平和をつくりだすクリスチャン
野田 信行牧師
世相の変化が大きく表に現れる時代となりました。米国の大統領選では、隣国との間に文字通りに壁を築くことを候補者の一人が口にしています。ヨーロッパでは命がけで避難している難民の受入れが難航しています。また地域の国々との協力関係を拒否する国もあります。これらがキリスト教国と言われる国々で起きています。
これまでのキリスト教国では少なくとも表面上は「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ19:18)の御言に従って歩んで来ました。しかし最近では良識のある人間が口にするのを恥ずべき様な自己中心的な話が、堂々と主張されるようになりました。
これまでは文化・習慣・宗教・人種の違う異邦(教)人を受け入れて来たけれど、現実的には自分と違う人と共存して行くことは口で言う程に簡単なことではなかったという結果であるのかもしれません。
これは「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイ24:12)の御言が現実となり「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう」(同24:7)の御言の成就です。これらの国々では、もう自分と違う人たちと関わるのはうんざりであり、自分だけの価値観で、自分だけの快適さを求めて、自分と同じ仲間だけで生きて行きたいという「内向き」な本音が聞こえます。
しかし私たちはその様な姿勢でどうやって子どもたちに、「誰とでも差別無しに皆で仲良くする、困っている人がいたら助ける」といった人として生きて行く上で基本的なことを教えることが出来るのでしょうか。
これは外国だけの話ではありません。全世界が今同じ問題に直面して大きな岐路に立たされています。それは自分と違う人は排除して、自分と同じ様な人とだけ固まって自分たちだけの快適さを求めて生きて行くのか、それとも自分と違う人を受け入れ合って協力して共存して行くのかの選択です。
主イエスが「あなたがたは、地の塩である」(マタイ5:13)と言われた時に、塩は塩だけで固まっていることを求められたのではありません。塩は世に出て行って塩のききめを働かせることを望まれました。
自分と違う人を受け入れて平和(シャローム)であることは簡単なことではありません。しかし主イエスが「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9)と言われた時に、平和は自然にあるものではなくて、つくり出すものであると教えられました。「平和の君」である主イエスを信じて神の子とされたクリスチャンは平和をつくり出す使者であることを期待されています。
「内向き」な時代であるからこそ、神の子とされたクリスチャンが全ての人を無条件で受け入れて平和をつくり出し、地の塩、世の光として神の栄光を現す者とさせて頂きましょう。
2016年10月号