価値観の逆転

                                               野田 栄美

最近、小さなことに幸せを感じることが多くなりました。年齢を重ねてきたからでしょうか。以前は、何かを成し遂げることや、何かを得ることを幸せだと思い描いていたように思います。しかし、体の弱さを感じたり、思うように動けなかったりすることが続くと、そのような幸せではないけれども、日常の一コマが心に留まるようになりました。

中々外出ができない日が続くと、久しぶりに車に乗った時に目にする里山の風景がきれいだなあと、心が深呼吸できたような思いになる。思うように家事をこなせない日々の後に終えたかったことができると、今日はこの家事ができて嬉しい日だなあと思う。何か特別なことではないけれど、幸せをいただいているのを感じます。

聖書は、私たちの持っている価値観を大きく変えることがあります。パウロが、体の棘を取り去ってくださいと祈った時に、神は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」(コリントⅡ12:9)と答えられました。

体の弱さが、実は神の力を現わす器になる。体の弱さに苦しんでいる時にも、神は十分な恵みを注いでくださっている。これは目からうろこです。悪いことが起きているのではなく、神の力を見る準備が整ったのだと、聖書は言っているからです。

私には乳児の時に手術を受けた息子がいますが、手術前には、2,3才くらいの子が道に立っていると、「息子もあの年まで生きているだろうか」と思ったものでした。その後も、小学生になったのだなあ、成人できたのだなあと、感慨深く振り返ることができました。神がここまで守ってくださったことを、こんなに何度もかみしめることができるのは、命の心配をするような時を通されたからです。

聖書には弱さだけでなく、罪についてもこんなことが書かれています。

「だから、言っておく、この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7:47)

自分の罪に気が付くと、そこから目を背けたくなります。けれども、その罪に向き合って認める時に、赦されたことの恵みを味わうことができます。そして、神を愛することができるように変えていただけます。神が共におられる時に、価値観は逆転します。

少しだけ勇気を出して、自分の弱さと罪に目を向けてみましょう。そこにある神の恵みは私たちを温かくします。神のみ言葉を心に留める時に、幸せはあなたと共にあります。