「畏るべき神」
2022年9月18日説教 申命記 7章16~26節
主の御名を賛美します。以前に住んでいた家の隣の家が長い間、空き家になっていて、その土地の木や竹が高く伸び切ってしまい我が家の方に倒れ掛かって来ていたので、その家主に相談して私がその木や竹を切ったことがあります。
初めはすっきりして良かったのですが、それまでは木や竹の下は日陰になっていたので雑草が生えなかったのですが、木や竹を切った場所は日当たりが良くなったので、暫くすると今度は雑草が勢いよく生えるようになってしまいました。世の中は色々な繋がりがあって影響し合っていることを教えられました。
1、滅ぼし尽くせ
イスラエルは、これから神の約束の地であるカナンに入って行くところです。しかしカナンには行けずに死を目前に控えたモーセは、遺言のようにイスラエルに言葉を語ります。7章では特に主の聖なる民として、2節で「彼らを滅ぼし尽くせ」と命じました。
彼らを滅ぼし尽くす理由は9:4で、「彼らが悪かったから」です。滅ぼし尽くすべき「彼ら」は、この時に直接には異教の民ですが、現代を生きる私たちにとっての彼らとは、自分の中にもある悪そのものです。大切な命令ですのでここでももう一度、「あなたの神、主があなたに与えるすべての民、悪を滅ぼし尽くしなさい」と命じます。
今日の聖書箇所は終わりも、「滅ぼし尽くす」ということで終わっていますので全体が、「滅ぼし尽くしなさい」の命令の内容です。悪を滅ぼし尽くすということは、悪に憐れみの目を向けないことであり、その悪の神に仕えないことです。滅ぼし尽くす理由は、それはあなたの罠となるからです。
細かいことですが、滅ぼし尽くさないと後で罠となるというよりも、滅ぼし尽くさないこと自体が罠となるという意味です。悪を悪と知っていながらも、悪に憐れみの目を向け仕えるのは、自分にとって何らかの得になるという欲望があるからです。
悪いとは分かっていても、そんなことは皆もしていることだからと言い訳をして自分も行うのは、やはり自分にとっても利益になるからです。そして自分が余計なことをして正義を追及してしまったりしたら周りにも迷惑を掛けてしまうから等と色々な言い訳を考えて悪を残して仕えてしまいがちです。
しかし悪への欲望を残すことは罠であり危険です。また主の聖なる民として相応しいことではありません。悪い異教の民を滅ぼし尽くせと言われたイスラエルが恐らく不安に感じることは、「向こうの国々の民はこちらよりも数が多い」という事実です。
そこから考えられることは、「どうして彼らを追い払うことができようか」という疑問です。これは事実から引き出されてくる最もな恐れです。私たちも同じような経験をすることがあります。この世の事実からは最もに聞こえる恐れが出てきます。そのような時に私たちはどうしたら良いのでしょうか。
モーセはそれに対して、「思い起こしなさい」と言います。70周年記念の御言である創世記16:8の「あなたはどこから来たのか」を思い起こすことです。
私たちは何かを考える時には、自分はどこから来たのかと過去を思い起こすことが大切です。イスラエルが思い起こすことは、あなたの神、主がエジプトの王ファラオとすべてのエジプト人に対して行われたことをすべてです。あなたがその目で見た大いなる試みとしるしと奇跡、力強い手と伸ばした腕によって、あなたを導き出したことです。
イスラエルは確かに主の力強い手によって罪の象徴であるエジプトから導き出されました。これはイスラエルだけのことではありません。この世の纏わりつく罪からクリスチャンは主の力強い手によって導き出されます。
しかし思い起こすと言っても、どのようにしたら思い起こすことが出来るのでしょうか。イスラエルはエジプトから導き出されたことの記念として、出エジプト12:43で命じられた過越祭を行うことで思い起こしました。
クリスチャンは同じ過越祭の日に過越しの小羊として十字架に付けられた主イエスを記念する聖餐式によって、エジプトの象徴する罪から導き出されたことを思い起こします。今はコロナウィルスの影響で聖餐式を行うのが難しい状況ですが、コロナが落ち着いて聖餐式を再開するのが楽しみです。
エジプトに対するのと同じように、あなたの神、主は、あなたが恐れているすべての敵の民にも同じように行われます。自分の過去を振り返って、「あなたはどこから来たのか」と主の恵みを思い起こして、主と共に歩み続けるなら、「あなたはどこへ行こうとしているのか」といった未来も見えて来ます。
さらに、あなたの神、主は、生き残って隠れている者らである敵を滅ぼすまで、恐怖を彼ら、敵のもとに送られます。恐怖は原語では「すずめばち」と書かれていて、新改訳は原語通りに「すずめばちを彼らのうちに送る」と訳しています。すずめばちが送られてきたら確かに恐怖です。
2、畏るべき神
彼らである悪を滅ぼし尽くすのですから、彼らである悪の前でおののいてはなりません。なぜなら、あなたの神、主はあなたのただ中におられる大いなる畏るべき神だからです。畏るべきは、敵である悪ではなくて大いなる神です。私たちが拠って立つのは畏るべき神だけであり、それが全てです。
その畏るべき神が自分の中におられるのですからおののく必要はありません。今日の中心聖句は今年度の茂原教会の御言と同じ意味です。畏るべき神は、これらの国民である悪を、あなたの前から少しずつ追い払われます。あなたは彼らを一気に滅ぼすことはできません。
そのような、もったいぶったようなことはしないで、一思いに一気に滅ぼしてくださいと思います。
しかしそのようにする理由は、あなたのところで野の獣が増え過ぎないためであり、それはあなたのためです。初めにお話しした木や竹を切ると下草が伸びてくるようなものです。
