「御心のままに」 

2026年4月12日 礼拝式説教 
マルコによる福音書14章32~42節
        
主の御名を賛美します。

1、 ゲッセマネ
先週はイースターでしたので聖書の少し先の内容でしたが、また戻ります。このときは受難週の木曜日が日没で終わり金曜日が始まった時と考えられます。前回の箇所で弟子たちは皆、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言いましたが、それに対して主イエスは何も言われません。

一同はゲッセマネという所に来ました。ゲッセマネはエルサレムの神殿の東側にあるオリーブの園です。ゲッセマネは「油しぼり」という意味ですが、それは元々ここでオリーブの油がしぼられていたためです。現在でも樹齢千年以上の古いオリーブの木があります。

主イエスは他の弟子たちは残して、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴なわれて祈りに行かれます。この三人はヤイロの娘の甦り(5:37)、変貌山(9:2)にも伴っています。主イエスが三人を伴なわれたのは、一つはこの時の証人とするためです。

律法によって証人は二人または三人(申命記19:15)必要だからです。しかしそれよりももっと大きな意味は今後三人が使徒の中心としての働きをするために大切なことを教えるためです。

2、目を覚まして
主イエスはひどく苦しみ悩み始められ、彼らに、「私は死ぬほど苦しい」と言われます。そして、「ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われます。「目を覚ましている」ことの大切さは13:33~37でも語られていましたが、ここでも38節でも繰り返されます。

「目を覚ましている」ことは肉体的に起きていることだけではなく、霊的に目を覚まして起きていることです。主にある働きをする時に大切なことは、喜びだけではなく、苦しみも悩みも、主とまた皆と共にするために目を覚ましていることです。

3、主イエスの苦しみ、この時、この杯
主イエスはさらにお一人だけで少し先に進んで地にひれ伏されました。ルカ22:41によりますと、「石を投げて届くほどの所に離れ」とあります。それでイエスの祈りの声が三人の弟子に聞こえていて、聖書に記されたと思われます。

主イエスは、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください」と言われます。ここで考えさせられますことは、主イエスが、ひどく苦しみ悩み始め(33節)、死ぬほどに苦しい(34節)と言われる、その苦しみはどのようなものでしょうか。

また、「できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるように」と祈られる、「この時」とは何の時でしょうか。そして、「この杯を私から取りのけてください」と言われる、「この杯」とは何のことなのでしょうか。苦しみの原因、この時、この杯は同じものを指していると思われます。三つのことが考えられます。

主イエスは24節で、この杯は多くの人のために流される、私の契約の血であると言われます。そのことから、苦しみの原因、この時、この杯の一つ目は、十字架の死そのものと考えられます。しかし主イエスはこれまでにご自身の口によって、宗教権威者たちの手によってご自分は殺されると5回預言されてきました。

それでも、できることなら取りのけてもらえることを望まれるのでしょうか。それ程に十字架刑は恐ろしいということです。十字架刑はすべての人類の罪を一手に背負われて呪いを受けるものです。それは神である主イエスにとられても十字架刑は簡単なものではありません。簡単なことであればすべての人の罪の赦しにはなりません。

苦しみの原因、この時、この杯の二つ目は、十字架刑の苦しみそのものよりも、いつも親しく、「わが父よ」と呼ばれる父なる神との交わりが断たれる苦しみと考えられます。それは幼子が親から引き離されるような苦しみでしょうか。

天の父なる神と主イエスと聖霊は三位一体の神ですから、主イエスが父なる神と切り離されることは、一つの身体が切り裂かれるような痛みでしょう。主イエスは天の父との交わりを断たれることが、どれほど大きな苦しみであり、悲惨なことであるかをご存知です。だからこそ、天の父との交わりが断たれている人間を悲惨な状況から救い出すために杯を飲まれます。

苦しみの原因、この時、この杯の、二つのことは注解書や説教集等にも書かれています。しかし、主イエスはご自分の苦しみのためだけに、弟子たちに、「私は死ぬほど苦しい」と言われたり、父なる神に、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈られ、「この杯を私から取りのけてください」とはたして言われるのだろうかと考えさせられます。

この記事は、前の段落のペトロと弟子たちのつまずきの預言と次の段落のユダの裏切りの記事に挟まれています。並行記事のマタイとルカによる福音書でも同じです。それは三つの記事の繋がりに大切な意味があるからと考えられます。

主イエスの本当の苦しみはご自身の十字架よりも、それによる弟子たちのつまずきとユダの裏切りに続く死の方が大きいのではないでしょうか。苦しみの原因、この時、この杯の三つ目は弟子たちのつまずきです。

ペトロはおっちょこちょいなところはありますが、主イエスは真っ直ぐで正直なペトロが可愛いくて仕方が無いのだと思います。その真っ直ぐなペトロが、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言ったのに、実行できずにつまずいてしまう時に、主イエスは一緒におられなくなります。

主イエスにとっては弟子たちの苦しみの方がご自身の苦しみよりも大きな苦しみだと思います。それはユダの死であってもです。主イエスにとって約3年を共に過ごしたユダがご自分を裏切り、それによって命を落としてしまうことは大きな苦しみです。主イエスの父なる神への訴えは、特にこの記事の直後に裏切るユダのための執り成しの祈りのように思えます。

