「泣き崩れるペトロ」

2026年5月3日 礼拝式説教  
マルコによる福音書14章66~72節
        
主の御名を賛美します。

1、 ペトロの否認
53節で人々は主イエスを大祭司のところへ連れて行き、54節でペトロは遠くから主イエスの後に付いて、大祭司の中庭に入りました。今日の箇所はその続きの内容です。大祭司の中庭には誰でも入れる訳ではありません。

ヨハネ18:16によると大祭司の知り合いのもう一人の弟子であるヨハネが、門番の女に話してペトロは入りました。ヨハネは裕福な家の出身で大祭司と知り合いのようです。ペトロは主イエスがどのようになるのかを見届けようと思ったのでしょう。

ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司の召し使いの女の一人が来て、ペトロを見て、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」と言います。ヨハネによるとこの女はペトロを中庭に入れた門番の女です。女の指摘に対してペトロは打ち消して、「何を言っているのか、分からない。見当もつかない」と言います。

このような答えは現代でも聞くことがありますが、打ち消すというよりも、とぼけた答えです。はっきりと打ち消すのなら、「一緒にいたことはない」と言うでしょう。しかし、「何を言っているのか、分からない」というのは、相手の言っていることが想像もつかない意味不明ということです。

しかしペトロは明らかに動揺します。庭口の方に出て行きます。これは取敢えずその場を離れたい思いと、いざという時に外に出易い所に移動しているのでしょう。鶏が鳴いて、ペトロは聞こえてはいるでしょうが、頭の中は真っ白で上の空です。

ルカ22:58によると、この後に、少し時間が空いています。召し使いの女はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだします。召し使いの女は、一回目はペトロ個人に対して言っていますが、二回目は、周りにいる人々に言っていて、騒ぎは段々と大きくなって行きます。

この女はなぜこのようなことをするのでしょうか。女に好意的に見ますと、自分の主人である大祭司に敵対するグループの一人であるペトロを告発する、主人に忠実な召し使いと言えます。しかしどちらかと言いますと、有利な立場にいる者が、弱い立場にいる者をただいじめているようです。

ペトロは、再び打ち消して、またしばらく時間が空きます。ルカ22:59では一時間ほどたったとあります。今度は、居合わせた人々がペトロに、「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」と言います。さらに騒ぎは広がっていきます。ガリラヤの者と分かった理由は、「言葉のなまり(マタイ26:73)」からです。

ペトロはガリラヤの人間で、しかも漁師ですので、なまりも強かったのでしょう。しかしこの時は過越しの祭でガリラヤからの巡礼者もいると思われます。とぼけようと思えば、確かに私はガリラヤの者だけれど、それがどうかしましたかと言えるかも知れません。
ところが真っ直ぐな性格のペトロは動揺しているのでしょう。むきになって、呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めます。呪いの言葉を口にするというのは、もしも私が嘘を付いているのなら自分は呪われよという意味です。

騒ぎが大きくなって来ていますのでペトロも強く否定します。ペトロは前に主イエスに、「あなたは、メシアです(8:29)」と告白しました。そのペトロが今やメシアを、「そんな人」と呼んで誓います。するとすぐ、鶏が二度目に鳴きます。

ペトロは数時間前に、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう(30節)」と言われたの主イエスの言葉を思い出して、泣き崩れます。鶏の鳴き声がペトロのもらい泣きの切っ掛けになったのかも知れません。

2、泣き崩れるペテロ
ペトロが泣き崩れたのはどのような理由からでしょうか。ペトロの、「あなたは、メシアです(8:29)」の告白に対して、主イエスは、「あなたはペトロ。・・・私はあなたに天の国の鍵を授ける(マタイ16:18、19)」と言われました。ペトロは自他共に認める弟子たちのリーダーです。

それでリーダーらしく、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません(29節)」と決意を宣べました。また、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません(31節)」と数時間前に誓いました。

しかしゲツセマネに行った時に、主イエスに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい(38節)」と言われましたが眠ってしまいました。ペトロには何が足りないのでしょうか。またペトロは何に頼って生きているのでしょうか。

ペトロだけではありませんが他の弟子たちも、自分の力に頼って、自分の思いに信頼して生きています。ペトロが泣き崩れた理由は大きく二つ考えられます。一つ目は、自分が信頼していた自分自身があっけなく崩れ去り、自分を情けなく思ったのでしょう。自分自身に対する失望の悲しみと言えます。

しかしこれはペトロだけのことではなく、日本でも人生は自分の力で生きていくものと考えられ、またそのようにも教えられます。ペトロと弟子たちが、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません(31節)」と言った時には、主イエスは何も答えられませんでした。

それは言葉で説明して分かることではなく、自分で体験をしなければ学べないことだからです。31節の言葉の直ぐ後に、ペトロを含む弟子たちはゲツセマネで、主イエスに、「目を覚ましていなさい」と言われても眠ってしまいました。

その時に主イエスは、31節の弟子たちの言葉への答えの意味も含めて、「心ははやっても、肉体は弱い(38節)」と言われました。同じようなことは誰もが経験することです。肉体の原語のサルクスという言葉には、「人間の性質・本性・弱さ・無力」等の意味があります。

