<真の幸いとは何か>

2025年6月22日 礼拝式説教  
マタイ福音書5章1~12節         福音シオン柏キリスト教会  志津吉明牧師

これらの聖句は「真福八端」とカトリック教会では呼ばれている。
本当の幸福とは何であるか?を示している8つの聖句という意味である。

この部分のギリシャ語原文には、明確な共通構造がある。
「幸いである~な者は。 なぜなら~だからである」という構文で出来ている。
つまり、「どういう人が幸せなのかという対象者、なぜ幸いなのかという理由」

最初に、この御言葉を聞いて、違和感を覚えなかったでしょうか?
なぜなら、私たちが常識的に思っている「幸福」と大きく違っているから。
「商売繁盛」「無病息災」「家内安全」「子孫繁栄」などの要素は皆無であって、
むしろ、常識的な価値観からすると、「不幸」としか思えないようなことを「さいわい」であると言っているようにも思える。

前半: 心の貧しい者、悲しんでいる者、柔和な者、義に飢えかわく者
後半: 憐れみ深い者、心の清い者、平和を作り出す者、義のために迫害される者
というふうに、どういう人が幸いであると言えるかが記されている。

 もちろん、神様は私たちに対して「幸せ」になってほしい、祝福を与えたい、と願っているはずであって、私たちが「不幸」になることを望まれてはいない。

 しかし、大事なことは、私たちが思っている「幸い」の中身と、神様が私たちに与えようとされている「幸い」=御国における幸福、は同じではない。往々にして、この世の基準、この世で言われている幸福観とは食い違っている。

 私たちが通常この世において思っている幸福のことを「世的な幸せ」と名付けよう。
それに対して、神様が与えようとされている幸福、山上の垂訓で語られている「幸せ」とは「霊的な幸福」、「神の国で享受できる幸福」と言ってもいい。(聖書的幸福論)

【例】 両者を比較するならば、「満腹」と「健康」の関係にも似ている。満腹=健康とは言えない。満腹ではないが、至って健康である、ということがある。「世的な幸福」には満たされておらずとも「霊的な幸福」の状態に置かれている、ということがありえるということを想定して、これらの聖句を読む必要がある。

その状態にある時、目には見えないけれども、私たちの霊は満たされており、霊的な幸福にあずかっている。現世では、目で見て手で触れるようにしては確かめられないが、御国に行った日には、それが何よりも明らかで確かなものだと分かるもの。
そのような性質のものを「霊的な幸福」と呼んでいるのではないだろうか。


<「心の貧しい者」とは>

しかし、それにしても3節の最初で首をかしげたくなる。
なぜ「心が貧しい人」が幸いなのか? 日本語で「心が豊かな人」はほめ言葉だが
「心が貧しい」となると、何か卑しい品性の持ち主のようなイメージがする。

【例】 マンションに引越してきて、隣のベランダを見てみたら、綺麗に花が飾ってあって、風鈴が軒先に掛かっている。風鈴には自作の俳句の短冊が付いている。なんという「心の豊かな人」だろうと。もう一方の部屋を見ると、ゴミ袋が所狭しと散乱している ⇒ 心の貧しい人だと、そのように日本語ではイメージしやすい。

聖書が言っている「心が貧しい」とはそういう意味ではない。
謙遜な者、自分のうちに誇るものを一切持たない者、ということである。

その反対なのは、自分はこれだけ立派だ、自分はこんなに倫理的・道徳的に正しく優れている、という「自分の義」を主張する人。このタイプの当時の代表格がパリサイ派や律法学者たちだった。

「心の貧しい」の 「貧しい」という原語は 「乞食」とほぼ同じ言葉である。
とすれば、これは、私たちに対して「霊的な乞食」になるようにという薦めでもある。

乞食は、誰かに恵んでもらわないと、誰かに頼らないと生きていけない。
神様に対して、そのように「恵みを受ける」関係に立つことを意味している。

パリサイ派のように、自分がこれだけ立派にやっている。自分は生まれながらこんなにも正しい人間だ、こんな善い行いをやっているではないか、と自分の正しさ・善さを主張しているうちは「神様無し」で間に合っている。恵みを素直に受ける状態にはない。
例えば、マルコ5章には「長血の病」を患った女が登場して、
信仰をもって、イエスの衣のふさに触れて癒された記事があった。
「信仰の本質」とは、この女性の空の手のように「何も自分の内に誇るものをもたず、
ただ神の恵みに信頼する乞食の手」である。(byルター)

「心の貧しい者」であれ、と言って求められているのは、
この「空の手」「乞食の手」で示されるような神様への向き合い方であり、

砕かれた心、霊的な謙遜を意味する。

<「持たざる者」から「満たされた者」への転換>

3節~6節の「真福八端」の前半4つは、「霊的な謙遜」を共通のテーマとしている。

「心の貧しい者」は、自分の内に善さや正しさがある、と思わない人である。
「悲しんでいる人」は、自分がそうした義ではない者、
神様の御前にとうてい正しいとは言えないような罪深い者であることを悲しんでいる者である。
そういう人は、「自分が正しい、自分は間違っていない」といったような頑なさや自己主張をできないから、他者に対しても「柔和」にならざるを得ない。

私たちが、なかなか柔和になれず、他人を批判したり裁いたりしてトラブルを起すのはなぜか?
それは、自分は正しくて、あの人は間違っている、という頑な自己認識を持っているからである。
自分があの人よりも「正しい」と思っているからである。
一方で、自分がいかに霊的に貧しく、神の前に罪深い者に過ぎないかを自覚すればするほど、
人は「柔和」になっていかざるを得なくなる。

