「神はあなたの命」

2024年6月9日礼拝式説教  
申命記 30章11~20節
        
主の御名を賛美します。

1、神の言葉は心にある
私たちは聖書を読むときに、この箇所はどういう意味なのだろうか考えさせられるときはあります。申命記は今から3千年以上前に、遠い外国でのことを外国語で書かれた文章ですので、細かいところでは難しいところもあるかとは思います。しかし聖書は神がすべての時代のすべての人に向けて語られたものです。

その意味で聖書の中心的な戒めは、あなたにとって難しいものではなく、遠いものでもありません。「難しいものではない」ことの具体的なことは、戒めは天にあるものではありません。確かに戒めが天にあるなら取って来るのは難しいでしょう。

そこで、「誰かが私たちのために天に昇ってそれを取って来てくれるなら、私たちはそれを聞いて行うことができるのだが」と言うかも知れませんが、天にあるものではありませんので、そのような必要はありません。

そして「遠いものでもない」ことは、同じように海のかなたにあるものではありません。神の戒めは難しいものではなく、遠いものでもありません。戒めの言葉はあなたのすぐ近くにあります。27:3、8に、「律法の言葉をすべて石に書き記しなさい」とありますので、イスラエルの近くにあります。

そして、あなたの口にあります。当時のイスラエル人に1人1冊の聖書はありません。戒めは口伝えで伝えられて毎日、告白をしていましたので、戒めの言葉は口にあります。そして、あなたの心にあります。6節にありますように、神が心に割礼を施し、心にあるようにしてくださいます。

エレミヤ31:33でも約束されている新しい契約です。それによって、あなたは戒めの言葉を行うことができます。このことを使徒パウロもローマ10:6~8で引用しています。現代の私たちは自分の手元に神のすべての言葉である聖書がありますので、その意味でもとても恵まれています。

ところが人間は、「灯台下暗し」で、自分のすぐ近くにある大きな恵みには、中々気付き難く、感謝もし難いものです。それとは反対に、何か難しいものや、遠いものを憧れたり求めたりし易いものです。インドの山奥に行って修行をしたら何となく効果がありそうだとか、日本でも四国のお遍路さんは、人によっては遠いもので難しいものでもあるためにか人気があったりするようです。

以前にインドのカルカッタで奉仕をしていたマザーテレサのもとに来たいという人たちに対してマザーは、「カルカッタはあなたたちの周りにもあります。貧しい人がいる場所は、どこでもカルカッタです。」ということを言ったそうです。何でも難しいものや遠いものを考えるのではなく、自分の近くにある大切なものに心を留めたいものです。

2、命を選びなさい
主はあなたの前に命と幸い、死と災いを置かれます。聖書の教えは一貫して、「あなたの神、主を愛し、その道を歩み、その戒めと掟と法を守りなさい。」です。命令には約束が伴い約束は、「そうすればあなたは生きて、その数は増える。あなたの神、主は、あなたが入って所有する地であなたを祝福される。」です。この段落には3つの命令とそれに伴う約束がありますが、16節が一つ目です。

この命令と約束は難しいものでも遠いものでもなく単純な分かり易いものです。そして先週の6節では、主が私たちの心に割礼を施し、主を愛し、命を得るようにしてくださいます。祝福されることが神が命じられる生き方です。

そしてもう一つの生き方は必ず滅びる生き方です。この滅びに至る生き方は神を知らない異邦人に語られているのではありません。今ここで神を信じ、神に従うと言っているイスラエル人に語られていますので、それはクリスチャンに対する言葉です。滅びに至るのは三つの段階があるようです。

第一段階は、心変わりして聞き従わないことです。これは自分自身の問題です。そしてそのような心の隙があるところに、第二段階として惑わされるものが来ます。創世記3章で蛇がエバを惑わしたときにも、エバが一人で蛇と対応するなどの心の隙があるときに、蛇が惑わしに来たのかも知れません。