ここでは特に人間の性質・本性はあらゆる意味で弱く、無力です。これはペトロだけのことではなく、私たちを含めてすべての人間について言えることです。誰でも幸いを願うものですが、幸いを求める時に大切なことは初めに人間の弱さを正しく知ることです。

もしもペトロが、「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません(29節)」の自分の言葉の通りに、自分の力で行なえるのであれば、神を必要とし、罪の赦しを必要とするでしょうか。ペトロが何でも自分の思い通りにできるのであれば、この後に主イエスがつかれる十字架を必要と思わないでしょう。

Ⅱコリント12:9は、「力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言います。人間が自分の力に頼っているところには、神の力が現れる余地がありません。しかし人間が自分の弱さを認めて、神により頼むところに神の力は現れます。

ペトロは弟子たちのリーダーであり、この後に大いに用いられることになりますので、人間の弱さを良く知るために、自分の口で主イエスを三度知らないという自分の弱さを経験する必要があったのでしょう。

聖書の話等を聞いて、「大丈夫です。私は間に合っています。自分の力で生きていきます」という方もいます。本当に神なしで、この世の人生を自分の力だけで生きていける、間に合っている人がいるのでしょうか。自分の弱さを素直に認めて、弱さにこそ働いてくださる神をお迎えして幸いな人生を歩んでいただきたいと願います。

3、主イエスの愛
ペトロが泣き崩れた理由の二つ目についてですが、ゲツセマネで主イエスに目を覚まして祈っていなさいと言われても、ペトロを含む弟子たちは三度眠ってしまいました。しかし主イエスはそのことを何も責められません。そこから諭すように、「心ははやっても、肉体は弱い」と教えられます。

また主イエスはペトロが自分を知らないと三度言うことを前もってご存じでしたが(30節)、そのことについて何も責めるようなことは言われません。逆に主イエスは、「私は信仰がなくならないように、あなたのために祈った」とペトロに事前に伝えています(ルカ22:32)。

主イエスはペトロが自分を知らないと三度言うことをご存じの上でペトロを愛し抜かれます。しかしペトロは自分の立場が危うくなると、舌の根も乾かない内に、直ぐに主イエスを知らないと三度も言ってしまいました。

ルカ22:61によると、ペトロが三度主イエスを知らないと言って鶏が鳴いた時に、「主イエスは振り向いてペトロを見つめられた」とありますので、二人の視線が合ったと思われます。ペトロが泣き崩れた理由の二つ目は、自分のことを知らないと言うことをご存じの上でペトロを愛し抜かれた主イエスを、知らないと言ってしまった主イエスに対する申し訳なさと思われます。

ペトロは自分でも自分に失望する程に情けない状態です。しかしそのような自分を主イエスは見捨てずに徹底的に愛し抜いてくださっていることにペトロは気付くことになります。この主イエスのペトロに対する愛がペトロを悔改めへと導くことになります。
今日の聖書箇所には、「ペトロ、イエスを知らないと言う」という小見出しが付いていて、ペトロの名前が8回出ています。そうしますと今日の話のテーマはペトロのような感じがします。私も迷いましたが、説教題は一応、「泣き崩れるペトロ」としました。

しかしこの聖書箇所を原語のギリシャ語で見ますとペトロの名前は半分の4回です。後の4回はギリシャ語では「彼」と書いてありますが、日本語では「ペトロ」と訳しています。これは深読みし過ぎかもしれませんが、原語ではペトロの名前を4回にしていることには意味があると思います。

ユダヤの文化では数字に深い意味があります。「4」の数字は、四方、世界への広がりという意味があります。そこでペトロの名前が4回というのは、これはペトロだけのことではなく、人は皆、ペトロと同じようなものであるという意味が込められているように思われます。

またマルコと他の共観福音書(マタイ、ルカ)では、この後にはペトロと名前が書かれて登場はしません。マルコはペトロの通訳だったと考えられていますのでペトロのしたことは良く知っているはずです。

もし今日の聖書箇所のテーマがペトロであるのなら、ヨハネ21:15~19に書かれている主イエスがペトロに、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と三度尋ねる大切な場面を入れるはずです。しかしその出来事を知っているはずのマルコが何も書かないというのは、この箇所のテーマはペトロではないようです。

そうしますと今日の内容のテーマは、聖書には何も書かれていませんが、ペトロが三度知らないということをご存じの上で、愛されていた主イエスの愛であると言えます。私たちもペトロのように、自分で自分の思い通りにすることができずに泣き崩れることがあります。

泣き崩れるような経験はできることなら避けたいものですが、ペトロのようにそのような経験を通してでなければ学べないこともあります。そして主イエスはペトロだけではなく、ペトロのように主イエスの御心に反したことをしてしまう私たちを愛し続けてくださいます。

主イエスは御心に反したことをしてしまう私たちの罪のために十字架についてくださいました。自分の力を過信するのではなく、聖霊の導きに従って弱さを素直に認め、弱さにこそ働いてくださる神に信頼して幸いな歩みをさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ペトロは、「自分はつまずかない、主イエスを知らないとは決して言わない」と固い決意を持っていましたがあっけなく崩れ去りました。家を砂の上に建てるのではなく、主イエスの岩の上に建てて、平安な歩みをさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。