「賢く立ち回ったギブオン人」 

2026年8月23日礼拝式説教 
ヨシュア記9章1~27節

主の御名を賛美します。

1、ギブオンの交渉

イスラエルがエリコに続いてアイを滅ぼした話は広まりました。これを聞いた人たちは二種類の反応を引き起こします。一つ目は、ヨシュアとイスラエルに対し一致団結して戦おうとする1節のカナンの地の王たちです。神の御心を行って行くときに、反対する勢力が増して行くこともあります。

この王たちは、あの小さな町であるアイが一度はイスラエルを打ち負かしたのだから何とかなるかも知れないと思ったのかも知れません。このようなことは現代でも起こることです。色々な人の集まりに新しい手強そうな人が入って来るときに、古いメンバーが皆、一致団結して戦うことがあります。「敵の敵は味方」の理屈です。

もう一つはイスラエルと契約を結ぼうとするギブオン(「丘」の意)の住民で、ギブオンの他に17節bの3つの町です。ギブオンは10:2によると、大きな町でアイよりも大きく、男たちは皆、勇士です。ギブオンはイスラエルと契約を結びたいと願っていますが、一つ問題があります。それはイスラエルがエリコとアイに対して行った聖絶です。

それは申命記20:10~18の命令に基づくことです。主はイスラエルに相続地として与える民の町の聖絶を命じられました。それでギブオン人は正直に自分たちは近くの住民であることをヨシュアに話すことは出来ません。そこで遠い国から来たように見える装いをして、ギルガルにあるイスラエルの陣営を訪れます。

そしてヨシュアとイスラエルの兵士に初めに「私たちは遠い国から参りました」と言い、自分たちは申命記20:15の、「遠く離れた国民の町」に該当することを仄めかせます。そして「どうか今、私たちと契約を結んでください」と言います。

ギブオン人は民族的にはヒビ人で、イスラエルの兵士たちは「あなたは私たちの中に住んでいるのだろう。どうしてあなたと契約を結べようか」と疑います。しかし、彼らはリーダーであるヨシュアに「私たちはあなたの僕でございます」と下手に出ます。

ヨシュアは二つのことを尋ねます。一つ目は「あなたがたは何者か」、二つ目は「どこから来ているのか」です。一つ目の「あなたがたは何者か」について彼らは三つのことを答えますが、ここでも一番初めに、「僕どもは、はるか遠い地から参りました」と遠い地の国民であることを強調します。

二番目に、「あなたの神、主の名のゆえに参りました」と主に対する信仰的なことを言います。主がエジプトでなさったすべてのこと、またヨルダン川の東側のアモリ人の二人の王になさったすべてのことについて噂を聞いたからと主に対する信頼を宣べます。

ここでもギブオン人は巧妙です。自分たちは遠い国から来たと言っているので、イスラエルの昔の出来事だけを言って、最近の出来事である、イスラエルのエリコやアイの占領は知っているのに、知らない振りをして触れません。

三番目に、私たちの長老や、この地の住民が皆、「旅の食料を携え、彼らに会いに行き、『私たちはあなたがたの僕です。どうか今、私たちと契約を結んでください』と言いなさい」と言われて来た者であると言います。これは申命記20:11の降伏を受諾していることです。

ヨシュアの質問の二つ目の「どこから来ているのか」については、遠い国から来た証拠として、乾いてぼろぼろになったパン、破れたぶどう酒の革袋、古びた上着とサンダルを見せて、はるかな長旅のために古びてしまったと主張します。細かい周到な準備と共に、ギブオン人の答えはとても謙遜で信仰的に聞こえます。

2、ギブオンとの契約

そこでイスラエルの人々は食料の一部を受け取りました。相手の食料を受け取ることは和解と平和のしるしです。この時の判断は常識的には間違ってはいないと思われます。しかし信仰者として大きな間違いを犯しました。それは主の指示を求めることをしませんでした。

ヨシュアは7:4でも、主の指示を求めることをせずに、自分たちの判断で一回目のアイへの攻撃をして失敗しています。ヨシュアは主によってモーセの後継者に選ばれ、立てられたリーダーですが、失敗を繰り返しつつ、学んで行きます。

ギブオン人の答えはとても謙遜で信仰的に聞こえますが、そのような答えが真実であるとは限らないのは現代でも同じです。いつでも主の指示を求めることが必要です。ヨシュアは彼らと和平を結び、彼らの命を保障する契約を結び、会衆の指導者たちも彼らに誓いました。

契約を結んで三日が過ぎたときに、イスラエルの人々は、彼らが近くの者であり、自分たちのうちに住んでいることを聞きます。「出発して、三日目に彼らの町に着いた」は分かり難い文章ですが、ギルガルからギブオンは30km位ですので、契約から三日目に彼らの町に着いたという意味のようです。イスラエルの人々は、どのような思いであったでしょうか。

しかし会衆の指導者たちが主にかけて彼らの命を保障する誓いを立てていますので、イスラエルの人々は攻撃をできません。会衆としては、四つの町を占領をすることができず、戦利品を奪うこともできませんので不平を言います。

それに対して指導者たちは、主にかけて彼らに誓ったために彼らに触れることはできないので生かしておこうと言います。またそのことについて会衆を納得させるために二つのことを言います。一つ目は、私たちが主にかけて彼らの命を保障する誓いをしたので、彼らを生かしておいても私たちの上に主の怒りが下ることはないだろうということです。

