「ユダヤ人の王」 

2026年5月10日 礼拝式説教 
マルコによる福音書15章1~15節
        
主の御名を賛美します。

1、 ユダヤ人の王
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと共に最高法院全体で協議します。14:64で主イエスの死刑を既に決議していますが、それは大祭司のところで行った非公式のものですので、ソロモンの廊にある最高法院の議場で正式に死刑を決議します。

そして主イエスを縛って連れ出します。縛って連れ出すことは、主イエスが凶悪犯であることをアピールするための演出でしょうか。そして総督であるピラトに引き渡します。総督官邸はヘロデの宮殿の中にあると思われます。ピラトはふだんはカイサリアに住んでいますが、過越しの祭りの時は治安維持のためにエルサレムに来ています。

最高法院は主イエスの死刑を決議しましたが、ローマの支配下にあるユダヤ人には死刑の権限はなく、支配者であるローマが権限を持っています。ピラトは祭司長たちからの報告に基づいて主イエスに、「お前はユダヤ人の王なのか」と質問します。

主イエスが祭司長たちに死刑と決議された理由は、14:61、62で、「お前はほむべき方の子、メシア(救い主)なのか」と問われて、「私がそれである」と答えられたからです。しかしローマの総督であるピラトはユダヤ人の宗教問題には関心がなく、取り扱いもしません。

祭司長たちはピラトが主イエスを死刑にするためには他の理由で訴える必要があります。、そこで、主イエスは自分は王だと名乗ってローマに反乱を企てている、反乱罪を犯してる政治犯だと訴えます。ピラトの尋問に対して主イエスは、「それは、あなたが言っていることだ」とお答えになります。

「それは、あなたが言っていることだ」という文章は否定的なニュアンスです。「それは、あなたが言っていることだが、事実は違う」という感じがします。しかし原語では、「あなたは言う」とだけ書かれていますので、「あなたが言う通りだ」と肯定的な意味に捉えることもでき、そのように考える人もいます。

いずれにせよ、更なる追撃が必要と思ったのか、祭司長たちが、いろいろと主イエスを訴えます。祭司長たちの訴えの内容をマルコは書きませんが、ルカ23:2では三つ挙げています。一つ目は、「民を惑わし」で、民を扇動する扇動罪です。しかし民を実際に扇動しているのは主イエスではなくて、祭司長たちです。

二つ目は、「皇帝に税を納めるのを禁じ」で、納税拒否です。しかし主イエスは12:17で、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と納税を勧めています。三つ目は、「自分が王たるメシアだと言っており」、初めの反乱罪です。

ユダヤ人の王ということについて、実際はどうなのでしょうか。ピラトが意味するこの世のローマの支配に反乱を企て、政治的にユダヤを支配しようとする王という意味ではユダヤ人の王ではありません。しかしメシアとして霊的な意味ですべてを支配される意味ではユダヤ人の王であり、すべての人の王です。しかし主イエスは、預言の通りにもう何もお答えになりません。

2、扇動
ところで、祭の度に、ピラトは、人々が願い出る囚人を一人釈放しています。この時は過越しの祭りです。お目出度い行事等に罪人を赦す恩赦は現代でも行われます。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒の中に、バラバと言う男がいます。

群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めると、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言います。ピラトはずる賢い人間で、見抜く目を持っています。祭司長たちが主イエスを引き渡したのは、妬みのためだと分かっています。

祭司長たちの妬みの理由は二つ考えられます。一つ目は、神殿から両替人や商人を追い出す等、自分たちの伝統が否定されて、自分たちの宗教的権威が脅かされたからです。二つ目は、そのようなことをされる主イエスに群衆が心を打たれて支持したからです。人間が神に対して妬むとはとんでもない罪です。

ピラトの、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」という言葉は、ユダヤ人の群衆を馬鹿にして煽っているのかとも思えます。しかしピラトは主イエスの釈放を考えていて、その理由は三つ考えられます。

一つ目は、ピラトは主イエスが群衆の支持を得ていたのを知っていて、群衆は主イエスの釈放を願っていると思っていたようです。二つ目は、これは妬みのためであり主イエスは無罪であることを分かっているので一応は正しいことをするためです。三つ目は、バラバは暴動に関わった人物であり、ユダヤの治安に責任のある立場のピラトとしては、バラバを死刑にしたいと思われます。

ここでもまた祭司長たちが動きます。祭司長たちは、バラバのほうを釈放してもらうように群衆を扇動します。悪事を企む人は、自分の責任を追及されないように、自分の手は汚さず、他の人を唆して悪いことをさせて責任転嫁します。

しかし祭司長たちはどのように群衆を扇動したのでしょうか。バラバは反ローマの暴動の中心人物ですので、ユダヤの愛国者であると訴えたと思われます。一方の主イエスはメシアと期待されていましたが、バラバのようにローマの支配に抵抗することもなく、14:65で殴られ、平手で打たれ、傷だらけになって腫れていると考えられます。このような者が本物のメシアであるはずがないと訴えたと思われます。

群衆はいつの時代も扇動され易いものです。しかしピラトはユダヤの地の最高権威者である総督であり、これは妬みのためと分かっているのですから、正義を行うべきです。しかし、ピラトは群衆に媚を売るように、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言います。

