「御業を語り伝える」

2024年9月8日礼拝式説教  
詩編 71編14~24節
        
主の御名を賛美します。

1、詩編70、71編
詩編71編は70編の続きと言われます。70編の小見出しには、ダビデの詩とあります。日本語的にはダビデの詩といいますとダビデが書いた詩という感じがします。しかし原語のヘブル語の「~の(ㇾ)」には、「~に対して、~のために」という意味があります。

詩編の「ダビデの詩」には、ダビデに捧げるために他の人が書いた詩も含まれていると考えられます。この71編もエレミヤが書いたと考える神学者もいます。ここでは素直にダビデが書いた前提でお話します。詩編はその内容からいくつかの種類に分けられますが、71編は「個人の嘆きの詩」と言われます。

70:1のように、苦しい状況の中にいる詩人が救いを求める内容です。詩人は自分の気持ちに正直に、71:13のように敵の滅びを願います。この詩の作者がダビデであれば、いつのことを書いているのだろうかと思います。

それとも「私」とは言っていますが、イスラエルの歴史のことを語っていて、イスラエルがエジプトでの奴隷生活のこと、若しくは、異教の民との戦いのときのことを語っているのかも知れません。具体的なことは分かりません。

いずれにしても詩編は、初めは自分の救いを求め、敵の滅びを願うことで始まっても、そのままでは終わりません。救いと敵の滅びが、まだ実際には起こる前に、主が正義をなされることを確信します。それは過去を振り返って、主が正義をなされてきたことを思い返すことによってです。

71編では、「あなた(主)の正義」が5回使われて強調します(2、15、16、19、24節)。主の正義とはここでは特に、正しい者が救われ、正しい者に敵対する者が滅ぼされることです。主の正義がなされることを確信することによって、救いと敵の滅びの願いは、主に対する感謝と賛美へと変わって行きます。

これは良い譬えか分かりませんが、色々なお店等のトイレに行くと、「いつも綺麗に使ってくださり有難うございます」と書いてあったりします。まだ使う前なのだけどと思ったりしますが。
2、詩人
今日の聖書箇所はその賛美の内容です。この詩を書いた詩人の年齢はどの位でしょうか。18節で、「神よ、私が老いて白髪になっても」と言いますので、白髪になる前位と思われ、ある程度の年齢にはなっていて、今は救いと助けを求める苦しい状況です。

そのような状況にあっても、救いと敵の滅びを待ち望み、繰り返し、主を賛美します。日夜、詩人の口は主の正義を、主の救いを語り継ぎます。主の正義はここでは特に、救いと敵の滅びですが、まず初めは敵の滅びのことよりも何よりも、救いの方が先です。

しかしいくら語り継いでも決して語り尽くすことができません。なぜ語り尽くせないのだろうかと思いますが、この箇所を新改訳は、「そのすべてを私は知っておりませんが。」と訳しています。全能の主のすべての救いを人は知り尽くすことはできないので、語り尽くせないということのようです。

ただ詩人は、「若い時から主が教えてくださったので今に至るまで私は奇しき業を語って来ました。」と言います。そうしますと詩編の多くをダビデが書いていますので、71編の詩人はやはりダビデであるかと思います。

3、御業を語り伝える
詩人は、「神よ、私が老いて白髪になっても どうか捨て去らないでください」と訴えます。これは丁度、真上の9節と同じ内容です。ダビデは歴戦の強者でしたが、それでも年齢と共に力衰える部分もあったことでしょう。しかし自分には役割があると訴えます。

それは、「あなたの腕の業を 力強い業を 来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで。」です。これは確かに高齢になってもできることです。むしろある程度の年齢になっている方が、様々な人生経験から語れることもあり、また説得力もあるかも知れません。格好いい言葉です。私も言ってみたいものです。

しかし、「来るべきあらゆる代に語り伝えるその時まで」と言いますと、それは永遠にということになります。しかしこの詩人の、「来るべきあらゆる代に語り伝える」願いは叶えられることになりました。それは、この詩人の言葉は書き記されて聖書となって、「来るべきあらゆる代に語り伝え」られることとなりました。