主イエスを裏切ったイスカリオテのユダは会計係であったにも関わらずお金を誤魔化していました。そのような心変わりして聞き従わないでいたときに、惑わされて祭司長たちに主イエスを引き渡したら幾ら貰えるかと聞いて、銀貨30枚を受け取ると主イエスを裏切りました。このような話を聞くと私は果たして大丈夫だろうかと不安になるかも知れません。
しかしそもそも第一段階の心変わりして聞き従わないことがなければ惑わされることもありません。しかし第一段階で心変わりして聞き従わず、更に第二段階で惑わされると、第三段階で他の神々にひれ伏し、仕えることとなり、必ず滅びます。

イスラエルはこれから、ヨルダン川を渡り、カナンの地に入って行ってその土地を所有しますが、滅びることになりますので、その土地で長く生きることはできません。主は今日、天と地を証人として、対照となる命と死、祝福と呪いをあなたの前に置きます。これは自由な選択でどちらを選んでも良いのではありません。

二つ目の命令は、「あなたは命を選びなさい。」です。命令には約束が伴ないますが、命を選ぶ命令に伴う約束は、「そうすれば、あなたもあなたの子孫も生きる。」です。15~20節の段落には、「命」と「生きる」という言葉がそれぞれ4回づつ使われています。命とは生きることです。生きているものは命があります。

命あるものは生きていますので、例え途中で色々な躓きがあったとしても、命のある限りは生き続けることが出来ます。逆に言いますと、命を失ってしまうと生きることが出来なくなってしまいます。「命」と「生きる」は同じ意味の感じがしますが、二つ目の命令の「命を選びなさい」と命じる、命とはそもそも何なのでしょうか。

3、神はあなたの命
そこで三つ目の命令は、「あなたの神、主を愛し、その声を聞いて、主に付き従いなさい。」です。その命令に伴う約束の説明として、主こそあなたの命であると言います。主、神が命であるとはどういう意味でしょうか。

創世記1章で神はこの世のすべてを創造されました。そして創世記1:20~27で、すべての生きものを造られました。生きものに命を与えることが出来るのは神だけです。特に人間は創世記2:7で、神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息(霊)を吹き込まれて、人は生きる者となりました。

人が命を持って生きるとは、命の息である聖霊に満たされて、神のかたちに生きることです。それは神と交わって生きることで、神の御言が口と心にあることです。
命は大切なものですが、それは単なる肉体の命だけではなく、命を与えることが出来るただ唯一の神であるイエス・キリストが私たちの罪の身代わりとして十字架に付かれて、私たちに与えてくださる霊の命を受け取ることです。二つ目の命令の、命を選びなさいというのは主イエスを選びなさいということです。
主にある命に生きるなら、主があなたの父祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地であなたは長く生きることができます。そして祝福されます。誰でもできることなら長生きを望むものです。しかし使徒パウロはエフェソ2:1で、「あなたがたは、過ちと罪とのために死んだ者である」と言います。

それは例え肉体的には生きていたとしても、霊的には死んでいるということです。それでは生きている意味がありません。大切なことは、この世で長生きをすることよりも、命の源である神の命に生きることです。それは極端な言い方をすれば、その人がいる場所がこの世であっても、天国であっても神の命に生きているのであれば変わりはありません。

神の命に生きる者を神は祝福されるからです。私はまだ天国に行く心の準備等はできていません。しかしこれまで自分の家族も含めて多くの兄弟姉妹を天国にお送りして来ました。その兄弟姉妹と同じところをとおって、同じところに行くことを考えますと心の不安が少し薄らぐ気がします。

また天国での再会を楽しみにする人も増えましたので楽しみもあります。年齢を重ねる毎に少しづつ天国のことを考えて行くことも大切です。しかし天国のことを考えつつも、まずは天国にきちんと入る生き方をすることです。

それは父なる神が遣わされた命の源である主イエスを信じて受け入れ、聖霊の導きに従うことです。そしてこの世にあっては自分に与えられた役割をきちんと果たし祝福を受けましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰もが長生きをして祝福されることを望むものです。そのためにあなたは、あなたが遣わされた命である主イエスを選び、主イエスに従いなさいと命じられます。それが祝福される唯一の道だからです。

どうぞ私たちが迷い出てしまったり、惑わされることがないようにお守りくださり、祝福してくださいますようにお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。