「主の戦い」
2026年8月30日礼拝式説教
ヨシュア記 8章1~43節
主の御名を賛美します。
1、主の戦い
ヨシュアがエリコとアイを占領し滅ぼした話を、9:1にありましたように、アモリ人の五人の王も聞きました。このときのエルサレムはイスラエルが占領をする前ですので、王も国民もアモリ人です。また自分たちの直ぐ隣りの大きな町であるギブオンの住民が、敵対するイスラエルと和平を結んだことを聞くと、敵が接近するエルサレムの人々は非常に恐れました。
これはロシアが、隣りの国であるウクライナがロシアと対立するNATOに入りたいと言って恐れたのと同じです。戦いを始める動機の一つとなるのは、このままだと自分の立場が危険になると思う恐れです。
エルサレムの王は、同じアモリ人である、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの王たちに使者を送り、「私のもとに上り、私を助けて、共にギブオンを討ちましょう。ギブオンがヨシュアおよびイスラエルの人々と和平を結んだからです」と言います。敵であるイスラエルと手を組んだ裏切者のギブオンを共に討ちましょうということです。
アモリ人の五人の王が結集し、その全軍勢を率いて攻め上り、ギブオンに向けて陣を敷き、戦いを仕掛けます。ギブオンの人々はギルガルの陣営にいるヨシュアに、「早く上って来て、私たちを救い、助けてください」と言って助けを求めます。イスラエルとギブオンの契約は一方が他の国から攻められたら助ける安保(安全保障)条約のようです。
主はヨシュアに命令として「彼らを恐れてはならない」と、アイの攻撃に一度失敗し、再度出撃する8:1と同じ言葉を言われます。命令に伴なう約束、理由として「私が彼らをあなたの手に渡すからである。彼らの誰一人として、あなたの前に立ちはだかることはできない」と言われます。
この御言葉は三つの意味を含みます。一つ目は、今日の説教題は「主の戦い」で、表面的に軍事的に戦うのはイスラエルですが、実際に戦われるのは主であり、主の戦いです。二つ目に、アモリ人の五人の王が結集する全軍勢と戦うのは大変ですが、一人一人と戦うのではなく、一度に纏めて滅ぼすのが主のご計画です。
三つ目に、先週の申命記20:17で、ギブオンの住民である、「ヒビ人は必ず滅ぼし尽くさなければならない」と主は言われました。しかし先週の9章で、ギブオンの住民はイスラエルを欺くまでして、主に自分たちを委ねて救いを求めました。そのギブオンの住民を主は受け入れ、救われるということです。
ヨシュアはギブオンに欺かれたにも関わらず、主に誓った契約を守り、夜を徹してギルガルから攻め上ります。ギルガルからギブオンは約30kmで、上りが1kmありますのでとても大変です。イスラエルはギブオンで彼らに大打撃を与え、彼らがイスラエルからの前から逃れ、ベト・ホロンの下り坂にさしかかったとき、主は大きな石のような雹を降らせました。
それはアゼカに至るまでと言いますので、20km以上降り続いたので、多くの者が死にました。
雹が偶然に降ったとしたらイスラエルにも被害が出るはずですが、イスラエルには被害は無く、アモリ人の兵だけが死にましたのでこれは完全な主の御業です。石のような雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かったのですから、正に主の戦いです。
2、ヨシュアの祈り
主がアモリ人をイスラエルの人々の手に渡された日、ヨシュアはイスラエルの見ている前で主に、12、13節の「」を語りました。これは単に太陽と月がとどまる奇跡を祈ったのではありません。終わりに、「民がその敵に報復するまで」とありように、報復をするのに明るい時間が必要なので、そのために明るい時間がとどまるようにという願いです。
その祈りは聞かれ、太陽は丸一日、中天にとどまりました。それは主がイスラエルのために戦われたからであり、主の戦いであることが強調されます。似たような奇跡はイザヤ38:8で、ヒゼキヤに日時計の影が十度戻る奇跡が示されています。このような奇跡をどのように受け止めたら良いのでしょうか。