私たちの内には、神様に認めて「正しい」(義である)と言って頂けるような「善性」は何もない。
魂の奥深くまで浸食している「罪の性質」があるだけである。私たちの内から自然と生じてくる思いは、自己愛に根差す思いと動機に歪められている。それが罪の性質の影響と言える。
それゆえに、神様が着せてくださる「義」、与えて下さる義、を切に待ち望むようになる。

このように見ると、この八端の前半4つの句では、
私たちが、神の御前に霊的に謙遜なもの(足りなさ、欠落を自覚した者)となって、神様が与えてくださる義と恵みを「受け取れる状態」になっていく、という「謙遜さ・悔い改め」に裏打ちされた「恵みを受け取る受動性」こそが実は大きなテーマとなっていることが分かる。
4つの句で描かれる人の姿は、自分の内に何も善い要素を持っていない姿である。

「悔い改め」とは、自己自身への絶望である。
「霊的な無力さ」の自覚を徹底し、謙遜になればなるほどに、罪深さに対する悲しみが主の恵みによって慰められ、柔和になった者は天の御国の住人とされ、神の義に飢え渇く者は、キリストの義を受け取ることになる。
そのようにして、主の恵みを正しく受け取るためには、先立って私たちがまず虚しく「空の手」「乞食の手」とならなくてはならない。

「義に飢え渇いている人」が求めている「義」とは、
私たちが失ってしまった神様との正しい関係、親子の親しい交わりであり、
また、罪によって損なわれてしまった「神の像」(神のかたち)でもある。
それらを切に求めるようになった者には、神様がそれらを与えて下さる。

8つの聖句は、前半と後半に分けることができる。
前半の4つ/後半の4つ。一番低いところは「心の貧しさ」から始まる。
「何も善を持っていない」というネガティブさ、「欠落」というマイナス要素が強調されている。

しかし、後半になると、神の恵みによって「霊的に満たされた結果」として
「憐れみ深い者」、「心の清い者」へと変えられた姿(善に充満する姿)が描かれていく。
前半4つの「欠落」から、後半4つは「充満」されていく、という変化が描かれている。

初代教会(古代の東方教父たち)では、この真福八端の聖句を
(ウェスレーの聖書注解・講解説教によると)天の御国へ至る「8つの階段」であると考えていたらしい。
すなわち、神の国にいざなわれた者がどのように変えられていくか、どのように恵みに満たされて、魂が内部から作り変えられていくのか、を示している聖句であると、ウェスレーは考えている。
(参照:ウェスレー説教集「主の山上の説教1~12」の講解説教)


<「魂を内側から創り変える神の愛」 ~理性ではなく情念を変革する>

後半4つは、空っぽの魂が「恵みによって満たされて変えられていく」
「満たされて歩む積極的な様子」「豊かにされ充満している姿」が描かれている。

 ただし、注意すべき点は、これらの内的変化というものは、私たち人間が必死に頑張って自助努力だけで達成できる課題ではないということ。
 なぜならば、私たち人間は、自分でいくら奮闘したとことで自分自身の魂を1ミリも聖くすることなどできないからである。人間は自身の「罪の性質」に対しては無力である。ということは、解決策は私たち自身の内にはない。

私たちの外部から、聖霊なる神様が、わたしたちの心の中にまで来て下さって、
心の内から働いて下さって、少しずつ私たちの心を作り変えてくださる。
ウェスレーはこうした「内的な魂の変化」、心の中の思いや情念レベルでの刷新・革命・作り変えを
「聖化」と呼んでいる。(新生、再生なども同様の内容を指す用語である)

「聖化」のプロセスは、単に「〇〇が善であることが分かる」とか「善いことをしようと意志しようとする」とう「理性や意思」のレベルではないもっと奥深い変化である。
理性・意志よりも、もっと心の奥深いところで、すなわち情念が生み出される次元にまで、聖霊は働きかけている。
 ウェスレーは言う。聖書が説くのは「頭の宗教」「概念の宗教」ではない。それは「心の宗教」「情念の次元から変革する宗教」である。人間自身にはどうにもできない心の奥底の情念の次元から、私たちが気が付かないうちに内的に大きな変化を生じてくる。

私たちの心の中から、怒りや憎しみや妬みといったネガティブな情念を追い出して、
神への愛と感謝、という「聖い動機」(情感)で絶えず心を満たして下さる。
神様の愛が注がれたことによって、私たちの心の最も奥深いところ=情念が沸き起こる「心の最下層」から大きく変えられていく。そして、その変化については、私たち自身にも経験(直知)できる。

このようにして、神の愛が注がれていること、そして、聖霊が内的に働いて下さって実際に想像もしない変化が及ぼされることを、私たち自身の心を通して、ある意味では「直接的に経験する」(直覚する)ことができる、とウェスレーは言う。(こうした考え方をメソジストの「確証の教理」という)

神様の下さろうとしている「まことの幸い」(霊的な幸福、魂の再生)にあずかることができるように、願わくば、私たちも「心の貧しい者」となって、十字架の恩恵をしっかりと受け取りましょう。
ご臨在なさる聖霊によって、魂の内的な変化が私たちの内にも起こされますように、切に祈り求めて参りましょう。(祈)