは、新約聖書に書かれている、救い主イエス・キリスト、十字架による贖い、助け手としての聖霊等です。
カトリック教会等では旧約聖書と新約聖書を合わせて読む箇所が決められている意味が分かります。旧約聖書は新約聖書を参照しながら、また新約聖書は旧約聖書を参照しながら読むと正しい意味が良く分かるものです。聖書はその箇所だけではなくて全体を通して読むものです。
いずれにせよ、私たちは主イエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。それは四重の福音の新生です。そして新生して義とされて神の民とされた者に、主は定めと掟と法を命じられます。それはいつも幸せに生きるためであり、義となるためです。ここでいう義は四重の福音の聖化です。
私たちは信仰によって新生して義とされ、良い地である神の国の民とされます。そして聖霊によって神の民として律法を成就する者と変えられて行き、聖化の義とされます。まず主イエスを信じて新生の義とさせていただきましょう。そして新生された者は聖霊によって聖化の義の歩みをさせていただきましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは私たちがいつも幸せに生き、義となることを願っておられます。そしてあなたは私たちの新生の義のために主イエスの十字架を備えられ、聖化の義のために聖霊を備えてくださいましたから有難うございます。
私たちが、あなたが備えてくださった恵みを素直に受け取ることができますように整え、お導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。