「乳と蜜の流れる地で長く生きる」
2023年1月29日説教 申命記 11章1~9節
主の御名を賛美します。
1、知らなければならない
先週の個所の10:15で、まず主がイスラエルを愛されて選ばれました。そのイスラエルに主が求めておられることは、10:12~13に5つのことがありました。これは大切なことですので、もう一度、1節で纏めて繰り返します。それは、あなたの神、主を愛すること、そして愛することというのは、愛する人が言う、掟、法、戒めを常に守ることです。
そして、今日、イスラエルは知らなければなりません。申命記では、「今日」という言葉が61回使われています。それは今日、聞いたことは直ちに実行するということです。モーセは自分は主の約束のカナンの地には行けずに、間もなく天に召されることを知っています。
ですからイスラエルはモーセから聞いたことをその内にすれば良いということではなく、今日、直ちに実行する必要があります。知らなければならないのは、イスラエルの子孫ではありません。イスラエルの子孫は主の訓練を知ることも見たこともありませんでした。知ることも見たこともなければ知りようがありません。
カデシュ・バルネアで20歳以上だった人たちは主の預言通りに殆ど滅びています。しかし、その時に19歳以下の人たちも、もう60歳近くに成っている人たちもいて良い大人ですので、正しく知る必要があります。まず主の訓練を見た人たちが正しく知って子孫に伝えて行く必要があります。
2、主の守り
知らなければならないのは何のことでしょうか。それは主の偉大さと、その力強い手と伸ばした腕です。手や腕は力を表します。主は偉大な、お力でどのようなことをされたでしょうか。大きく2つありまして、1つ目は3、4節のエジプトのことで、2つ目は5、6の荒れ野でのことです。
エジプトのことは更に2つ有って、1つ目はエジプトの中でのことで、エジプトの王ファラオとエジプトの全土に対して行われたそのしるしと御業です。それは出エジプト記7~12章に書かれている10の災いです。10の災いには、血、蛙、ぶよ、あぶ、疫病、腫れ物、雹、ばった、暗闇、初子がありました。
これらエジプトに対して行われた10の災いによってイスラエルは罪の象徴であるエジプトを脱出しました。10番目の初子の災いの時に、主は小羊の血を家の入り口の柱と鴨居に塗ったイスラエルの家は過ぎ越されました。これは現代的にはどのような意味があるのでしょうか。
これはその約1400年後に過ぎ越しの小羊として十字架で血を流された主イエスの予型、雛型です。十字架で流された小羊、主イエスの血による贖いによって罪のエジプトから解放されるということです。イスラエルのエジプト脱出は、クリスチャンにとって罪からの救いである洗礼、新生を象徴します。
そして2つ目は、イスラエルがエジプトを脱出した後に、エジプトの外で行われたことです。それはエジプトの軍隊、その馬と戦車に行われたことです。出エジプト記14章でエジプト軍がエジプトを脱出したイスラエルの後を追って来たとき、主が葦の海の水を分けられて、イスラエルは海の中の乾いた地を渡りました。
しかしエジプト軍がイスラエルを追って海に入ると、主がエジプト軍の上に葦の海の水を溢れさせ、滅ぼし尽くして、今日に至っていることです。このことの現代的な意味はどのようなことでしょうか。それは罪の象徴であるエジプトから脱出して救われても、罪のエジプト軍はあなたがたの後を追って来るということです。しかし主に信頼する者を主は守られ、罪のエジプト軍を主が滅ぼし尽くしてくださいます。これはクリスチャンにとっての聖化の歩みを象徴します。
イスラエルはこのことから何を知る必要があるのでしょうか。それは主の教えを守る者を主は守られるということです。先週、イスラエルはエジプトに430年間、滞在したことをお話しました。初めにエジプトに行った当初は、宰相ヨセフの家族、親戚として手厚く迎えられたことと思います。
しかしヨセフのことを知らない王の時代になると、イスラエルの人数の多さと強さをエジプトは恐れて、重い苦役を与えて苦しめました。イスラエルにとっては大きなトラウマになったことでしょう。しかしそのようなエジプトに対してイスラエルは何もすること無しに、全てを主が戦ってくださりイスラエルを守られました。
