「人々の働き」 

2025年5月25日 礼拝式説教 

マルコによる福音書6章53~56節
        
主の御名を賛美します。

1、湖を渡りゲネサレトへ
今日の聖書箇所は短く、内容もそれ程には多くないと思い、初めは週報の聖書箇所の予定では、先週の個所と一緒にしていました。しかし準備を進めて行く中で、その内容の豊かさに気付かされて、今日の1回分とさせていただきました。

一行は45節で主イエスに強いて舟に乗せられて湖を渡りました。これまでにも一行は湖を渡っています(4:35、5:21)。何のために湖を渡るのでしょうか。公園にあるボート漕ぎのようなレクレーションではありません。主イエスは湖の向こう岸に向かう途中で、また向こう岸で天の父の御心を行うはっきりとした目的をお持ちです。

主イエスは全能の神ですので湖の向こう岸の状況をご存じですが、普通の人間である弟子たちや私たちにはその目的は分かりません。現代の私たちも湖の向こう岸のようなところへ導かれることがあります。それは物理的に湖や海の向こう岸のような海外である場合もあるかも知れません。

または日本の国内で例え場所は変わらなくても、湖の向こう岸のような未知の新しい状況に導かれることもあります。それは若い人であれば、進学、就職、結婚等によるものかも知れません。年齢を重ねて行きますと、親の介護、隠退、闘病等によるものかも知れません。

茂原キリスト教会も色々な変化の中で、向こう岸のような新しいところに向かって導かれている感じがします。私たち人間には、湖の向こう岸に向かう途中に、そして向こう岸に何があり、それがどうなるのか分かりません。そのために新しいことに対する期待と共に不安もあるかも知れません。

このときの弟子たちは45節でガリラヤ湖の北東にあるベトサイダに向かったのですが、逆風で流されて北西のゲネサレトの地に着きました。もしかすると私たちも逆風に流されて初めの目的地とは違うところに辿り着くようなことがあるかも知れません。

ところで4:35から主イエスの色々な奇跡の御業が語られて来ました。主イエスは私たちが湖を渡るようなときに、突風が吹いていても静めることがお出来になります(4:39)。また逆風のときに、湖の上を歩いて私たちの元に来て、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言ってくださるお方です(6:50)。

このときの弟子たちの中にはガリラヤ湖の元漁師たちがいますので、湖の向こう側の土地自体は大体どんなところかを知っているかも知れません。しかしそこでこれからどのようなことが起きるのかは分かりません。
しかし主イエスは、悪霊を追い出し(5:13)、12年間出血の止まらない女を救い(5:29)、ヤイロの娘を生き返らせ(5:42)、五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させられるお方です(6:42)。主イエスはこのようなことを含めて、何でもお出来になられる方であることを覚えていたいと思います。

これらのすべての御業を直接に見て、立ち会って来たにも関わらず弟子たちは、五千人の給食が自分たちの手を通して行われたために、驕り高ぶり、心がかたくなになってしまいました。

2、人々の働き
ゲネサレトの人々は、舟で着いたのは主イエスの一行と知りました。ゲネサレトという地名は、「王子の庭」という意味と考えられ、名前の通りに肥沃な豊かな地で、今でも豊かな農産物が取れます。主イエスはいろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし(1:34)、その名は知れ渡っていました(14節)。

「人々は主イエスと知って」とありますが、主イエスが救い主であることを知っている訳ではないと思われます。ただいろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やしていることを知っています。この当時の医療はまだ発達していませんので、癒しは切実な願いです。しかし癒しが切実な願いであることは現代においても同じで、これはこの先も変わることはないと思われます。

私の高校時代の二年と三年の担任の先生は英語の先生で、英語の授業で何度も繰り返し言っていた言葉を思い出しました。それは、「動詞が無ければ、どうしようもない」というどうしようもない駄洒落です。意味は文章では動詞が大切であるということです。英語でも日本語でも文章の意味を掴むには動詞に注目すると良く分かります。

人々は第一に、主イエスと「知りました」。まずは何でも知ることが大切です。ただ知ったとしても、何もしなければ何も変わりません。人々は第二に、その地方全体を「走り回りました」。その地方全体を走り回ったということは、自分が知ったことを自分だけで留めるのではなく、その地方全体に知らせるということです。

人々は第三に、病人を床に「載せました」。走り回って知らせたから、後は自己判断でどうぞというのではありません。むしろ、走り回ったのは、知らせるためというよりも、床に載せるためです。とても面倒見の良い人々です。人々は第四に、どこでも主イエスがおられると聞いた場所へ「運び始めました」。

ここまででも十分な働きのように思えますが、ここで終わりません。第五に、主イエスが入って行かれると、人々は病人を広場に「寝かせました」。これで段取りは整いました。そして最後の第六に、せめて、衣の裾にでも触れさせてほしいと「願いました」。本当は主イエスに触れたいところですが、病人が触れると汚れると考えられていたので、せめて、裾にでもと考えたようです。