私たち日本ホーリネス教団を含む福音派は、基本的に聖書の言葉を神の霊感による言葉としてそのまま受け入れます。ただ旧約聖書はイスラエルの文化・習慣によって書かれていますので、福音派でも詩的な表現であると受け止める考えもあります。ヨシュアと全イスラエルはギルガルの陣営に戻りました。
3、アモリ人の五人の王
16節以降は時間的に15節の後のことではなく、時間的には15節の前の内容と考えられます。時間的には15節と43節は同じことなのかも知れません。これまでも一度話が終わって次の話だと思うと、時間的に話が前に戻って他の話や、他の角度からの同じ話が何度もありました。現代の日本語の文章からしますと変わった感じがしますが、それが当時のヘブル語の文章のようです。
アモリ人の五人の王は逃走し、マケダの洞穴に隠れます。自分たちが不利になるとトップの人間だけは直ぐに逃走して隠れることはいつの時代でも良くあることです。五人の王のことがヨシュアに知らされると二つのことを命じます。
一つ目は、「大きな石を転がして洞穴の入り口を塞ぎ、見張りの兵を置きなさい」で、二つ目は、「あとの者はそこにとどまらず、敵を追いかけ、背後から攻撃しなさい」です。私たち人間は感情的に行動をし易いものです。イスラエルの感情的には自分たちへの攻撃を企んだ五人の王を直ぐにでも打ちのめしたいところでしょう。
しかし信仰者は主が何を計画され、御心が何であるのかを考える必要があります。ヨシュアは五人の王のことよりも、敵への攻撃を優先します。その理由は、「あなたがたの神、主は彼らをあなたがたの手に渡されたから」です。主の計画に従うのが信仰者です。
「ヨシュアとイスラエルの人々が彼らを徹底的に打ちのめし、ついに全滅させた」(20節)というと、日本語的には一人残らず滅ぼした感じがします。しかしその後に、「辛うじて生き残った敵の兵は城壁に囲まれた町に逃げ込んだ」とありますので、厳密には全滅をさせていません。ヘブル語は意味を強調するために誇張的な表現を使います。
イスラエルの兵が皆、マケダの陣営にいるヨシュアのもとに無事、帰還すると、ヨシュアは五人の王を彼のもとに引き出させます。そしてヨシュアはイスラエルの兵士全員を呼び寄せ三つのことをします。一つ目は、自分と行動を共にした戦士たちの指揮官に、自分たちの足で王たちの首を踏みつけさせます。
私たちの感覚とすると、とても残酷な感じがして、敵とはいえ、負けた相手にそこまでする必要は無いように感じます。しかしこれは負けた敵への支配を示す当時の習慣です。その表現が使われている例の一つが、詩編110:1の「主は、私の主に言われた。『私の右に座れ 私があなたの敵をあなたの足台とするときまで』」です。
二つ目に、彼らに、「恐れてはならない。おののいてはならない。強く、雄々しくあれ。あなたがたが戦うすべてに対し、主はこのようにしてくださるのだから」と言って励まします。それはこの後も戦いは続いて行くからです。三つ目は、彼らを打ち殺します。そして人々は彼らが隠れていた洞穴に死体を投げ捨て、洞穴の入り口に大きな石を置いて、今日に至っています。
4、六つの町の占領
ヨシュアはアモリ人の五人の王を殺した後に、六つの町を占領します。それはマケダ(28節)、リブナ(29節)、ラキシュ(31節)、エグロン(34節)、ヘブロン(36節)、デビル(38節)です。
六つの町の内、ラキシュ、エグロン、ヘブロンは、既に殺したアモリ人の五人の王の町です。このようにして、ヨシュアは山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地などこの地のすべてを討ち、王たちを一人も残さず、息のあるものすべてを滅ぼし尽くしました。主が命じられたとおりです。
ヨシュアが占領したカナンの南部は自然の地形によって、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地に分けられています(地図3 カナンの分割)。山地はエルサレムから南に延びるユダの高地、ネゲブは南の意味で荒れ野、シェフェラは低地の意味で高地と地中海沿岸平野との間の丘陵地帯、傾斜地はユダの高地とネゲブから死海に下って行く傾斜した地帯です。
ヨシュアは、カデシュ・バルネアからガザまで、ゴシェンの全土をギブオンに至るまで討ち取りました。
