「子どもを受け入れること」
2024年11月10日礼拝式説教
マルコによる福音書9章33~37節
主の御名を賛美します。先週は米国の大統領選挙が行われ、日本でも先日、衆議院選挙が行われました。次週の17日にはニュースになっている兵庫県知事選挙が行われます。本当に相応しい人が選ばれるように願います。
1、誰が偉いか
主イエスと12弟子の一行は色々と移動しながら、カファルナウムに来て、家に着きました。カファルナウムの家は、先週の話にありましたように、シモンの家と考えられます。そこで主イエスは弟子たちに、「道で何を論じ合っていたのか」とお尋ねになりました。
主イエスは全知全能の神ですので、弟子たちが道で何を論じ合っていたのかを勿論、ご存知です。ここで主イエスがお尋ねになられたのは、子どもが何かいたずら等をしていたときに、親が全てを知っていながら子どもに、「何をしていたの」と聞くのと似ているかも知れません。
弟子たちは黙っていました。主イエスに答えられるような内容ではなかったからです。道々、誰がいちばん偉いかと言い合っていたからです。33節の「論じ合っていた」という言葉は、先週のシモンのしゅうとめが一同に「仕えた」(1:31)と同じ未完了形で、完了していませんので、繰り返し行われていたということです。
弟子たちはなぜ、誰がいちばん偉いかと言い合うようなことをしていたのでしょうか。福音書の中には、12弟子が、自分が偉くなることを競う個所が3か所ありますが、そこには共通点があります。それは主イエスがご自身が殺されて復活される預言の後にあります。今回は9:31の預言の後です。
次は10:34の預言の後に、10:35~37の依頼があります。最後の晩餐の時にも、ルカ22:22の預言の後に、22:24の言い争いがあります。主イエスはご自分が殺される預言の直ぐ後に、12弟子が自分が偉くなることを競っているのを、どのようなお気持ちで聞いておられたのでしょうか。
弟子たちは、主イエスが死なれて復活されることよりも、その後に自分がどれ位偉くなるのかということに関心を持っています。人はどうしてそんなに偉くなることに心が捕らわれるのでしょうか。その前にそもそも偉いとはどういうことなのでしょうか。
ここの「偉い」と言う言葉は「メガ」(大きい、百万の意)から来ています。今はギガ(10億)の時代ですが。メガの比較級で元の意味は「より大きい」です。日本語でも「偉い」と言う言葉は「大きい」という意味で使われます。何か大変なことが起こると「偉いこっちゃ」と言いますが大事ということです。
「偉い」とは権力の大きいことや地位や身分の高いことを意味します。弟子たちは主イエスと一緒にいる時には、主イエスは生ける神の子キリストですから一番偉いと分かっています。しかし主イエスは死なれると預言されています。それで、弟子の中では誰が偉いのかということに関心が移ったのでしょう。
偉くなるための競争というのは、この世のあるゆるところにあるものです。学校で良い成績を取ること、そして良い学校に行くこと、良い仕事に就くこと、職場の中で良い地位に就くこと等です。人が集まると偉さの順番の様なものが作られて行きます。
12弟子は主イエスに招かれた時には、純粋な気持ちで全てを捨てて従いました。しかし3:14で12使徒に選ばれたことで、他の弟子たちよりも偉くなった気分でいたことでしょう。しかし競争はどこまでも付いて来ます。今度は12弟子の中で誰が偉いかということでしょう。
12弟子たちは主イエスに従うために、それまでの仕事等を全て捨てて従って来ました。しかしいつの間にか、それだけの犠牲を払って来たのだから、逆にそれに見合った地位を得たいという思いが生まれて来たのかもしれません。
シモンは自分は他の弟子たちと違って妻もいる年長なのだから、ここで偉くなって一旗を揚げたいという思いがあったのかも知れません。ヤコブとヨハネの兄弟は、近所と思われるシモンとアンデレのような普通の漁師ではなく、雇い人たちのいる網元のような裕福な漁師の家です。その身分に見合った地位を得たいという思いがあったのかも知れません。12弟子のそれぞれにそれぞれの思いがあったことでしょう。
暫く前に、「マウントを取る、マウンティング」という言葉が流行りました。和製英語ですが、自分の方が偉いように見せかけようとする行為です。マウントを取ろうとする人は、自分に自信が無く、劣等感を持っている人が多いと言われます。
過去の経験からマウントを取って偉いように見せかけないと、見下されてしまうという恐れがあるようです。人間関係は支配するか、されるかのどちらかの上下の関係であり、対等で信頼を結ぶ喜びをあまり経験のしたことの無い不幸な人かも知れません。
しかし、「あなたは私の目に貴く、重んじられる。」(イザヤ43:4)と語ってくださる神を知っている人は、人の目に偉く見られる必要はありません。またそれは8:34の、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。」と言われる主イエスの御言に従う姿ではありません。
そもそも人類初の罪はエバが蛇にそそのかされて、「神のように善悪を知る者となる」(創世記3:5)ことを望んで、神のように偉くなりたいと思ったことでした。エバの子孫である私たちは偉くなることを望む罪を持っています。