狼を滅ぼした地域では鹿等が増え過ぎて農作物に被害が出るということを聞いたことがあります。人間の集まりでも同じであると思わされます。全知全能の神は、私たち人間には想像もできないことも全てご存じで、全てにとって最善の時に最善のことをなしてくださることを信じて歩みたいものです。そして神の最善の時に、彼らをあなたの手に渡されるので、誰もあなたに抵抗できず、あなたはついに彼らを滅ぼし尽くすことになります。
3、滅ぼし尽くせ②
とうとう彼らを滅ぼし尽くす段になりますが、いざ悪を滅ぼし尽くす時になると、人には色々な欲望がありますので、その通りに行うのが難しいものです。そこでモーセは繰り返し具体的に細かく説明をします。彼らの神々の彫像は、火で焼かなければなりません。
滅ぼし尽くせと言っているのですから、当然、彼らの神々の彫像も滅ぼし尽くさなければなりません。5節で言っていたことを繰り返します。神々の彫像を覆う銀や金を欲しがり、取って自分のものとしてはなりません。私は貧乏性なのでつい何か勿体無いなという感じもしてしまいます。
しかし神の命令には無条件で完全に従う必要があります。その理由は16節と同じように、あなたが罠にかからないためです。人間の理屈ではありません。出エジプト記32章で、モーセがシナイ山で主と語っていた時に、モーセがいなくて不安になったイスラエルはアロンに頼んで金の子牛を造ってしまいました。
怒ったモーセはその金の子牛を火で焼いて粉々にして水の上にまき、イスラエルに飲ませました。金がもったいないといったような次元の問題ではありません。神よりも優先するものは偶像となります。それは、あなたの神、主が忌み嫌われるものです。
神は唯一であり、偶像を造ってはならないことは十戒の第一と第二の戒めであって、信仰の基本です。それはまた、あなたが罠にかからないためです。忌むべきものを家に持ち込んではなりません。そのようなことをすると、あなたも忌むべきものと同じように滅ぼし尽くすべきものとなってしまいます。
ここでいう家に持ち込んではならない忌むべきものとはどのようなものなのでしょうか。何となくぱっと思い浮かんでくるのは神棚や仏壇等でしょうか。ものによっては彫像があり、銀や金でキラキラとしているものもあります。しかしここで言っているのは金銭的な価値があるために自分が欲しがるものです。
自分は欲しがってはいないけれど、家族が大切に思っている神棚や仏壇はここでいう対象ではありません。逆の立場で考えて、クリスチャンではない家族が自分が大切にしている聖書や讃美歌等を忌むべきものとして扱われたら悲しいものです。
マタイ7:12で主イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」と言います。これは聖書が言う以前に人として当たり前のことです。
ただ憎むべきものを憎み、忌むべきものを忌み嫌わなければなりません。
それは滅ぼし尽くすものだからです。言っていることは何となくは分かるのですが、抽象的な言い方ですので今一つピンと来ない感じもしますが、どういうことでしょうか。
4、畏るべき神②
神はこの7章だけでも何度も私たちに、悪を滅ぼし尽くせと命じられます。しかし私たち人間は自分の利得を考えて、悪に対して憐れみの目を向けたり、悪の神に仕えたり、悪に伴う金銭的な価値のある銀や金を欲しがったり、忌むべきものを家に持ち込んだりする罪深い者です。
しかしそのような私たちを6節で言う、主の聖なる民、ご自分の宝の民とするために、神はお独り子である主イエスを私たちの身代わりとして十字架に付けられました。そしてマタイ6:21で主イエスは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と言われました。その御言の通りに、神は私たちをご自分の宝の民として、宝である私たちのただ中におられます。
全知全能の畏るべき神が私たちのただ中におられるのですから、私たちがすることは私たちを宝としてくださるお方を私たちも宝とすることです。この世の宝である銀や金を欲しがるのではなく、大いなる畏るべき神を宝として歩みたいものです。
しかし私たちのただ中におられる大いなる畏るべき神に従って歩みたいと思いつつも、どれが神に従う道で、どれが憎み忌み嫌われる道なのか良く分からない時もあるかも知れません。これは神との交わりを深めて行く他にはないように思います。
神を礼拝し、聖書を読み、祈り、神との交わりを深めて行く中で、御心を知って従って行くことです。そうすることによって神との絆は強められて行って、御心も分かり易くなって行きます。しかし神の御心が分かっていても従って行かないと、神との距離がどんどんと離れて行って、いつしか御心も分からなくなってしまいます。
そのようの行って行く中でも神の御心が完全にいつも分かるというのは難しいものです。御心に従っていると思いつつも失敗をしてしまうこともあります。しかし心配することはありません。神はそのようなことは十分にご存じで、そのためにも既に二千年前に主イエスが十字架に付けられています。
失敗したら素直に失敗を認めて悔い改めて、また新たに出直せば良いのです。問題なのは失敗を認めずに悔い改めないことです。悔い改める者のただ中に大いなる畏るべき神はおられ、主の聖なる民として守ってくださいます。大いなる畏るべき神に信頼して歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。大いなる畏るべき神であるあなたは私たちに、この世の悪を滅ぼし尽くし、関わってはならないと繰り返し語られます。しかし罪深い私たちは何かと言い訳を考えて、自分の利益を考えてしまう罪深い者です。
しかしあなたはそのような私たちのために御子イエス・キリストを十字架に付けられ、信じる者を主の聖なる民、宝の民としてくださいますから有難うございます。あなたの宝の民と呼ばれる私たちがこの世の宝に目を奪われることなく、主の聖なる民として相応しい歩みが出来ますように、お導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。