「主イエスにつまずく」

2026年3月29日 礼拝式説教  
マルコによる福音書14章26~31節
        
主の御名を賛美します。

1、 つまずきの預言
主イエスは前の段落の主の晩餐の中で聖餐を制定され、22、24節でご自分の十字架を再び預言されました。このときは受難週の木曜日と考えられていますので、今年のカレンダーですと今週の木曜日の4月2日です。翌日の金曜日に十字架につかれますので余命は1日で、主イエスはそのことをご存じです。

私たちは自分の余命が後1日であると知ったら何をするでしょうか。主イエスは賛美の歌を歌われ、32節からは祈られます。これは形式的なことではありません。賛美し、祈り、神と交わり、この世の終わりまで神の御心に沿って歩まれます。

このときに歌った賛美は過越の時に歌う詩編115~118編と考えられています。その後にオリーブ山へ出かけました。オリーブ山はエルサレムの東側にある山です。一同は過越の食事をエルサレムでしましたが、エルサレムの宿は過越しの祭りの巡礼者で一杯であることもあり、オリーブ山へ出かけたと思われます。

そのときに主イエスは弟子たちに預言をされます。それは、「あなたがたは皆、私につまずく」というものです。原語では、「つまずく」が受動態ですので、厳密には「つまずかされる」ということです。弟子たちはどのようにしてつまずかされるのでしょうか。

「私は羊飼いを打つ」はゼカリヤ書13:7の引用です。羊は弱い動物で羊飼いに守られて、導かれています。導く役目の羊飼いが打たれてしまうと羊はバラバラになってしまいます。「つまずく」の原語は「スカンダリゾー」という「スキャンダル」の元になった言葉で、「(罪、不信仰に)誘われる」という意味があります。

つまずくことは、罪、不信仰に誘われることです。弟子たちは群衆と同じように、主イエスが奇跡を行われる全能の力を持ってローマの支配からユダヤを解放すると期待しています。それでヤコブとヨハネは、主イエスが栄光をお受けになるとき、一人を主イエスの右に、一人を左に座らせてくださいと願いました(10:37)。

その主イエスが捕らえられて、十字架につけられることは弟子たちにとって大きなつまずきです。こんなはずではなかったと思うことでしょう。ゼカリヤ書13:7の続きは、「すると、羊の群れは散らされる」とあります。

羊飼いである主イエスが打たれると、羊である弟子たちはつまずいて、罪、不信仰に誘われて、散らされてしまいます。これは勿論好ましい事ではありませんが、神の預言ですので必ず成就します。しかしなぜ皆をつまずかせるのでしょうか。

2、復活
羊飼いが打たれて、羊は散らされた後はどうなるのでしょうか。良い羊飼いである主イエスは、羊は羊飼いがいないと弱ってしまうことを良くご存知です。マタイ9:36に、「群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とあります。

主イエスは羊飼いのいない羊を憐れまれ、そのままにはされません。主イエスはこれまでに受難と復活について弟子たちに4回預言されています(8:31、9:9、31、10:34)。ここでもはっきりと復活を約束されます。そしてあなたがたである弟子たちより先にガリラヤに行くと言われます。 

ガリラヤはこれまでの宣教の中心地、また多くの弟子たちの故郷であり、主イエスは十字架につまずくことになる弟子たちがガリラヤに帰ることをご存じです。これは主イエスが先にガリラヤに行かれますが、弟子たちも後からガリラヤに行って再び会う約束です。

羊飼いが打たれ羊が散らされるという苦難はありますが、苦難で終わるのではなく、復活と再会の希望を伝えて弟子たちを励まします。復活と再会の希望は私たちへの励ましの言葉でもあります。

3、ペテロの否認
弟子たちは主イエスの預言をどのような思いで聞いていたでしょうか。リーダー格のペトロが、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません」と言います。この「つまずき」も受動態ですので、「私はつまずかされません」の意味です。一見すると格好の良い言葉です。

これはこの時のペトロの正直な気持ちではあると思いますし、ペトロの気持ちも分かります。主イエスの預言の通りに、他の皆はつまずかされるかも知れません。しかし自分だけはそのようなことは決してないという思いです。

しかしペトロは自分の言っていることを理解しているでしょうか。神である主イエスは、羊飼いである主イエスが打たれ、羊である弟子は散らされ、つまずくと預言されます。つまずく羊の中にはペトロも含まれます。それに対してペトロは、「私はつまずかされません」と言います。

神である主イエスが弟子たちは散らされると預言されているのに対して、自分はつまずかされませんと言うことは、主イエスの預言は間違っているということです。ペトロがそこまで意識しているかは分かりませんが、言っていることは、神である主イエスは間違っていて、人間である自分の方が正しいということです。冷静に考えますと恐ろしい傲慢です。

4、否認の預言
ペトロの言葉に対して主イエスは大切なことを言われるときに良く使われる、「よく言っておく」と言われてからペトロについての預言をされます。それは、「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」というものです。一度だけなら口が滑ることもあるかも知れませんが、三度言うとしたら確信犯です。

ペトロは主イエスのこの預言をどのような気持ちで聞いたでしょうか。この方は何を言われているのだろうという思いでしょう。「私はつまずきません」と言っているのに、日も変わらない今夜の内に、「主イエスを知らない」と言う? しかも三度もですって? 私のことを一体どんな人間だと思っているのかという気持ちで一杯だったことでしょう。

そこでペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言い張ります。他の皆の者も同じように言います。ペトロや他の者の自分に対する自信はどこから来ているのでしょうか。

神である主イエスがご自身が打たれて弟子たちは散らされると預言されているのに、皆は自分だけはそのようなことはないと主張します。ペトロは神である主イエスの預言よりも自分の考えを優先しています。神である主イエスの言われることよりも自分の考えの方が正しいと言います。

