救いのために

                                                      野田 栄美

今年も残り1ヶ月を切りました。今年は嬉しいこともたくさん与えられましたが、義理の母を始め、多くの人を天に見送る一年でもありました。ご葬儀の度に、思い出を振り返る年でした。

義母の葬儀の時は、お正月に帰省したり、一緒に旅行に行ったりした思い出が浮かびました。けれども、夫が牧師になってからは、すっかり自分たちのことで精一杯になり、十分な親孝行はできなかった、ごめんなさいと心の中で思いました。優しかった母は天国で「そんなことないよ」と言ってくれている様に感じます。ただ、私がいたことで少しだけ天国へ行くお手伝いができたかもしれないことだけが、私の慰めでした。

それは、S兄の召天の時にも感じたことでもあります。私はS兄とはゆっくりお話しする機会はあまりありませんでしたが、牧師がS兄のご自宅に訪問するための「橋渡しの役割」を神からいただきました。「牧師は嫌な顔をされるのには慣れていますから」と、夫への厚い信頼(?!)を持って、お嬢様のC姉にお話し、最初の訪問が実現しました。S兄を導くご奉仕をいただいたのは牧師です。私はただ橋渡しのために神が置いてくださいました。

これらの体験を通じて、私は人が天国へ行くためのお手伝いのために存在している、それだけだと、心に留めるようになりました。よい嫁であったか、よい妻や母であったか、よい牧師夫人であったかと、自分を振り返るのは、高慢なことかもしれません。神は弱さの内に働いてくださり、私を人の救いのために生かしておられる、それだけが私の生きる意味だと改めて思うようになりました。

今年も、クリスマスのできごとを思い巡らす中で、正に、主イエスは人の救いのためだけに生きられた方だったことに気が付きました。

「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6.7)

父なる神も、主イエスも神ですから、生まれる場所も両親もお選びになることができました。立派な政治的指導者にも、高名な学者にもなることができたのに、誕生の時から、貧しい大工の家庭にお生まれになり、この世の富も権威も持つことはなく、ただ、人を神の国へ招くために死に至るまでへりくだって生きられました。

このクリスマスは、神の御心のために従順に生きられた主イエスを思い、その足跡を辿ることを心に留めて、お祝いしたいと思います。