「聖書の言葉の実現」
2026年4月19日 礼拝式説教
マルコによる福音書14章43~52節
主の御名を賛美します。
1、 ユダ
前回の42節の終わりで主イエスが、「見よ、私を裏切る者が使づいて来た」と言われます。そして今日の箇所で、「そしてすぐ、主イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダが現れた」とあります。それで今日の箇所で話しておられたのは41、42節のことと思われますので時間的にも続きの話です。
祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来ました。松明や灯を手にしていましたので(ヨハネ18:3)、暗闇の中を近づいて来る姿が見えました。祭司長、長老たち自身もそこにいましたが(ルカ22:52)、彼らは群衆を遣わしました。
祭司長たちは主イエスが群衆に人気があるので群衆を恐れています(12:12)。そこで自分たち自身の手を下すのではなく、群衆の一部を唆して遣わします。悪を企む者は自分の手を汚すことなく、他の人を利用します。
ユダは主イエスの裏切りを既に企てています(10、11節)。その時にもお話しましたが、ユダがなぜ主イエスを裏切るのかを改めて考えさせられました。ユダは主イエスの12弟子の一人として真近で主イエスの全能の力を見て来ました。
主イエスは、奇跡を行う力で風も海も従わせ、死人をよみがえらされました。それで主イエスが望まれれば、多くのユダヤ人が望んでいるように、ローマの支配からユダヤを開放することもできます。ユダは元徴税人のマタイを差し置いて会計係になったほど優秀な人です。
ユダも主イエスがユダヤをローマの支配から解放することを他の弟子たちと同じように期待していたと思われます。しかし主イエスはこれまでに何度も弟子たちにご自分が殺されることを預言しています。この預言を12弟子の中で一人だけ一応は理解していると思われる者がいます。それはユダです。
他の弟子たちが感情的になって主イエスが死ぬはずはないし、ユダヤを解放してくれるのではないかと期待している時に、ユダは冷静に主イエスはそのようなことはされないと判断したと思われます。それは3節で、3百デナリオン以上の価値があると思われる高価なナルドの香油が主イエスに注がれて、軍資金となりえた物が無駄に思われるように使われたからです。
その直後にユダは裏切りを企てました。ユダとしては主イエスがローマに対する反乱を起こして失敗をするなら、それは仕方がないことと諦めがつくでしょう。しかし勝ち目はあるのに何も行動をせず、敵の成すがままに殺されることは受け入れらえません。そのために主イエスを裏切るようです。
ユダは主イエスの預言の前半部分の殺されることは理解したようですが、後半部分の三日目によみがえることの意味は理解できず、信じられません。神の言葉よりも自分の考えを優先することは間違いであり不幸を招くことになります。
ユダは、「私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れていけ」と、前もって合図を決めています。これは夜の暗い中なので、間違いなく一人を特定するために接吻を合図にしたようです。接吻は親愛の情を表すものとして男性同士でも行われます。
ユダは、やって来るとすぐに主イエスに近寄り、「先生」と言って接吻します。三年間、寝食を共にし、本来は親愛の情を表す接吻を裏切りの合図にするのは恨みが込められているように思われます。ユダも他の弟子たちと同じようにすべてを捨てて主イエスに従いました。
そこには自分の人生を献げる強い思いがあったことでしょう。しかし主イエスの下で自分も偉くなるというユダの自己中心的な期待は裏切られます。ユダの期待は自己中心的な自分勝手なものです。それでも人は自分の期待が裏切られると恨みに変わり易いものです。
二回目の接吻という言葉は、本来は愛情を込めた接吻という言葉です。それで腕を回して接吻をしたのかも知れませんが、それは主イエスを逃がさず、捕まえるためにそうしたと思われます。すると人々は、主イエスに手をかけて捕らえました。手は力を表しますので、力ずくで捕らえたということです。
2、ペトロ
それに対して、そばに立っていた者の一人が、剣を抜いて大祭司の僕に打ちかかり、片方の耳を切り落としました。この剣を抜いた者はヨハネ18:10にはシモン・ペトロと書かれています。しかしマルコが福音書を書いた時には、まだペトロの名前を出すと危険と考えて名前を伏せたと思われます。
ヨハネ18:10には詳しくペトロが大際司の僕マルコスの右の耳を切り落したとあります。そこから二つのことが考えられます。一つ目は弟子たちは剣を持っていることです。ルカ22:38によると二振りあります。彼らは色々なところに旅をし、場所によってはルカ10章の、「善いサマリヤ人」に出て来る追い剝ぎもいますので備えが必要です。
二つ目は、ペトロは恐らく僕の右の耳を狙った訳ではないと思われます。ペトロはガリラヤ湖の漁師でしたので剣は使い慣れていないでしょう。現代の犯罪でもそうですが、人は恨みを持つ相手に対しては顔を攻撃することが多いものです。顔はその人の存在を表すものだからです。「顔が利く」とか「顔に泥を塗られた」という言い方があります。
ペトロは僕とは初対面で個人的な恨みは無いでしょうが、主イエスを捕らえることは絶対に許せない思いでしょう。その怒りが僕の顔に向けられ、その剣が頭蓋骨に当たってずれて右耳が切り落ちたと考えられます。そこからペトロは恐らく左利きと思われます。右利きですと大抵、剣を右上から斜めに打ち下ろしますので左の耳が切り落ちると思われます。
ペトロの行動は、一見すると勇ましく見えるかも知れませんが、その行動が齎す結果を考えない危険なものです。相手は大勢で、ヨハネ18:3によると一隊の兵士もいますので勝ち目はありません。主イエスはルカ22:51によると僕の耳を癒やされてその場を収められました。
そのようにされなければ、ご自分の命だけではなく、ペトロやその他の弟子たちの命も危険にさらされたことでしょう。相手は剣や棒を持って力で攻めて来ました。それに対してペトロも剣によって力で対抗しました。剣はここではそれぞれの人の思いの象徴と言えます。
それぞれの人によって思いは違いますので、剣がぶつかり合って戦うことになります。ペトロの思いと行動は主イエスの思いと行動とずれています。それはペトロが前の段落で目を覚まして祈る時に眠っていたためでしょう。目を覚ましている時に眠ってしまうと、的外れな時に剣を抜いてしまいます。