これはペトロだけのことではありません。他の弟子たちも同じです。そしてこれはこのときの弟子たちだけの問題ではありません。これは現代を生きる私たちの問題でもあります。私たちもこの聖書個所を読むときに、ペトロは何をしているのだろう、傲慢だなと思ったりします。私たちはどこかで、他の人のことは簡単に批判してしまいがちです。米国のトランプも一体何をやっているのかと言ってしまいます。

5、原罪
これらの問題の根本の原因は何でしょうか。それは私たち人間の初めの先祖であるアダムとエバが、神が食べてはいけないと言われた「善悪の知識の木の実」を創世記3:6で食べたことによります。善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムとエバは、神の基準ではなくて自分の考えで善と悪を考えるようになりました。

人はそれぞれが自分の考えで善悪を決めますので、人によって善悪の考えは違います。そして他の人が自分の考えと違うときには、自分が正しくて他の人は間違っていると考えます。これは原罪と言いますが、原罪は過去だけの問題ではありません。

ペトロは12弟子のリーダー格の存在ですが、原罪によって主イエスの言われることよりも、自分の考えが正しいと主張します。この私たちが持つ原罪の赦しのためにも主イエスは十字架につかれます。

6、御心を知る
私たちも同じ間違いを犯してしまいます。しかし私たちは自分の考えを主張するのではなくて、神の御心を正しく知る必要があります。神の御心を知るために大切なことが三つあります。一つ目は、私たちが自分が置かれる状況を正しく理解することです。

今日の聖書の場面では、これから羊飼いである主イエスが打たれて、羊である弟子たちが散らされます。そのような状況で、そのようなことは有り得ない、私はつまずかされないというのは状況を正しく理解していません。38節bの、「心ははやっても、肉体は弱い」という人間の弱さを正しく知る必要があります。

二つ目は、聖書のすべての内容を自分に宛てられたものとして真摯に受け止めることです。聖書の御言葉はすべての人に宛てられた神からの手紙です。この箇所は私には関係ないとか、他の人はつまずかされても、私はつまずかされないということはありません。

三つ目は、この聖書箇所は私には理解出来ない、納得出来ないからといって自分の考えを優先しないことです。自分の考えを優先するのではなく、神の御言葉がすべてです。神の御言葉を理解、納得するのは難しい所もあるかも知れません。

しかし自分には例え分からなくても神の御言葉は自分の考えより正しいと謙虚に受け止めることが大切です。神の御言葉よりも自分の考えを優先してしまうとペトロのように独りよがりの間違った方向へ進んでしまいます。

7、金・銀の精錬
ペトロと弟子たちはなぜつまずかされる必要があるのでしょうか。ペトロと弟子たちのように、主イエスの御言葉よりも自分たちの方が正しいと考えることは12使徒として相応しくありません。ゼカリヤ書13:7(P1470)の続きの8、9節を読みましょう。
すべての地の三分の二は死に絶え、三分の一はそこに残される。しかし残される三分の一も、そのままで良いのではなくて、火の中に入れられて、銀を精錬するように精錬し、金を吟味するように吟味されます。金、銀は火の中に入れられて精錬されることによって不純物が取り除かれて純化されます。火は聖霊の象徴と考えられます。

直接の文章としてはすべての地の三分の二が死に絶えると読めます。しかしこの文章をすべて自分のこととして読むならば、すべての人は、自分の中の思いの三分の二は死に絶え、三分の一の思いは残されます。しかしその三分の一の思いも火の中に入れられると読めます。

実際、鉱石に含まれる金は、1トンに対して数十グラム程度で、殆どは不純物です。同じように私たちの心の中にある思いは殆ど自分の考えです。このときのペトロと弟子たちは自分の力と思いで、つまずかない、主イエスを知らないとは言わないと思っていました。

しかし数時間後に、いざ主イエスが捕らえられると、弟子たちは皆、逃げてしまいます(50節)。ペトロと他の弟子たちは自分の考えと力だけでは生きていけないことを、主イエスの十字架という苦難の精錬を通して学ぶ必要がありました。これは私たちも同じです。

不純物が多いと特に念入りに火の精錬を行う必要があります。ペトロはこれから大伝道者として用いられますので、特に念入りに精錬する必要があったのでしょう。これは四重の福音の聖化のプロセスと言えます。

私たちは火による精錬によって、自分の考えに拘るという不純物を取り除いていただく必要があります。これはこの世にあっては、これで精錬は終了ということはありません。何度も繰り返し精錬されて行きます。神は私たちを天国に相応しい者として精錬されます。

そして精錬される人々を主は「彼はわが民」と言い、精錬される人々は「主はわが神」と告白します。私たちもこの世にあっては色々な精錬を通って行くかも知れません。しかし主イエスは、復活の力を私たちに与え、「あなたがたより先にガリラヤに行く」と再会を約束してくださっていますから感謝です。

復活の主イエスに出会い、ペンテコステに降られる聖霊を受ける弟子たちは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と自分たちが言った言葉の通りに生きる者とされて殉教をすることになります。殉教を美化する訳ではありませんが、聖霊によって精錬される者は御心に従って生きる者とされます。

主イエスは、私たちをご自分の民である、わが民として、時につまずきを通して相応しく精錬されます。しかし復活の力が与えられ、再会も約束されていますので安心して信頼して従って行きましょう。

8、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちはペトロと同じように自分の思いで、このようにすると言いつつも、自分で言ったことを実行できずにつまずくものです。しかしそれは御心に適うことです。私たちがつまずきを通して、自分の無知、無力を知り、主により頼み、復活の力に与り御心に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。