人格的にも本当に優れている人が偉い地位につくことは問題はないどころか、逆に皆のために望ましいことです。しかし問題は、自分の利益と見栄だけのために偉くなりたがることです。その代表は律法学者です。12:38~40は、「彼らは、正装して歩くことや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望んでいる。また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。」と言います。
いつの間にか弟子たちは律法学者のようになろうとしていました。これは教会の中でも起こることですので本当に注意が必要です。しかしこれは非常に皮肉な姿です。弟子たちの師である主イエスは直前の段落で、全ての人の救いのために謙って自分の命を捨てる預言をされているのに対して、弟子たちは師とは正反対に偉くなろうとしています。
2、いちばん先になりたい者
主イエスは座って、12人を呼び寄せました。座って教えるのは当時の教師の姿勢で、これはとても大切な問題であったからです。そしてただ、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と言われました。
主イエスは、弟子たちが、いちばんになりたいという思い自体を否定はされません。ただそうであれば、すべての人の後になりなさいとと言われます。これはマタイ20:16の「ぶどう園の労働者」のたとえで、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」と言われた、この世とは違う神の国での逆転の法則の通りです。
また「すべての人に仕える者になりなさい。」とも言われました。この時にシモンは特に、はっとしたことと思います。先週の1:31で、自分のしゅうとめが主イエスに熱を癒された後に、一同に仕えました。主イエスは、いちばん先になりたい者は、シモンのしゅうとめのようになってすべての人に仕える者になりなさいと言われました。弟子たちは、どのようにこの言葉を受け止めたでしょうか。
3、子どもを受け入れること
主イエスは更に、すべての人の後になり、仕えるとは、具体的にどのようなことであるかを示されます。一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せられました。弟子たちは、この主イエスの行動をどのように思ったでしょうか。
子どもは無力な存在であって、一人だけで生きて行くことは出来ず、親に依存して生きている存在です。そのために、この当時は子どもは人数にも数えられませんでした。子どもは、「偉い」という言葉が意味する「より大きい」の正反対の小さな存在です。
弟子たちは、自分たちの将来の掛かった大切な話をしているときに、子どもの出る幕では無いと感じたかも知れません。しかし主イエスは、「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」と言われました。
主イエスの名のために子どもを受け入れるとは、どのような意味なのでしょうか。全ての人は神のかたちに造られた神の子です。そして主イエスは全ての人の救いのために十字架に付かれます。
それ程にどんなに幼い子どもでも、神の目に貴く、重んじられる存在です。「受け入れる」という言葉を4回使って強調しています。「受け入れる」という原語の言葉には、「(客として)迎え入れる」という意味もあり、「仕える」と同じ意味です。
シモンのしゅうとめが一同に仕えたように、子どもを受け入れ仕えるなら、子どもは幸せになり、子どもを受け入れる大人も神に祝福されて幸せになり、皆が幸せになります。同じようなことは、この後の41節でも言われます。それは裏を返せば、子どもの一人を受け入れない者は、主イエスを受け入れないことです。
この御言を知っているはずのキリスト教国や近い宗教の国々が戦争を続けて、無力な子どもの犠牲者を出し続けることは決して有ってはならないことです。米国の大統領が交代しますが、良い転機となって戦争が早く終わることを祈るばかりです。
現代のクリスチャンには、子どもの一人を受け入れる者は、主イエスを受け入れるのであると言えば、それで十分です。しかしこの時には、主イエスがどのようなお方であるのか12弟子たちもまだ良く分かっていません。
そこで主イエスは、「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。主イエスをお遣わしになった方は勿論、父なる神です。小さな子どもを受け入れることは、主イエスを受け入れ、父なる神を受け入れることであることを知る霊の心を持っていたいものです。
何も出来ない小さな子どもの中に父なる神を見るなら、他人と比べて自分の方が偉いなどと考えたり、言うことがいかに愚かなことであるかが分かります。自分が偉いと考えること自体が肉の思いであって、霊の結ぶ実ではありません。主イエスの十字架によって救われる者に相応しく、聖霊の力によって子どもを受け入れ、皆が幸せになるようにさせていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは自分が偉くなりたいという思いも誰でも多かれ少なかれ持っているものです。しかしすべての人は神のかたちに造られ、神の目に貴く重んじられる存在です。聖霊の導きによって、主にあって子どもを受け入れ、お互いに仕え合い、幸せな歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。