二つ目は、「彼らを生かしておき、会衆全体のために薪を集める者、水を汲む者としよう」と奴隷として使えば便利であると言って、そのとおりになりました。

3、賢く立ち回ったギブオン人

ヨシュアはギブオンの住民を呼び寄せ、「あなたがたはなぜ、『私たちは、はるか遠く離れた所にいる者です』と言って、私たちを欺いたのか。・・・今からあなたがたは呪われ、奴隷となる」と言います。ヨシュアの言い分は最もです。

説教題は4節の御言葉から、「賢く立ち回ったギブオン人」としました。しかしギブオン人は遅かれ早かれ時間が経てば必ず明らかになる嘘を付いて、ヨシュアの怒りを買って、呪われ、奴隷となります。そのような立ち回りが「賢い」のでしょうか。賢い立ち回りはそのような意味ではないようです。

彼らはヨシュアに二つのことを答えます。一つ目は、「あなたの神、主がその僕モーセに、『この地のすべてをあなたがたに与え、この地の住民をことごとく滅ぼすように』とお命じになったことを、僕どもは伝え聞いております。あなたがたのゆえに命を失うのを恐れるあまり、このようなことをしたのです。」

ギブオン人はイスラエルの神を信じるというより、イスラエルの神は色々な奇跡的な御業を行い力があることを知っています。そこで1節の王たちの国と協力をしても勝てません。また正直に自分たちはヒビ人であると言ったら、申命記20:17の規定によって滅ぼされます。

ギブオン人が命を失わないですむ唯一の方法は彼らが行ったとおりにイスラエルに嘘を付いて欺くことでした。遅かれ早かれ時間が経てば嘘は必ず明らかになり、それによって呪われ、奴隷とされると分かっていても、ギブオン人は何とかして生き延びることを選びました。

「ギブオンの男たちは皆、勇士」(10:2)とあります。勇士は戦いを冷静に分析し、勝ち目のない戦いを避けます。戦いに負けることは、自分たちの命を失うだけではなく、女性や子どもの命も失うことです。また戦わずに奴隷となることは、屈辱的なことであり自分を捨てなければできないことです。

世界的に色々な戦争が起きています。毎日のように今日は○○の攻撃で○○名の人が死傷したというようなことが報道されています。ロシアとウクライナの戦争は4年半も続いていて、余り進展も見えないような中で、消耗品のように人の命が毎日失われ続けています。

命をかけて戦い自分の国を守ることの大切さも分かります。しかしあらゆる手段を用いて命を失うことを避けたギブオン人の立ち回りから私たちが学ぶことがあるように思います。ギブオン人が賢く立ち回ったことの一つは、あらゆる手段を用いて自分たちの命を失うことを避けたことです。

ギブオン人はヨシュアに二つ目のこととして、「今、私たちはあなたの手の中にあります。あなたの目に適う良いこと、正しいと思われることを私たちにしてください」と答えます。これはとても大胆な答えです。それは嘘を付かれて欺かれ、怒って呪いの言葉を口にしているヨシュアに自分たちのすべてを委ねることです。

一見するとそのように見えますが、ギブオン人はヨシュアもその前のリーダーのモーセも、イスラエルの神に従っていることを知っています。ヨシュアに自分たちの身を委ねることは、ヨシュアの神である主にすべてを委ねることです。ヨシュア記はヨシュアが書いたと考えられています。

ヨシュアが、「ギブオン人は賢く立ち回った」(4節)ということの一番大きな意味は、ギブオン人がイスラエルを通して自分たちのすべてを主に委ねたことです。主に従うヨシュアは、ギブオン人から、「あなたの目に適う良いこと、正しいと思われることをしてください」と言われて、悪いことはできません。

ヨシュアはギブオン人の言葉のとおりに行い、彼らをイスラエルの人々の手から救ったので、殺されませんでした。ヨシュアはギブオン人を会衆のため、また主の祭壇のために、定められた場所で薪を集める者、水を汲む者として、今日に至っています。

その後のイスラエルの歴史を見ますと、ギブオン人はイスラエル人のうちに編入されたようです(ネヘミヤ3:7、7:25)。同じ場所で生活していますと自然とそのように同化されて行くようです。

今日の聖書箇所のギブオン人とイスラエル人のそれぞれの姿から大切なことを教えられます。ギブオン人は滅びの危機の中で、自分たちのプライド等、すべてを捨てて謙って、主にすべてを委ねることによって、救いに与りました。

これは現代でも全く同じであり、救いのための主イエスの十字架は既に用意されていますので、聖霊の導きに従って、貪欲に救いに与らせていただきましょう。

一方で、すべてのことは主の御手の中にあることではありますが、イスラエル人はとても謙るギブオン人の言葉を鵜吞みにしてしまい、主の指示を求めることをしませんでした。自分の目にはいくら明らかに見えることであっても、狡猾な者に欺かれることのないよう、いつも祈り、聖霊の導きによる主の指示に従って、祝福の道を歩ませていただきましょう。

4、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ギブオン人は命を失うことを避けるために、プライドを捨てて謙り、あらゆる手段を尽くし、主にすべてを委ね救いに与りました。その姿は現代を生きる私たちへの大切なメッセージのように覚えます。私たちも聖霊によって主にすべてを委ね、救いに与り、主の指示を求め続け、祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。