冠を受けるための節制

コリントの信徒への手紙一 九章二四~二七節 
野田信行牧師

「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです」。
(コリントの信徒への手紙一 九章二五節)

パウロは、「競技場で走る人のように、賞を受けられるように走りなさい」と勧めます。コリント郊外のイストモスではオリンピックを含むギリシャの四大競技大祭の一つであるイストモス大祭が行われました。パウロはオリンピックの精神がコリントの街の文化であることを知っていて、競走と拳闘(ボクシング)の例を挙げます。それはギリシャ人にはギリシャ人のようになって、ギリシャ人を得るためです。

「賞を受けられるように走る」とは、そのためにすべてにおいて節制することで、それは、好き勝手な自由奔放な生活をしないことです。パウロはここでも引き続き、「偶像に献げた肉を食べることについて」(八:四)の話をしています。ここで節制とは、良心が汚されてしまう弱い人をつまずかせないために、自分にある権利を用いずに、偶像に献げた肉を食べないことです。その位の節制が出来なければ、主イエスが節制の限りを尽くされた、十字架による救いの福音を他の人に告げ知らせることなど出来ません。

節制による力は効果的に使って、競技においても節制します。「やみくもに走ったり、空を打つような拳闘をせず、むしろ、自分の体を打ち叩いて従わせ」て、目標をしっかりと定めて外しません。パウロは宣教旅行でも、コリントやローマ等の大きな都市で宣教するのが効果的であると考えて目標にしました。

それは、「他の人に宣教しておきながら、自分のほうが失格者とならないためです」。クリスチャンの人生において、自分はクリスチャンの生き方から引退してコーチとなって、他の人には節制を求める宣教をしておきながら、自分は節制をしないということは有り得ません。クリスチャンの生き方に引退はありません。

クリスチャンは生涯現役で、例えコーチの役を担うようになっても、コーチ兼選手として一生節制を行います。宣教は霊的な働きですので、霊的な節制をしていない人が、他の人に霊的な節制を説いても伝わりません。それでは宣教者、クリスチャンとして失格者です。その様にならないためには普段から神との交わりに生きて聖霊の力によって霊的な節制をすることです。そうすることによって私たちは心身共に力を得て朽ちない冠を受ける者とされます。

2020.10.18