群衆が、「十字架につけろ」と叫ぶと、ピラトは、「一体、どんな悪事を働いたというのか」と言います。言うことが後手後手になっています。「何も悪事を働いていないのだから無実である」と初めに宣言すれば良かったはずです。

しかし、群衆はまずます激しく、「十字架につけろ」と叫びます。そして、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放します。そして、主イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡します。ピラトは日和見主義的な情けない姿に見えます。

ただピラトにも事情があります。ピラトの上司で皇帝の執政官であるセヤーヌスが紀元31年に失脚して、ピラトは後ろ盾を失っています。そこでユダヤ人はピラトに、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています(ヨハネ19:12)」と言って脅されています。ピラトはこのような脅しに屈服します。

3、十字架の責任
この聖書個所の最後に、ピラトは主イエスを十字架につけるために引き渡します。主イエスが十字架につけられて命を献げられることになる責任はどこにあるのでしょうか。14:62で、主イエスは、すべての人の罪の赦しのために十字架につかれる決意を持って、敵対する祭司長たちにご自分からメシアであると答えられました。

しかし、だから言って無実の主イエスを十字架につける人間の責任が無くなる訳ではありません。多くの人の罪が責任として関わっています。大きくは四つのことが考えられ、人間の側の責任、罪の第一は、今日の箇所で祭司長たち、律法学者たちの「妬み」です。妬みは人を殺すところまで行き着く恐ろしいものです。

責任の第二は、主イエスを捕らえる実行役を果たしたユダです。ユダは主イエスがメシアとして、ユダヤをローマの支配から解放することを期待していたようです。しかし自分の思いが叶えられないと分かると、主イエスを裏切り、金と引き換えに主イエスを祭司長たちに売り渡しました。

責任の第三は、祭司長たちに扇動された群衆です。群衆は、祭司長たちのように宗教的な専門知識は無く、宗教的な権威者である祭司長たちの影響を受け易いのは分かります。扇動を行なった祭司長たちに責任があるのは勿論です。しかし群衆は良く分からないのであれば、無責任に人の命に関わることに、「十字架につけろ」などと言うべきではありません。

責任の第四は、妬みが原因であると分かっていながら、群衆を満足させるために、主イエスを十字架につけることを決めた無責任なピラトです。使徒信条で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますが、少し違和感を覚えていました。

ピラトは主イエスが引き渡されたのは、妬みが原因であると分かっていて、ピラトなりに主イエスを釈放しようと努力はしました。しかし群衆に押し切られて、十字架につけることにしました。ピラトもそれなりに苦しい立場であったのは分かります。

十字架の発端は、祭司長たちの妬みです。なぜ使徒信条は、「祭司長たちの妬みにより、十字架につけられ」ではないのでしょうか。それは四つの責任の中で一番重いのがピラトだからです。ピラトはユダヤ地方の最高権力者であり、他の三つのことが実行されていても、ピラトが無罪と言えば主イエスの十字架は無かったからです。
最高権力者が自分の保身のために無実の人を死刑にするなどとんでもないことです。権威を持つ者は同時に責任を問われます。ピラトは総督でありながら総督の正しい責任を果たさなかったために二千年後の現在も使徒信条で告白されるようになっています。

主イエスはここに挙げた四つのグループの人たちの責任によって十字架につけられます。四つのグループの人たちを非難するのは簡単なことです。しかしこれらは私たちには関係無いということではなく、私たちにも関わるものです。

第一の妬みについて、私たちも無意識の内にもいつの間にか他の人を自分と比べて妬んでしまうことが多かれ少なかれあります。その妬みが抑えきれなくなり殺人事件になってしまうことは現代でもあります。妬みは、ガラテヤ5:19から始まる肉の行いの一つですので、気付いた時点で直ぐに神に取り除いていただく必要があります。

第二のユダの自分の思いが叶えられないと自分勝手に振る舞うことも、私たちもしがちです。主イエスがゲツセマネで祈られた通り、「私の望みではなく、御心のままに(14:36)」と祈らせていただきましょう。

第三の祭司長たちに扇動される群衆ですが、私たちも自分が良く知らないことについては、専門家の意見の影響を受けて流され易いものです。しかし良く知らないことでも信仰者には聖霊の導きがありますので、祈り求めるなら正しい御心は示されるはずです。悪い目的のために利用されない注意が必要です。

第四の自分の保身のために正しい人を見捨てて犠牲にすることは現代でも起こることです。私たちも、どのように振る舞うべきか聖霊の導きを求めて、自分に与えられている役割を御心に従って正しく果たさせていただきたいと願います。

このように考えますと、主イエスの十字架の責任は現代を生きる罪を持つ私たちの一人一人にもあります。他の人のことではなく、主イエスの十字架の責任は私にあります。そのような私たちの罪、私の罪の赦しのために主イエスは十字架につかられました。

主イエスの十字架の責任は自分にあると認めて、悔改める者の罪はすべて赦されます。主イエスが私の罪のために十字架についてくださったことを感謝しましょう。そして聖霊の力によって罪から解放されて、御心に従って喜び生きる者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは様々な人の罪のために、ユダヤ人の王として十字架につけられました。一方で、主イエスはユダヤ人の王であるだけではなく、全世界の王として、すべての人の罪の赦しのために自ら十字架につかれました。主イエスに贖われる者として、聖霊によって自らの罪を十字架につけていただき、御心に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。