福音に共にあずかるために
コリントの信徒への手紙一 九章十九~二三節
野田信行牧師
「福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです」。
(コリントの信徒への手紙一 九章二三節)
パウロは自由な身分の生まれですが、すべての人の奴隷となりました。奴隷となるとは自分の権利を用いないことで(十八節)、その目的は、「より多くの人を得る(救う)ためです」。具体的には、①「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになる」ことで、クリスチャンに割礼は不要ですが、テモテを伝道旅行に連れて行く時には、ユダヤ人の手前、テモテに割礼を施しました(使徒十六:三)。②「律法の下にある人には、そのようになり」、誓願を立てた時には、律法通りに髪をそりました(使徒十八:十八)。
パウロが「律法の下にはない」というのは、神の律法を持たないという意味ではなく、キリストの律法の内にあります。律法は人間の努力で守るものではなく、自分の無力さを知りキリストに導く養育係です(ガラテヤ三:二四)。キリストの律法の内にある者は、下からの人間の努力によってではなくて、上からの神の恵みの力によって律法を成就する者とされます。
③「律法を持たない人には、そのようになり」、アテネで宣教をした時には、異邦人の異教への信仰のあつさを認めて受け入れます(使徒十七:二二)。④「弱い人には、弱い人になりました」が、「弱い人」は、「偶像に献げた肉を食べると汚される良心が弱い人」(八:七)です。これは弱い人を得るためですが、弱い人にはクリスチャンもいますので、ここの「得る」には、「つまずかせない」という意味もあります。
パウロが福音のために、すべてのことをするというのは、福音のためには手段を選ばないという意味ではなく、自分のすべての権利を用いないで、何でもするという意味です。キリスト者の自由とは、自分にある権利、自由を敢えて用いないで奴隷となるという究極の自由です。
パウロが自分の権利を用いないで奴隷となる目的は、「福音に共にあずかる者となるためです」。福音は「良い知らせ」の意味で、主イエスへの信仰による救いの良い知らせです。しかし福音は個人的な救いだけではなく、「天の国は近づいた」(マタイ四:十七)、神の支配が始まった良い知らせであり、また「すべての民を弟子にしなさい」(マタイ二八:十九)と言われ、すべての民が弟子となる働きが始まった良い知らせです。
パウロやクリスチャンは福音による救いにはあずかる者ですが、神の支配、すべての民を弟子にする働きの福音は始まってはいますが、完成はしていません。パウロもクリスチャンも共に福音にあずかるためには、自分の権利を用いることをしないで、すべての人に対して、すべてのものとなって救う必要があります。聖霊の力を頂いて、福音の完成を目指して、すべての人の救いのために用いて頂きましょう。それは福音に共にあずかる者となるためです。