主が守られることを正しく知っていれば、カデシュ・バルネア事件で巨人の先住民を恐れる必要はありませんでしたし、金の子牛事件でもモーセの不在を恐れる必要はありませんでした。しかし、それどころか、イスラエルは荒れ野で辛い目に遭うと、罪の象徴であるエジプトは良かったと言ってエジプトに帰ろうと言い出す始末です。罪の習慣が身に沁みついた罪の奴隷根性は恐ろしいものです。
3、主のさばき
イスラエルが知るべき2つ目のことは、イスラエルがこの場所に来るまで主が荒れ野で行われたことです。主は荒れ野で色々なことを行われましたが、ここではルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに行われたことです。これは民数記16章に書かれていたことです。
コラとダタンとアビラムとオンの4人が組んで会衆の指導者250人と共にモーセに反逆しました。4人が組んで反逆するのは兎も角、会衆の指導者250人も簡単に4人に引き摺られて共に反逆しました。仮にも会衆の指導者ともあろう者が250人もなぜ簡単に4人に引き摺られてしまったのでしょうか。
彼らは何と言って逆らったのでしょうか。民数記16:3で3つのことを言っていますが、2つ目の、「会衆全体、その全員が聖なる者であり、その中に主がおられるのだ。」は間違いではありません。罪を犯す者が言うことは必ずしも全てが間違っているとは限りません。
最もらしいことも含まれていたりするので、言っている本人も周りの者も、自分たちは正義を行っていると勘違いして、自分で言った言葉に自分が騙されて罠に落ちることになります。
しかし1つ目の、「あなたがたは分を越えている」と、3つ目の、「それなのに、なぜあなたがたは主の会衆の上で思い上がっているのか。」は明らかに間違いで、言っている本人たちが、分を越えていて、思い上がっています。罪を犯す者は、自分が犯している自分の罪には目をつぶって、他の人にその罪を擦り付けようとします。
箴言18:8aは、「陰口を言う者の言葉はごちそう」と言います。人の陰口、悪口はごちそうで、皆が食べたがり、直ぐに皆が食いついて広がって行きます。しかしその結果は、箴言18:8bで、「腹の隅々に下って行く」、少し分かり難い表現ですが、消えることなく毒となって体全体に広がって行きます。
ところでイスラエルはエジプトでの滞在の後半は奴隷として支配されて、エジプト人に虐待されても反逆することは出来ませんでした。そのようなトラウマへの反動がモーセやアロンへの反逆として出ているようです。虐待をされて来た者が今度は虐待をする側へと変わって行きます。
民数記16:1と申命記11:6を読み比べると気になる表現があります。これらは両方ともモーセが書いたものです。モーセは民数記16:1では、この後の内容から火皿事件とも言えるこの事件の首謀者はコラであると言います。コラが3人と組んで250人と共に反逆した事件です。
しかし申命記11:6は、首謀者のコラよりもむしろ、主がダタンとアビラムに行われたことと言います。これはどういうことなのでしょうか。民数記16:12~14を見ると本当に酷いことを言っています。これは事件を起こす首謀者ではなくても、人の悪口に唆されて罪を犯す者に主が行われたことを知りなさいという意味のようです。
その結果として、地が口を開き、彼らもその家族も天幕も、イスラエルのすべての人々の中で彼らに属するものはすべて吞み込まれました。モーセはこのことについて民数記16:30で、「この者たちが主を侮ったことをあなたがたは知るであろう。」と言います。
自分の分を越えて思い上がることは、主を侮ることです。どのように主を侮っているかというと、主のさばきを甘く見ているということです。全知全能で全てをご存じの主を、心から畏れるなら、主のさばきを畏れるはずです。
主のさばきはダタンとアビラムに行われたようにこの世で行われるかも知れません。しかしもしそうでなくても、最後の審判では必ずさばかれます。最後の審判は永遠を決定する最も大切なことです。カデシュ・バルネア事件ではカナンの先住民の巨人を恐れ、金の子牛事件ではモーセの不在を恐れていながら、全知全能の主のさばきを畏れないというのは余りにも愚かです。
4、戒めを守る
確かに、イスラエルの目は主の行われた大いなる業をことごとく見ました。大いなる業は、3、4節の主に信頼する者への守りと、5、6節の主を侮る者へのさばきです。短く言うと、主の守りとさばきです。このことを26節からの小見出しでは、祝福と呪いと言っています。私たちはそのどちらをも自分で選ぶことが出来ます。