私たちが語り伝える言葉は聖書になることはありませんが、主の御業を語り伝えることは、すべてのクリスチャンに与えられている役割です。主の御業を語り伝えることは、キリスト教界では「証し」と言います。今日は礼拝の後に証し会がありますので楽しみです。皆さんもぜひご出席いただければと思います。

証しとは、ここにありますように、主の腕の業、力強い業を語り伝えることで、16b節の、ひたすら主の正義だけをほめたたえることです。人の業を語ったり、ほめたたえることではありません。人の人生を通して主の御業が表されることは多くありますが、その中心は主の御業であって人ではありません。

それは一つの例として20節のような内容です。これは詩人がダビデであれば具体的には、サウル王から妬まれて命を狙われたことや、ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫事件、三男のアブシャロムが反逆して王位を狙った事件のこと等が思い浮かびます。

20節の、多くの苦しみと災いを経験し、再び命を与えられ、地の深い淵から再び引き上げられるという内容は、新約的には主イエスの人生そのものという感じがします。確かにそうです。主イエスご自身がまず20節の内容の人生を歩まれました。それは多かれ少なかれすべての人は20節の内容の人生を歩むからです。

主イエスは私たちが苦しみの中にいるときに、ご自身も体験をされておられますので私たちの思いを良くご存じです。私たちは主イエスが歩まれたのとは違う苦しみと災いかも知れませんが、誰でも同じような苦しみと災いを経験します。主イエスは十字架の贖いによって信じる者に再び命を与え、地の深い淵から再び引き上げてくださいますから感謝なことです。

先程、高齢者は特に主の御業を語り伝える役割があるようなことをお話しました。それでは、主の御業を語り伝えない高齢者、ノンクリスチャンの高齢者は敬われないのでしょうか。そのようなことはありません。神の愛、クリスチャンの愛は条件付きの愛ではなく、無条件の愛です。

すべての人は神によって造られてこの世に生まれて来ます。この世の多くの苦しみと災いに耐えて、この世で生きて来たことは尊敬に値することです。私たちは無条件で敬老対象者の方を祝福します。しかし祝福の源は神ですので、対象者の方が神と出会い、交わりの中に入られ、更なる祝福を受けることを願うものです。

4、救いの完成
20節のように救ってくださる主は、ただ救われるだけではなく、更に大いなるものとし慰めを与えてくださいます。そのように憐れみ深い主に対して、人のすることは、まことに感謝を献げ、ほめ歌うことです。ここでは竪琴に合わせてほめ歌うと言いますので、メロディーに合わせて歌として歌います。

そして最後は、私の舌も日夜あなたの正義を唱えます。私の災いを望む者が恥を受け、辱められた、と。14節からの待ち望むことは、救いから始まりましたが、最後は敵の恥、辱めで終わります。この詩編の書かれた当時は、文字通りに敵の滅びによって救いが完成したことでしょう。

聖書は信仰者に霊的な糧を与えるものですので、旧約聖書は新約の光に照らして霊的に読む必要があります。敵の滅びによって救いが完成するということはどのように受け止めたら良いのでしょうか。旧約聖書における敵は悪の象徴です。敵の滅びというのは、自分の中の悪、罪が滅ぼされることです。

救いは、苦しみと災いから助け出され、慰めが与えられ、感謝の賛美で完成ではありません。敵である悪、罪が滅ぼされ、主に贖われる者に相応しく変えられる必要があります。それも人間の業ではありません。主がなしてくださる主の御業です。

それで私たちは主の御業を私たち自身が誇ることはできません。私たちができるのは、主の御業を語り伝え、ほめ歌い、感謝を献げるのみです。それが人に与えられた分であり役割で、忠実に果たすことが祝福となります。主が恵みによって与えてくださる救いに与り、救いの完成を目指して主と共に歩み、自分の役割を果たさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ダビデと思われる詩人は多くの苦しみと災いに遭いましたが、その都度、主の救いを経験しました。そして年老いても主の御業を語り伝えることによって、更に信仰を育みました。。

私たちも自分の失敗もあって、様々な苦しみを通りますが、救いを与えてくださる主に目と心を留めさせてください。そして主に贖われる者として、聖霊の導きによって相応しく救いの完成を目指して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。