人々の働きを動詞から見ますと、知る、走り回る、載せる、運び始める、寝かせる、願う、です。人々は六つのことを行いましたが、ユダヤにおいて「6」という数字は、完全、完成を意味する「7」より一つ足りない数字です。しかし私たち人間ができることは6までのことです。

もしろ6までのことを正しく行い整えることが人間に与えられた役割と言えます。人々の働きによって整えられて、主イエスの衣の裾に触れた者は皆、第七として「癒されました」。主のお働きによって、完全なものとなり、癒されます。

これは現代の伝道でもそのまま当てはまることです。まず自分が主イエスを知ります。知るのは正確であればそれに越したことはありません。しかし、このときの人々のように良くは知らなくても、癒すことの出来る不思議な力のある方であるというだけで初めは十分かも知れません。

主イエスを救い主と知らない人々が、その地方全体を走り回って主イエスに頼る働きを担いました。これは先週の、逆風の中を一晩中、心をかたくなにして自分の力だけを頼って舟を漕ぎ続けていた弟子たちの姿と対照的です。弟子たちは散々、これまで主イエスの奇跡を自分の目で見て来ていながら自分の力を頼りました。

しかしゲネサレトの人々は、主イエスのことは良くは知りませんが、素直にただ主イエスを頼って、その地方全体を走り回り、病人を主イエスのおられる場所に運びました。とても対照的です。

この後の7:1からは、またファリサイ派と律法学者が主イエスに言い掛かりを付ける記事です。聖書のことや主イエスを良く知っているはずの人たちが心をかたくなにしたり、言い掛かりを付ける一方で、聖書や主イエスを良く知らない人たちが主イエスを頼るというのは逆説的です。

しかし教会でも、初めて教会に来て神のことを良く知らない人の方が、神に対してとても畏れ多く、敬うような姿勢であることがあります。私たちも主イエスを知るなら、走り回って人々を教会に運び、救われるように願う者でありたいと思います。

3、永遠の命
現代でも、もしどのような病気でも癒せるという人がいたら世界中から人が集まって来ると思います。本当に癒せるなら、地球の裏側の世界で一番遠い所でも、多額の費用と労力を掛けてでも行くことでしょう。お金持ちならプライベートジェットで飛んで行くかも知れません。

このときのゲネサレトの病人たちも同じ気持ちであったことでしょう。しかしこのときに、例えどんな病気を癒やしてもらったとしても、数十年後にはこの世の死は必ずやって来ます。この世の病気にはとても関心を持っていて、癒しのためにはどんな犠牲をも厭わず何でもするという人はいます。
しかし必ず終わりが来るこの世のことだけで良いのでしょうか。聖書は明らかにこの世の終わりが終わりではなく、その後に続く世界があり、主イエスを信じる者は永遠の命を得ることをはっきりと語っています。そして教会に通っている人はそのことを知っています。

その、「知っている」というのは人によって違いはあるとは思います。同じクリスチャンでも、ある人は天国があり永遠の命があることを確信していて、ある人は聖書はそうは言っていますが、正直なところ余りピンと来ておらず良く分からないという人もいるかも知れません。

人によって確信が与えられるときが違うこともありますので、気にする必要はないと思います。私も正直なところ、信徒の時には余り良く分からず、天国があっても無くても余り自分には関係が無いと思っていた時期もあります。

しかし主イエスが救い主であり、永遠の命を与えてくださる方であることが分かって来たなら、そのことを自分だけで留めないでいただきたいと思います。このときのゲネサレトの人々のように走り回って人を救いのために教会に運び始めていただきたいと願います。これも無理をする必要は無いと思います。

そのような思いを与えられるときが人それぞれに来ると思います。宗教は自分が信じるのは良いけれど、他の人に勧めるのはどうも気が引けると感じる方もおられるかも知れません。しかしこのときのゲネサレトの人々がそうであったように、それが相手のために良いものであると信じるなら動かずにはいられなくなります。

そうであっても相手に対する心遣いや配慮は必要です。伝道におきましても、五千人の給食の奇跡のように、主は私たちの手を用いられます、が、御業を行われるのは主ご自身です。主は五千人を五つのパンと二匹の魚で満腹させられ、湖の上を歩かれ、また私たちをも湖の上を歩かせることの出来るお方です。

そのことを私たちがまず良く知って救われ、ゲネサレトの人々のように素直に、主イエスの伝道の働きに加わる者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ゲネサレトの人々は主イエスのことを良くは知らなかったと思いますが、癒しの力を信じて頼りました。そして、その地方全体を走り回り、運ばれた病人は主イエスによって癒されました。

主イエスのことがすべては分からなくても、聖霊の導きによって、その不思議な力を頼って、救われる人を起こしてください。そして救いに与った人たちは、聖霊に満たされ、喜びに溢れて、主イエスの伝道の業に与らせてください。主イエス・キリストの御名に、よってお祈りいたします。アーメン。