3、聖書の言葉の実現
主イエスはペトロのように力による抵抗はされませんが、彼らの不条理はきちんと指摘されます。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった」と言われます。
それは自分たちが正しいことをしていると思うなら、どうして明るい太陽の光の下、公衆の面前で堂々と行わないのか。剣や棒は必要ないはずだ。なぜ暗闇に隠れて暴力に頼って行う必要があるのかということです。それは明らかに可笑しいことです。「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」と言われます。
そして弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。31節で、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」とペトロも他の弟子たちも言いましたが呆気ないものです。
しかしこのようなことは現代でも見られることです。自分たちを取り巻く状況が自分たちに有利に見えるときには、強気になって言いたい放題になります。しかし自分たちを取り巻く空気が変わって不利になると急に静かになり、自分は初めから関係無いように振る舞うことがあります。
更に、一人の若者が、素肌に亜麻布をまとって主イエスに付いて来ていましたが、人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまいました。この記事は福音書でマルコだけが書いていて、素肌に亜麻布をまとっていたことや、裸で逃げた等の細かいことが書かれています。そのようなことは本人しか分からないと思われ、マルコが自分のことを書いたのではないかと言われますが、正確には分かりません。
ここで、「これは聖書の言葉が実現するため」と言われますが、具体的に、「これは」は何を指して聖書の言葉の実現と言っておられるのでしょうか。この当時は新約聖書はまだ成立していませんので、聖書は旧約聖書を指します。
一つ目は、同じ49節の前半にあります、主イエスを捕らえることです。それは、27節の『』の前半の、「私は羊飼いを打つ」(ゼカリヤ13:7)の聖書の言葉の実現です。二つ目は、50、51節の弟子たちが皆、逃げてしまうことで、それも、27節の『』の後半の、「すると、羊は散らされる」(ゼカリヤ13:7)の聖書の言葉の実現です。
それらは一言で表現しますと、主イエスの受難と弟子たちのつまずきです。今日の聖書箇所だけですとそのような内容になります。しかし広い範囲で見ますと、主イエスの受難はイザヤ53:5bの、「彼(主イエス)が受けた懲らしめによって私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された」とあります人間の救いの実現のためです。
そして弟子たちを含めて人間がつまずくことは、27節の時にもお話しましたように、ゼカリヤ書の続きの13:9の、「私は三分の一を火の中に入れ銀を精錬するように精錬し金を吟味するように吟味する」という人間の精錬のためです。私たちは弟子たちのようなつまずきを通して、「心ははやってても、肉体は弱い」(38節)という人間の弱さを知り、神により頼むことを学びます。
全能の神は私たちすべての人間を造られたお方ですから、すべてをご存知で、預言者たちによって、人間に起こるすべてのことが聖書に書かれています。それはコヘレトの言葉1:9に、「すでにあったことはこれからもあり すでに行われたことはこれからも行われる。太陽の下、新しいことは何一つない」とある通りです。
私たち人間には限界がありますので、私たちには想像も及ばない、まさかということが起こることもあります。しかし聖書には人間のあらゆることが書かれていますので、祈り求めつつ注意深く読むなら、自分が聖書のどの場面と同じ、または似た状況にいるかが分かることでしょう。
そうしますと自分がこれから進んで行く先に何があるのかを聖書を通して知ることができます。これは聖書による預言と言えます。私たちは何をしても神の御手の中にあります。しかし問題は私たちは神にどのように用いられるかです。神は悪者をも用いられます。
主イエスを裏切るユダでさえも十字架による人間の罪の赦しの実現のために用いられます。私たちにある選択肢は、御言葉に従って生きて良い目的に用いられるか、裏切り者としてユダのように悪に用いられて滅びるかのどちらかです。
私たちの人生は自分の思いで生きて行くものでしょうか。主イエスは、ご自身も前回の36節の終わりで、「私の望みではなく、御心のままに」と祈られました。それは、「主の祈り」の中で「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈りなさいと教えられるとおりです。
御心について主イエスはマタイ4:4で、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言われます。御心は神の言葉である、聖書の言葉に従って生きて、聖書の言葉が実現することです。主イエスは、ご自分の思いの実現よりも聖書の言葉が実現することの大切さを身を持って教えてくださいました。
神は私たちの罪の赦しのために、ユダの裏切りを用いらざるを得ません。しかし愛である神は私たちが神の祝福を受けることを望んでおられます。そのためには私たちが聖書に書かれている良い御言葉に従って、御言葉を実現するために生きます。
そのために必要なことはすべて主イエスが十字架で実現してくださり、聖霊によって導いてくださいます。感謝して従わせていただきましょう。今年度も御言葉に従って、良い御言葉を実現する者として歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ユダは弟子の中で一番と言って良い程に優秀ですが、反って自分の考えに拘ってしまい溺れてしまいます。他の弟子たちは自分の身の危険を感じると逃げてしまいます。これらは私たちの誰もが持つ弱さです。私たちが自分の弱さを知り、聖霊の力をいただいて、主にあって聖書の言葉が実現するために強く生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