私たちも自分自身の苦しみよりも自分の愛する者の苦しみの方が大きいものです。自分の苦しみも大変ですが、それよりも愛する者の苦しみは自分ではどうすることもできず、代わってあげることもできず、本当に大きな苦しみです。
主イエスは自分よりも弟子たちのことを思って苦しみ、できることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと父なる神に祈られ、「この杯を私から取りのけてください」と言われたのではないでしょうか。主イエスはご自身の思いをそのまま父なる神にお伝えになられます。

ただ最終的には、「しかし、私の望みではなく、御心のままに」と御心を優先されます。それは主イエスが「主の祈り」の中で、「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りなさいと教えられたとおりです。祈りは自分の思いを正直に言いますが、神との交わりの中で聖霊に導かれて最終的には、「御心のままに」と祈らせていただきたいと願います。

4、眠る弟子たち
主イエスが祈りから戻って御覧になると、弟子たちは眠っていました。そこで主イエスはペトロに初めに、「シモン、眠っているのか。一時も目を覚ましていられなかったのか」と言われます。「シモン」という呼び掛けは、今や主イエスが名付けられたペトロ(岩)ではなく、元の名前です。

目を覚まして祈ることは、主イエスと同じ一つの思いへと導かれるためでもあります。主イエスは祈りの中で、初めはこの杯を私から取りのけてくださいと言われます。しかしその後には、ご自分の願いではなく、御心のままにと言われます。

目を覚まして共に祈ることは、離れた所で祈るとしても、聖霊の導きによって同じ一つの思いへと導かれることを願うものです。主イエスは弟子たちも祈ることによってご自分と同じ思いへと導かれることを願っておられたのでしょう。

次に、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われます。誘惑に陥らない秘訣は、霊的に目を覚まして祈っていることです。それは逆に言いますと、霊的に目を覚まして祈っていないと、誘惑に陥るということです。霊的に寝ていて祈らないのでは霊の戦いに勝てません。

ただ弟子たちを弁護するとすれば、この時は過越の食事をして満腹で、更に葡萄酒も飲んでいますので眠ってしまったのだろうと思います。しかし、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言っていたのに、眠気にすら勝てない者が死の恐怖に勝つことができるでしょうか。

心ははやっても、肉体は弱いものです。これはこの時の弟子たちの状態を指しますが、それは、私たちを指す言葉でもあります。私たちも自分の弱さを良く知って、祈りによって誘惑に陥らないようにする必要があります。

5、二度、三度の祈り
主イエスはさらに、向こうへ行って、同じ言葉で祈られました。なぜ二度、祈られるのでしょうか。一度目の祈りの、「この杯を私から取りのけてください」と「しかし、私の望みではなく、御心のままに」には内容的に開きがあります。

祈られながら、父なる神と対話をされ、御心を深くご確認されたのかも知れません。私たちも、「御心のままに」と祈りながらも、心の底から気持ちが付いて行かない時もあります。そのような時は繰り返し祈ることによって御心を悟り、自分の思いを御心に寄せていただき、御心を自分の思いとさせていただく必要があります。
杯である苦難はその意味も分からないままではただ苦しいだけです。私たちも人それぞれに与えられる飲まざるを得ない杯があると思います。その時に私たちも霊的に目を覚まして祈ることによって、その杯の苦難に隠されている御心を知ることが出来ることでしょう。

またその杯にある、それぞれの人に与えられる役割を知る事が出来るかもしれません。それによって苦しい杯に対して、同じ言葉で祈られても、前向きなお気持ちで祈られるようになられたのかもしれません。苦難の杯をただ苦しいだけのものとして飲むのは辛すぎます。

神の御子である主イエスでさえ、この杯を私から取りのけてください、と祈られました。しかし目を覚まして祈り続けることによって、御心をご自分の思いとされて行かれます。そしてご自身を最上の献げものとされるご準備を整えて行かれます。

私たちも自分を献げる必要があるのであれば、惜しむ心ではなく喜んで献げさせていただきたいと願います。同じものを献げてもいやいやながら献げられたものを神はお喜びにはなりません。

主イエスが再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていました。そして三度目も同じです。それでは主イエスの御思いと弟子たちの思いは離れて行ってしまいます。しかし人間が自分の力だけに頼って何かをしようとする時は同じようになります。主イエスは、「時が来た。立て、行こう」と言われて十字架を中心とする苦難の杯に前向きに進まれます。

6、御心のままに
聖書の登場人物を見ますと信仰深い人々は苦難の杯に対して前向きであると思わされます。主イエスの両親のヨセフとマリヤもそうです。婚約期間中に訳も分からず身重になることを受入れます。苦難の杯は目を覚まして祈ることによって、受け入れて自分を献げることに続きます。

そして、「私の望みではなく、御心のままに」と祈る者とされます。聖書はただ読むだけのものではありません。御言葉を自分自身で実行して体験して身に付けていくものです。主イエスは「立て、行こう」と言われて様々な苦難に前向きに進まれます。

この先には十字架の死の苦難もありますが、その後には復活があります。そして主イエスの十字架によって私たちの罪は赦されます。今年度は皆さんにとってどのようなことがあるでしょうか。皆さんの上に平安と祝福があるようにと祈ります。

また例えどのようなことがあっても、聖霊によって目を覚まして、共に祈って行きましょう。私たちにとって最善をなしてくださる神に信頼して、「御心のままに」と祈り歩ませて頂きましょう。

7、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。新しい年度が始まり、新しい環境での生活が始まった方もおられますが、どうぞお守り祝福してください。そしてすべての人に憐れみ深い御心をなしてください。苦難の道を通る必要があります時には、聖霊によって力をお与えお支えください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。