勿論、主は10:13にあったようにイスラエルを初め全ての人が幸せになることを願っておられます。「だから、あなたがたは、私が今日命じる戒めをすべて守りなさい。」と命じられます。既にお気付きの方もおられると思いますが、1~8節は中心構造で書かれています。
1番外側の1節と8a節は「主の戒めを守りなさい」、2番目の2節と7節は「主の御業を見た者が守れ」、中心は今回は2つあって、ダブルマックバーガーのようです。1つ目の中心は3、4節の主の守りで、もう一つは5、6節の主のさばきです。中心は2つと言っても正反対の内容です。
結論として1~8a節を纏めると、「主のさばきではなく守りを得るためには、主の御業を見た者が主の戒めを守りなさい」になります。一言で言えば、主の戒めを守りなさいです。ただそのような結論ですと、具体的にどうしたら戒めを守ることが出来るのかという問題が出て来ます。
その答えが先週の、心に割礼を施すことです。「心に割礼を施し」は日本語の文法ですと能動態の命令形ですので、「心に割礼を施せ」になります。それはユダヤ人が生後8日目の赤ちゃんに割礼を施すように人間が担う部分もあります。
3節の罪の象徴であるエジプトからの脱出、出エジプトはクリスチャンにとっての洗礼であるとお話しました。洗礼による救いの恵みの根拠は過ぎ越しの小羊として血を流され十字架に付けられた主イエス・キリストです。しかし人間の側はそのことを信じて告白し、罪を悔い改める必要があります。
ただ聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」ということはできません(Ⅰコリント12:3)ので、聖霊の力によって心に割礼を施していただいて、信仰を告白し悔い改める必要があります。しかしそれで終わり、完成ではありません。救われた後でも罪のエジプト軍はあなたがたの後を追って来ます。
しかし主に信頼し、聖霊の導きに従って心に割礼を施し続け、悔い改め続けるなら、罪のエジプト軍は主が滅ぼし尽くしてくださいます。しかし罪のエジプト軍が追って来たときに、ダタンとアビラムのように、罪の言葉に唆されてしまうこともあります。
自分の分を越えて思い上がり、神が立てたモーセとアロンに反逆し主を侮り、滅びのさばきを招くことになります。そのようにはならないために、聖霊によって心に割礼を施し続けていただき、悔い改め続け、主の戒めを守りなさいと命じます。
5、乳と蜜の流れる地で長く生きる
主の戒めを守る者にはどのような約束があるのでしょうか。乳と蜜の流れる地で、長く生きることができます。先週の10:12、13で主が私たちに求めておられることは幸せになることとありました。幸せとは今日の個所では、具体的には乳と蜜の流れる地で長く生きることと言います。
「乳と蜜の流れる地」の表現は旧約聖書に18回出て来て、その内1/3の6回が申命記です。それは豊かな良い地という意味です。豊かな良い地で長く生きることが幸せであり、主が私たちに求めておられることです。
確かに辛いだけの環境で長く生きることは大変ですし、例え良い環境であっても長く生きなければ寂しいものです。ただ「乳と蜜の流れる地」は物質的な豊かさだけを意味しているのではありません。主が共におられ主の祝福があることです。
また長く生きるとはこの世でのことだけを言っているのではなくて、究極的には永遠の命を得て長く生きることを意味します。乳と蜜の流れる地で長く生きることは、誰もが望むことですし、自分だけではなく、自分の家族も子孫もそのようであって欲しいと望むことです。
そしてそのことを望むのは私たちだけではなく、私たちを造られた主も全く同じ思いです。そのために主は過ぎ越しの小羊として主イエスを十字架に付けられました。私たちはその主の愛への応答として、聖霊の導きによって主イエスを信じ、悔い改め続けましょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは主に信頼する者を守り、主を侮る者をさばかれることを知りなさいと言われます。私たちは失敗を犯してしまう愚かな罪人ですが、主イエスの十字架の贖いによって救われることを感謝します。
私たちは誰もが、乳と蜜の流れる地で、長く生きることを望んでいます。どうぞ聖霊の力によって私たちの心に割礼を施し続け、私たちが主を侮ることなく、悔い改め続けさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。