カデシュ・バルネアからガザまでは、占領した土地の西側の南から北への境です。ゴシェンの全土をギブオンに至るまでは、ユダの山地の南から北の境までです。これらすべての王と土地を、ヨシュアは一度に捕らえ、占領しました。それは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからです。主の戦いです。
5、主の戦い2
私たちはヨシュアが10章でカナンの南部を占領したような戦いを実際に行うことは恐らくありません。しかしかたちは違ってもアモリ人の五人の王が結集して攻撃を仕掛けて来るようなことを経験することがあるかも知れません。
しかし主はヨシュアに言われたように私たちにも、「彼らを恐れてはならない。私が彼らをあなたの手に渡すからである。彼らの誰一人として、あなたの前に立ちはだかることはできない」と言われます。
それは私たちの戦いではなく、悪を滅ぼす主の戦いであるからです。
私たちが注意を払うのは敵ではなく、あくまでも自分自身です。祈り、聖霊の導きを求めて、自分自身が本当に御心に従っているかを探っていただきます。もしもずれている部分を示されるなら直ちに修正を行います。そうでなければ、主のさばきは自分に向けられるからです。
しかし主の御心に従っていると聖霊による確信を与えられるなら恐れる必要はありません。主の戦いであり、主が戦ってくださいます。私たちが行うのは、ただ主の指示に従うだけです。ヨシュアがカナンの地を占領して行くことは、私たちとどのような関わりがあるのでしょうか。二つのことが考えられます。
主が戦われ、イスラエルがカナンの地を占領して行くことは、イスラエルにとっては喜ばしいことであっても、カナンの地の先住民にとっては大きな迷惑のように思われます。しかしカナンの地がイスラエルに占領される理由は、先週の申命記20:18にありましたように、「彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行い」のためです。
カナンの地の悪が満ちたために、主はイスラエルを用いて先住民を滅ぼされます。そのことを考えますと現代の私たちが滅ぼすべき一つ目は、私たち自身の中にある悪や忌むべき行いです。そのことも私たち自身が行うというよりも、主が悪と戦って滅ぼされます。私たちは悪と戦ってくださる主の指示に従うだけです。
このことは毎日のデボーション等を通しても行われます。またレビ記23:3は、「六日間労働し、七日目は完全な安息の日として、聖なる集会を開きなさい」と言います。毎週、行われる礼拝式は聖なる集会である聖会であり、礼拝式を通して自分の中を探っていただき必要な悔い改めを行います。そして御心を行う者へと変えられて行きます。
また礼拝式とは別に聖会も行われ、来月の9月22日には千葉聖会が行われます。聖会は参加すれば自動的にきよくなるという訳ではないかも知れません。主を心から礼拝し、主の支配にすべてを委ね、悪い思いを滅ぼし尽くして、新しく造り替えていただく機会です。
また二つ目のことは自分の外側にあることです。自分の外側のことで自分だけが関わることでしたら変えること自体は難しくないかも知れません。しかし他の人が関わっていることの場合には難しい場合もあります。例えば神棚や仏壇等です。自分が取り除きたいと思うものを大切にしている人もいるからです。
そのようなときには自分の考えを独善的に考えるのではなく、他の人の思いも大切にしつつ、祈り、御心を求めて行く必要があります。主は正しいことを求められると共に、平和を大切にされます。聖霊の導きに従って、主にある平和を大切に、主の御心を求めて行きましょう。
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ヨシュアとイスラエルは主が先導される戦いを進んで行きます。私たちも自分の内側、また外側にある悪いものを取り除いて、主の道を真っ直ぐに進ませてください。また聖霊の導きに従って、決して独善的になることなく、主にある平和の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
